18 / 19
第一部:オフィス侵攻編
第十八話:パーソナル・スペースの損壊
しおりを挟む
午前六時三十分。
意識の底から無理やり引きずり出されるようなアラームの咆哮に、綺羅々は反射的に隣の枕を叩きつけた。
右手の指先に走る、鋭い痛み。昨夜、愛するハムスターの福(ふく)にエラー処理(噛)された名誉の負傷が、ズキズキと拍動している。
「……いたた。……福、お前、今日はひまわりの種抜きだからな……」
鏡の前に立つ。そこには、昨夜のストロング缶二本の代償として、いつにも増して深刻な「くすみ」と「むくみ」を抱えた、正真正銘のゾンビが立っていた。
だが、プロの事務員に「休息」というコマンドは存在しない。
彼女は、指先の小さな傷に防水絆創膏を貼り、その上からキーボードの打鍵を邪魔しないよう細心の注意を払ってテーピングを施した。そして、通常の五倍――もはや「壁画の修復」に近い厚さでコンシーラーを塗り込み、炎症を起こした肌を強引に正常化(フォーマット)していく。
オフィスに足を踏み入れた瞬間、そこにはすでに、一条が座っていた。
彼は昨夜から一度も電源を落としていないサーバーのように、一点の乱れもない姿勢でモニターを見つめている。
「南野くん。おはよう。……三秒、遅い」
「……おはようございます、一条様。……私の体内時計によれば、始業五分前ですが?」
「効率化された組織において、『始業時間』とは作業開始の瞬間を指すのではない。最適化されたパフォーマンスを発揮できる状態を、周囲に示すべき時間を指す。……君のその、不自然に塗り固められた顔面(インターフェース)を見れば、昨夜のアルコール摂取量と睡眠不足は、計算するまでもない」
一条は、綺羅々の顔を見ることもなく、ただ淡々とキーボードを叩きながら告げた。
綺羅々は、テーピングを施した指先を咄嗟に隠したが、一条の「スキャナー」はそれを見逃さなかった。
「……そして、右手の指先。……その負傷は、集中力の欠如によるミス、あるいは、ペットという名の『制御不能な外部デバイス』との不要な接触によるものか?」
「……何のことでしょうか」
「隠しても無駄だ。君のデスク周りに付着した微細な木屑(チップ)と、衣服に付いた特定ブランドのひまわりの種の成分。……それから、君の自宅周辺のスーパーの購買データに基づけば、君が昨夜、高アルコール飲料とペット用品に多額の支出をしていることは、統計的に導き出せる」
綺羅々の背筋に、氷を入れられたような戦慄が走った。
この男は、仕事のフローだけでなく、自分のプライベートという名の「クローズドな領域」にまで、論理のメスを突き立ててこようとしている。
「……一条様。……それは、ハラスメントという名の『重大なセキュリティ侵害』に当たりますが?」
「いいえ。私はただ、君という『リソース』のメンテナンス状況を把握し、最適化のためのアドバイスを送っているに過ぎない。……南野くん、君の自宅の光熱費プラン。……現在の使用状況から見て、契約会社を『一条エナジー・ソリューションズ』に変更することを推奨する。月間で三千二百円のコストカットが可能だ」
「……お断りします。……私の家で何を使おうと、何を飲もうと、それは私の『自由(パッション)』よ!」
綺羅々の声が、静かなフロアに鋭く響いた。
犬飼が、消しゴムを落としたような顔で固まっている。
一条は、初めてモニターから目を離し、ゆっくりと椅子を回転させた。
その瞳には、侮蔑の色も、怒りの色もない。
ただ、不備のあるセルを見つけた時のような、底冷えのする「正しさ」だけが宿っていた。
「パッション……。まだその、古臭いバグのような言葉を口にするか。……南野くん。……君がその『無駄』を愛する限り、君のパフォーマンスは、私の計算値を超えることはない」
「……本日も、晴天なり。……一条様。……計算値を超えないのは、あなたの計算式が『不完全』だからよ。……人間という名の複雑なシステムを、その程度の数式で解読できると思わないことね」
綺羅々は、指先の傷の痛みを、一条への殺意で上書きした。
昼休み。
彼女は公園で、おにぎりを二個、猛烈な勢いで頬張った。
一個は自分のため。もう一個は、いつかこの「ロジカルな死神」を、データの世界からデリートしてやるためのエネルギーとして。
「福……。やっぱりお祝い、ひまわりの種じゃなくて、あいつの首根っこにすればよかったわ……」
太陽の光さえも、一条の冷たい瞳に似ている。
綺羅々の「逆襲のコマンド」が、脳内で静かに構築(ビルド)され始めていた。
意識の底から無理やり引きずり出されるようなアラームの咆哮に、綺羅々は反射的に隣の枕を叩きつけた。
右手の指先に走る、鋭い痛み。昨夜、愛するハムスターの福(ふく)にエラー処理(噛)された名誉の負傷が、ズキズキと拍動している。
「……いたた。……福、お前、今日はひまわりの種抜きだからな……」
鏡の前に立つ。そこには、昨夜のストロング缶二本の代償として、いつにも増して深刻な「くすみ」と「むくみ」を抱えた、正真正銘のゾンビが立っていた。
だが、プロの事務員に「休息」というコマンドは存在しない。
彼女は、指先の小さな傷に防水絆創膏を貼り、その上からキーボードの打鍵を邪魔しないよう細心の注意を払ってテーピングを施した。そして、通常の五倍――もはや「壁画の修復」に近い厚さでコンシーラーを塗り込み、炎症を起こした肌を強引に正常化(フォーマット)していく。
オフィスに足を踏み入れた瞬間、そこにはすでに、一条が座っていた。
彼は昨夜から一度も電源を落としていないサーバーのように、一点の乱れもない姿勢でモニターを見つめている。
「南野くん。おはよう。……三秒、遅い」
「……おはようございます、一条様。……私の体内時計によれば、始業五分前ですが?」
「効率化された組織において、『始業時間』とは作業開始の瞬間を指すのではない。最適化されたパフォーマンスを発揮できる状態を、周囲に示すべき時間を指す。……君のその、不自然に塗り固められた顔面(インターフェース)を見れば、昨夜のアルコール摂取量と睡眠不足は、計算するまでもない」
一条は、綺羅々の顔を見ることもなく、ただ淡々とキーボードを叩きながら告げた。
綺羅々は、テーピングを施した指先を咄嗟に隠したが、一条の「スキャナー」はそれを見逃さなかった。
「……そして、右手の指先。……その負傷は、集中力の欠如によるミス、あるいは、ペットという名の『制御不能な外部デバイス』との不要な接触によるものか?」
「……何のことでしょうか」
「隠しても無駄だ。君のデスク周りに付着した微細な木屑(チップ)と、衣服に付いた特定ブランドのひまわりの種の成分。……それから、君の自宅周辺のスーパーの購買データに基づけば、君が昨夜、高アルコール飲料とペット用品に多額の支出をしていることは、統計的に導き出せる」
綺羅々の背筋に、氷を入れられたような戦慄が走った。
この男は、仕事のフローだけでなく、自分のプライベートという名の「クローズドな領域」にまで、論理のメスを突き立ててこようとしている。
「……一条様。……それは、ハラスメントという名の『重大なセキュリティ侵害』に当たりますが?」
「いいえ。私はただ、君という『リソース』のメンテナンス状況を把握し、最適化のためのアドバイスを送っているに過ぎない。……南野くん、君の自宅の光熱費プラン。……現在の使用状況から見て、契約会社を『一条エナジー・ソリューションズ』に変更することを推奨する。月間で三千二百円のコストカットが可能だ」
「……お断りします。……私の家で何を使おうと、何を飲もうと、それは私の『自由(パッション)』よ!」
綺羅々の声が、静かなフロアに鋭く響いた。
犬飼が、消しゴムを落としたような顔で固まっている。
一条は、初めてモニターから目を離し、ゆっくりと椅子を回転させた。
その瞳には、侮蔑の色も、怒りの色もない。
ただ、不備のあるセルを見つけた時のような、底冷えのする「正しさ」だけが宿っていた。
「パッション……。まだその、古臭いバグのような言葉を口にするか。……南野くん。……君がその『無駄』を愛する限り、君のパフォーマンスは、私の計算値を超えることはない」
「……本日も、晴天なり。……一条様。……計算値を超えないのは、あなたの計算式が『不完全』だからよ。……人間という名の複雑なシステムを、その程度の数式で解読できると思わないことね」
綺羅々は、指先の傷の痛みを、一条への殺意で上書きした。
昼休み。
彼女は公園で、おにぎりを二個、猛烈な勢いで頬張った。
一個は自分のため。もう一個は、いつかこの「ロジカルな死神」を、データの世界からデリートしてやるためのエネルギーとして。
「福……。やっぱりお祝い、ひまわりの種じゃなくて、あいつの首根っこにすればよかったわ……」
太陽の光さえも、一条の冷たい瞳に似ている。
綺羅々の「逆襲のコマンド」が、脳内で静かに構築(ビルド)され始めていた。
0
あなたにおすすめの小説
だってお義姉様が
砂月ちゃん
恋愛
『だってお義姉様が…… 』『いつもお屋敷でお義姉様にいじめられているの!』と言って、高位貴族令息達に助けを求めて来た可憐な伯爵令嬢。
ところが正義感あふれる彼らが、その意地悪な義姉に会いに行ってみると……
他サイトでも掲載中。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
橘若頭と怖がり姫
真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。
その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。
高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる