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第一部:オフィス侵攻編
第十四話:未定義の新人、あるいはシステムへの侵入者
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午前六時三十分。
死を宣告する死神の鎌のようなアラーム音が、安アパートの薄い壁を震わせた。
フローリングに直接、行き倒れたような姿勢で眠っていた綺羅々は、這うような動作で上半身を起こす。昨夜のストロング缶の空き缶が転がり、福(ハムスター)に供えた「黄金の種」の残骸が散らばっている。
「……あー、脳のデータが、完全に断片化(デフラグ)されてる……。福……お前、なんでそんなに元気なのよ……」
福は高級な種のエネルギーを充填し、回し車を爆速で回している。その規則的な回転音が、二日酔いの頭痛にリズムを刻む。
綺羅々は、鏡の前に這い寄ると、もはや自分でも「修復不可能(致命的なエラー)」と思えるほど酷い顔を見つめた。
「……大丈夫。……塗る。……塗りつぶせば、そこには『正常な私』が存在することになる……」
通常の四倍。もはやペンキを塗るような厚さでコンシーラーを叩き込む。
目の下のクマ、酒焼けした肌のくすみ、そして昨夜の情けない涙の跡。それらすべてを「無かったこと」にするための、聖なる隠蔽作業。
出社した彼女を待っていたのは、部長のいない、透明度の高いオフィスだった。
だが、その透明度は、嵐の前の静けさに過ぎなかった。
「南野先輩……。おはようございます。……あの、部長の席、もう新しい人が決まったみたいですよ」
犬飼が、朝イチで淹れたコーヒー(もちろん砂糖抜き)を差し出しながら、声を潜めて告げた。
綺羅々は、コーヒーを受け取ると同時に、空席だった部長のデスクを、鋭利な刃物のような視線で射抜いた。
「……決まった? 人事部からの正式な通達(アップデート)はまだ来ていないわよ」
「それが、さっき社長室から降りてきた人事部長が言ってたんです。『今度はパッションじゃなくて、もっと――ロジカルな怪物だ』って」
「ロジカルな、怪物……?」
綺羅々の指先が、キーボードの上で一瞬止まった。
その時。
オフィス全体の空気が、一気に数度下がったような感覚。
自動ドアが開き、一人の男が入ってきた。
仕立ての良すぎる紺色のスーツ。乱れ一つない髪型。そして何より、一切の感情を排した、高性能なスキャナーのような瞳。
彼は迷うことなく、かつての『パッション部長』のデスクへ向かい、その椅子に、まるで最初からそこが自分の居場所であったかのように腰を下ろした。
「……おはよう。今日からこの部署のマネジメントを担当する、一条(いちじょう)だ」
その声は、安っぽいバニラの香りなど微塵もしない、消毒液のような清潔さと冷酷さを孕んでいた。
一条はデスクの上に、最新型のノートパソコンを無造作に置くと、フロアの全員を見渡すことなく、ただ一箇所――綺羅々の席だけを見据えた。
「南野綺羅々。……君が、この部署の『非公式なシステム管理者』だな?」
綺羅々の背筋を、氷のような戦慄が走る。
今度の敵は、これまでの「バグ」とは違う。
自分と同じ、数字と論理だけで世界を解体する「同種(プログラム)」の匂いがした。
「……一条様。ご挨拶が遅れました。……事務の南野です。……どうぞ、当部署の不備(バグ)だらけのデータを、心ゆくまでデバッグしてください。……本日も、晴天なり、ですから」
綺羅々は、コンシーラーの壁の奥で、自分でも驚くほど冷たい、それでいて狂気を含んだ笑みを浮かべた。
オフィスという名のクローズドな戦場。
最強の事務員と、ロジカルな死神。
データの主導権を巡る、血の流れない戦争が、今、始まった。
死を宣告する死神の鎌のようなアラーム音が、安アパートの薄い壁を震わせた。
フローリングに直接、行き倒れたような姿勢で眠っていた綺羅々は、這うような動作で上半身を起こす。昨夜のストロング缶の空き缶が転がり、福(ハムスター)に供えた「黄金の種」の残骸が散らばっている。
「……あー、脳のデータが、完全に断片化(デフラグ)されてる……。福……お前、なんでそんなに元気なのよ……」
福は高級な種のエネルギーを充填し、回し車を爆速で回している。その規則的な回転音が、二日酔いの頭痛にリズムを刻む。
綺羅々は、鏡の前に這い寄ると、もはや自分でも「修復不可能(致命的なエラー)」と思えるほど酷い顔を見つめた。
「……大丈夫。……塗る。……塗りつぶせば、そこには『正常な私』が存在することになる……」
通常の四倍。もはやペンキを塗るような厚さでコンシーラーを叩き込む。
目の下のクマ、酒焼けした肌のくすみ、そして昨夜の情けない涙の跡。それらすべてを「無かったこと」にするための、聖なる隠蔽作業。
出社した彼女を待っていたのは、部長のいない、透明度の高いオフィスだった。
だが、その透明度は、嵐の前の静けさに過ぎなかった。
「南野先輩……。おはようございます。……あの、部長の席、もう新しい人が決まったみたいですよ」
犬飼が、朝イチで淹れたコーヒー(もちろん砂糖抜き)を差し出しながら、声を潜めて告げた。
綺羅々は、コーヒーを受け取ると同時に、空席だった部長のデスクを、鋭利な刃物のような視線で射抜いた。
「……決まった? 人事部からの正式な通達(アップデート)はまだ来ていないわよ」
「それが、さっき社長室から降りてきた人事部長が言ってたんです。『今度はパッションじゃなくて、もっと――ロジカルな怪物だ』って」
「ロジカルな、怪物……?」
綺羅々の指先が、キーボードの上で一瞬止まった。
その時。
オフィス全体の空気が、一気に数度下がったような感覚。
自動ドアが開き、一人の男が入ってきた。
仕立ての良すぎる紺色のスーツ。乱れ一つない髪型。そして何より、一切の感情を排した、高性能なスキャナーのような瞳。
彼は迷うことなく、かつての『パッション部長』のデスクへ向かい、その椅子に、まるで最初からそこが自分の居場所であったかのように腰を下ろした。
「……おはよう。今日からこの部署のマネジメントを担当する、一条(いちじょう)だ」
その声は、安っぽいバニラの香りなど微塵もしない、消毒液のような清潔さと冷酷さを孕んでいた。
一条はデスクの上に、最新型のノートパソコンを無造作に置くと、フロアの全員を見渡すことなく、ただ一箇所――綺羅々の席だけを見据えた。
「南野綺羅々。……君が、この部署の『非公式なシステム管理者』だな?」
綺羅々の背筋を、氷のような戦慄が走る。
今度の敵は、これまでの「バグ」とは違う。
自分と同じ、数字と論理だけで世界を解体する「同種(プログラム)」の匂いがした。
「……一条様。ご挨拶が遅れました。……事務の南野です。……どうぞ、当部署の不備(バグ)だらけのデータを、心ゆくまでデバッグしてください。……本日も、晴天なり、ですから」
綺羅々は、コンシーラーの壁の奥で、自分でも驚くほど冷たい、それでいて狂気を含んだ笑みを浮かべた。
オフィスという名のクローズドな戦場。
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