16 / 19
第一部:オフィス侵攻編
第十六話:ロジックの亀裂と、ストロングの予感
しおりを挟む
一条が提唱した『抜本的改革』という名のデータ掃除(クリーニング)は、開始からわずか数時間で、現場に深刻な「リソース枯渇」をもたらしていた。
オフィスの空気は、パッション部長時代の「泥沼」から、今や空気が薄く、吸い込むだけで肺が凍りそうな「高山の実験室」へと変貌している。
犬飼は、一条から指定された『完璧すぎる、しかし複雑怪奇な数式』の構築に脳のメモリを使い果たし、モニターの前で白目を剥いていた。その指先は、不慣れなINDEX関数の記述に震え、キーボードを叩く音にはもはやリズムなど欠片もない。
他の社員たちも、一条の「一秒の無駄も、一ピクセルのズレも許さない」という無言のプレッシャーに、タイピングミスという名のバグを量産し始めていた。
(……無能な働き者より、有能な独裁者の方が、組織を壊すスピードが速いのね)
綺羅々は、二日酔いの残滓でズキズキと痛むこめかみを押さえながら、立ち上がった。
彼女は、あえて一条の背後から、一切の気配を消して声をかけた。
手には、彼が作成した「最適化されたスケジュール表」と、現在のフロアの「実測エラー率」を比較した、彼女お手製の折れ線グラフを握りしめている。
「……一条様。ご確認を」
「なんだ、南野くん。……私のロジックに、まだ不服があるのか? 私は君たちの生産性を、理論値で二十パーセント向上させているはずだが」
一条はモニターから目を離さず、氷の破片を吐き出すような声で言った。
綺羅々は、コンシーラーの下で微かに口角を吊り上げる。
「不服ではありません。……ただ、あなたの計算式には、極めて重要な『変数』が欠落しています。……それは、人間という名のハードウェアが持つ『疲労』と『感情』という名のノイズ(誤差)よ。……そして、そのノイズを無視した結果が、これ」
綺羅々は、一条の最新型ノートパソコンのモニターの隅に、一枚の紙を付箋のように、しかし叩きつけるように貼り付けた。
そこには、一条が着任してから急上昇した「入力ミス率」と、給湯室での「コーヒー消費量」の異常な相関図が、冷徹なフォントで描かれていた。
「……一条様。……システムを速く動かすために電圧を上げすぎれば、回路は焼き切れるわ。……今のこのフロアは、あなたのせいでオーバーヒート寸前よ。壊れたハードウェアは、あなたの得意な数式では修理(リペア)できないわよ?」
一条の動きが、初めて止まった。
彼はゆっくりと椅子を回転させ、綺羅々を見上げた。高性能なスキャナーのような瞳が、彼女の三層塗りのコンシーラーを透過し、その奥にある「不屈の事務屋魂」を解析しようと細められる。
「……馬鹿な。……私の計算は、常に最短経路を選択している。感情などは、処理能力を下げるだけのバグだ」
「最短経路が、必ずしもゴールに辿り着くとは限らない。……事務職を舐めないで。私たちは、数字だけじゃなく、その数字を打ち込む『震える指先の震え』まで管理しているのよ。……一条様、あなたのロジックは美しいけれど、この『泥濘(ぬかるみ)』で動かすには、あまりにも潤滑油が足りないわ」
一条の眉が、初めて微かに動いた。
それは、完璧なプログラムに一行の「想定外のコード」を書き込まれた瞬間の、システムエラーのような表情だった。
「……南野綺羅々。……君は、実に面白いバグだ。……だが、そのバグを許容するかどうかは、私の裁量次第だが?」
「……本日も、晴天なり。……さて一条様。……焼き切れる前に、少しだけ『冷却水』の投入(休憩)を許可してくださるかしら? ……部下のメンタルをデリートして、独りで虚無な数字を眺めるのが、あなたの望む『最適化』ではないはずよ」
綺羅々は挑戦的な視線を残したまま、自分のデスクへと戻る。
その背中越しに、彼女は確信していた。
今夜のストロング缶は、二本。……いや、お祝いを兼ねて三本必要だと。
福に、一条の「ロジカルな顔面」がいかに冷たくてムカつくか、そしてそれをどうやって「上書き保存(オーバーライト)」してやったかを、ねっとりと解説してやるために。
「……あー、喉が乾いた。……炭酸が、足りないわ」
オフィスの空気は、パッション部長時代の「泥沼」から、今や空気が薄く、吸い込むだけで肺が凍りそうな「高山の実験室」へと変貌している。
犬飼は、一条から指定された『完璧すぎる、しかし複雑怪奇な数式』の構築に脳のメモリを使い果たし、モニターの前で白目を剥いていた。その指先は、不慣れなINDEX関数の記述に震え、キーボードを叩く音にはもはやリズムなど欠片もない。
他の社員たちも、一条の「一秒の無駄も、一ピクセルのズレも許さない」という無言のプレッシャーに、タイピングミスという名のバグを量産し始めていた。
(……無能な働き者より、有能な独裁者の方が、組織を壊すスピードが速いのね)
綺羅々は、二日酔いの残滓でズキズキと痛むこめかみを押さえながら、立ち上がった。
彼女は、あえて一条の背後から、一切の気配を消して声をかけた。
手には、彼が作成した「最適化されたスケジュール表」と、現在のフロアの「実測エラー率」を比較した、彼女お手製の折れ線グラフを握りしめている。
「……一条様。ご確認を」
「なんだ、南野くん。……私のロジックに、まだ不服があるのか? 私は君たちの生産性を、理論値で二十パーセント向上させているはずだが」
一条はモニターから目を離さず、氷の破片を吐き出すような声で言った。
綺羅々は、コンシーラーの下で微かに口角を吊り上げる。
「不服ではありません。……ただ、あなたの計算式には、極めて重要な『変数』が欠落しています。……それは、人間という名のハードウェアが持つ『疲労』と『感情』という名のノイズ(誤差)よ。……そして、そのノイズを無視した結果が、これ」
綺羅々は、一条の最新型ノートパソコンのモニターの隅に、一枚の紙を付箋のように、しかし叩きつけるように貼り付けた。
そこには、一条が着任してから急上昇した「入力ミス率」と、給湯室での「コーヒー消費量」の異常な相関図が、冷徹なフォントで描かれていた。
「……一条様。……システムを速く動かすために電圧を上げすぎれば、回路は焼き切れるわ。……今のこのフロアは、あなたのせいでオーバーヒート寸前よ。壊れたハードウェアは、あなたの得意な数式では修理(リペア)できないわよ?」
一条の動きが、初めて止まった。
彼はゆっくりと椅子を回転させ、綺羅々を見上げた。高性能なスキャナーのような瞳が、彼女の三層塗りのコンシーラーを透過し、その奥にある「不屈の事務屋魂」を解析しようと細められる。
「……馬鹿な。……私の計算は、常に最短経路を選択している。感情などは、処理能力を下げるだけのバグだ」
「最短経路が、必ずしもゴールに辿り着くとは限らない。……事務職を舐めないで。私たちは、数字だけじゃなく、その数字を打ち込む『震える指先の震え』まで管理しているのよ。……一条様、あなたのロジックは美しいけれど、この『泥濘(ぬかるみ)』で動かすには、あまりにも潤滑油が足りないわ」
一条の眉が、初めて微かに動いた。
それは、完璧なプログラムに一行の「想定外のコード」を書き込まれた瞬間の、システムエラーのような表情だった。
「……南野綺羅々。……君は、実に面白いバグだ。……だが、そのバグを許容するかどうかは、私の裁量次第だが?」
「……本日も、晴天なり。……さて一条様。……焼き切れる前に、少しだけ『冷却水』の投入(休憩)を許可してくださるかしら? ……部下のメンタルをデリートして、独りで虚無な数字を眺めるのが、あなたの望む『最適化』ではないはずよ」
綺羅々は挑戦的な視線を残したまま、自分のデスクへと戻る。
その背中越しに、彼女は確信していた。
今夜のストロング缶は、二本。……いや、お祝いを兼ねて三本必要だと。
福に、一条の「ロジカルな顔面」がいかに冷たくてムカつくか、そしてそれをどうやって「上書き保存(オーバーライト)」してやったかを、ねっとりと解説してやるために。
「……あー、喉が乾いた。……炭酸が、足りないわ」
0
あなたにおすすめの小説
だってお義姉様が
砂月ちゃん
恋愛
『だってお義姉様が…… 』『いつもお屋敷でお義姉様にいじめられているの!』と言って、高位貴族令息達に助けを求めて来た可憐な伯爵令嬢。
ところが正義感あふれる彼らが、その意地悪な義姉に会いに行ってみると……
他サイトでも掲載中。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
橘若頭と怖がり姫
真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。
その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。
高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる