妄想のススメ

makotochan

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第13章 出会い

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1.
 日の光のまぶしさを感じた和幸は目を覚ました。カーテンの隙間から、日の光が床を這うように差し込んできていた。秋も深まり、暖かい日と寒い日とが交互に巡っていたが、今は暖かさが感じられた。
 深夜に病院から戻った和幸は、家に籠り、一人黙々と考えていた。
 兄は、計画を進めてほしいと思っているはずだ。自分も、中止しようなどとは思っていない。
 しかし、一人で計画を進めることに対して躊躇している自分がいることに和幸は戸惑いを感じていた。
 何に躊躇しているのだろうか。信頼する兄と二人で決めたことなのだ。十年もの間温めてきた思いなのだ。自分が弱気になっているだけなのではないのか。
 和幸は、気持ちを奮い立たせるために、死に追いやられた時の両親の悲痛な表情や、その後自分たちが味わった苦しい日々のことを思い返した。それとともに、無責任な対応を取り続けたマスコミや周囲の人々の表情も思い浮かべた。
 そんな和幸の胸中に、憎しみの感情が湧き出てきた。
 自分たちが失ったものは大きいのだ。さらに、失ったものは元には戻らない。
 そして、失う原因を作ったのは、この国と国民たちなのだ。
 自分たちには、彼らに復讐する権利があるはずだ。
 和幸の胸の中が熱くなった。
 しかし、そうなった後の自分自身の反応に和幸は戸惑いを覚えた。復讐を成し遂げたときのイメージが不鮮明なものになってきていたからだ。都心にそびえるビルが瓦礫の山と化し、人々の叫び声が鳴り響き、マスコミが踊り狂い、国中が混乱に陥っている。そんな頭の中で繰り返し映し出してきた動画に靄のようなものがかかっていた。
 その後も、憎しみを掻き立てては戸惑うことを繰り返した。
 そうこうしているうちに夜が明けた。
 そんな中、睡魔が和幸を襲った。

 ありあわせの食べ物で食事を済ませた和幸は、兄が入院している病院へ向かった。
 兄の意識は戻っていなかった。医師も、予断を許さない状態が続いていることを口にした。
 集中治療室のベッドに寝かされた兄の姿を遠目から見続けた和幸の目に涙が浮かんだ。
 もしこのまま兄の意識が戻らなければ、自分は独りぼっちになってしまう。
 それ以前に、兄の無念さを思うと切なかった。
 頬を伝う涙をぬぐった和幸は、何か変化があったら連絡してほしいと病院側に携帯電話の番号を伝え、病院を後にした。

 病院を後にした和幸は、新宿へと向った。
 行き先は、キャトルフィーユというバーだった。
 キャトルフィーユとは、フランス語で四つ葉のクローバーを意味する言葉であり、訪れた客に幸運が舞い降りるようにという思いを込めてオーナーが命名したということだ。
 店内はジャズ音楽が静かに流れる落ち着いた雰囲気であり、酒や料理の値段も手ごろなのだが、繁華街から外れているせいか混んでいるところを見たことがない。
 まさに隠れた名店だった。
 和幸は、兄と二人で何度もキャトルフィーユに足を運んだ。もともとは兄が見つけてきた店だったが、和幸もすぐに気に入った。
 二人は、この店で幾度となく互いを励ましあった。自分たちを苦しめた国や国民に対して復讐をしようという決意もこの店で決めた。
 裏の世界に生きる人間をそっとやさしく包み込んでくれるような雰囲気が、この店にはあった。
 カウンターの端に座った和幸は、いつものように、ブランデーのロックをオーダーした。

 グラスのブランデーをちびちびと飲みながら、和幸は、楽しかったころのことを思い浮かべた。
 笑いの絶えない家庭だった。父と母が怒ったところを見たこともない。
 経済的にも恵まれていたほうであり、自分は幸せな人生を歩んでいるのだと和幸は幼心に感じていた。
 それが、ある日を境に一家は奈落の底へと突き落とされた。突き落としたのは、差別と弱い者いじめが好きなこの国の人間たちだった。
 そのせいで、両親は命を落とし、自分たち兄弟も人目を忍びながら生きていかなくてはならなくなった。
 和幸は、計画を実行するために半月前に辞めた建設会社のことを思い返した。
 過去を詮索されたくない人間にとって、最適な職場だった。

2.
 一日の仕事を終え事務所を後にした結城彩菜は、無性に酒を飲みたい気分に駆られていた。すっきりとしない気分だったからだ。
 事務所は、労使紛争を抱えた会社からの仕事の依頼を引き受けた。社外の労働組合から理不尽な要求を突きつけられており、助けてほしいという依頼だった。
 近年、悪質な労働組合が言葉巧みに中小企業の従業員を組合に加入させ、労働法の知識に疎い中小企業をターゲットに団体交渉を要求し、半ば嚇しながら解決金を支払わせるという事案が増えていた。
 そのような立場に置かれた中小企業を救済するのは、弱者の味方でいたいという自分の信念とも合致する。
 所長から担当を命じられた彩菜は、その思いを胸に依頼企業に出向いたのだが、実態は異なっていた。
 彩菜の見るところ、依頼企業は、従業員に対して劣悪な労働条件を強いているいわゆるブラック企業だった。一部の従業員がそのことを社外の労働組合に相談し、団体交渉を申し込まれたというのが実際の経緯のようであった。
 彩菜に、葛藤が生まれた。
 事務所が引き受けた仕事であり、拒むことはできない。しかし、そのような会社の味方をするのは、自分の信念に反する。
 使われている身である以上、事務所の指示には従わなければならないのだろうが、釈然としないものが残った。
 彩菜には、気持ちを整理する必要があった。

 自宅へ帰る途中の乗換駅である新宿駅で下車した彩菜は、東口を出た。
 東口一帯は、歌舞伎町を中心とした繁華街が広がっており、馴染みの店もいくつかあった。
 駅の周辺は、大勢の人たちでにぎわっていた。歌舞伎町方向へ向かう人の波が押し流されていく。
 彩菜は、人並みから外れた。今夜は静かに飲みたい気分だったからだ。繁華街にある店は、どの店も騒がしそうに思えた。
 彩菜は、新宿三丁目方向へ向かって歩き出した。騒がしくなさそうな店を求めて裏路地へと入っていった。
 人の数も、まばらになっていった。個性的な看板やネオンが、さすらう者たちを呼び寄せている。
 そんな中、彩菜は、とあるバーの前で足を止めた。キャトルフィーユという看板が出ていた。一度も来たことのない店だったが、静かにジャズを聴きながらというフレーズに惹かれた。

 店に入った彩菜は、カウンター席に腰を下ろした。
 店内は、客の姿がまばらだった。
 客たちは、静かに流れるジャズの音に耳を傾けながら、思い思いの表情でグラスを傾けていた。
 彩菜は、大好きなモスコミュールを注文した。食事代わりに、ピザとドライフルーツ、チーズの盛り合わせも注文した。
 間がなく置かれたモスコミュールのグラスを傾けながら、日中に訪問した依頼企業とのやり取りを思い返した。
 彩菜は、社長室に通された。
 その場に同席した社長と総務担当の取締役が、事の経緯を説明した。
 それによると、労働組合から、従業員に対する未払い賃金の支払いと不当解雇された従業員に対する解決金の支払いを要求されたということだった。
 総務担当の取締役が、従業員のタイムカードと賃金台帳を示しながら、きちんと賃金を支払っていると主張した。解雇についても、解雇通知書を示しながら、正当な解雇だったという主張を行った。
 説明を聞いた彩菜は、今後、労働組合と話をするにあたっての段取りを助言した。依頼企業との間での連携方法についての確認も行った。
 打ち合わせを終えた彩菜は、社長と総務担当の取締役に見送られ依頼企業を後にした。
 そのまま事務所に向って歩き出したのだが、後を追いかけてくる人の気配に後ろを振り向いた。そこには、依頼企業の従業員たちの姿があった。
 自分たちの話を聞いてほしいと言われた彩菜は、近くの公園のベンチで彼らと相対した。
 そこで、予想もしていなかったことを聞かされた。依頼企業が、従業員にサービス残業を強要しているということだった。タイムカードを押させた後に残業をさせているというのである。
 そのことを労働基準監督署に相談しようとした従業員がいたのだが、会社が事前に察知し、解雇された。
 これらのことを従業員の代表者が外部の労働組合に相談したというのが事の顛末ということだった。
 彩菜に訴え出る従業員たちの目は真剣だった。嘘をついているようには思えなかった。話の内容にも筋が通っている。
 話を聞かされた彩菜の中に、目の前の従業員たちの味方をしたいという気持ちが湧き出てきた。

3.
 酒を飲みながら、彩菜は、新しく担当についた仕事のことを考え続けた。
 自分の中では、依頼企業の側に問題があるのだという確信があった。事実確認を行ったわけではなかったが、従業員たちが主張することのほうを信じるべきだという気持ちに揺るぎはなかった。
 気持ちの根拠は、直観だった。
 社長や総務担当の取締役の態度は不自然に映った。頼みもしていないのに、次から次へと資料を出してきては、自分たちの正当性を主張し続けた。
 反面、従業員たちからは、真実をわかってほしいという気持ちが伝わってきた。話の内容にも具体性がある。
 しかし、今の立場で従業員たちの味方をすることはできない。事務所は、依頼企業と契約を結んでいるからだ。事務所には、契約に則って依頼企業のために行動する義務がある。
 従業員の味方をするのであれば、担当を外れたうえで、従業員側と契約を結ぶ必要があった。
 しかし、それは非現実的な対応でもある。同じ事務所内で二手に分かれて利害の相反する者への弁護をすることなどできないからだ。
 どうしても従業員側の弁護をしたいというのであれば、事務所に依頼企業側との契約を解除してもらうか、もしくは自分が事務所を辞めたうえで従業員側と契約するかのいずれかの対応を行わなければならない。
 事務所に契約を解除させるのは無理な話であろう。契約不履行の責任を追及され、法律事務所としての信用も失墜させてしまう。
 依頼企業側が違法行為を行っていることが明らかになればそれを理由に契約を解除することは可能なのだろうが、そのことを立証するためには、契約を交わしている状態で契約者の不利益になることを暴き立てるための調査を行わなければならない。
 そのようなことに依頼企業側が協力するはずもないし、事務所としてもやるわけにはいかない。
 さらに、彩菜は、今の事務所を辞めたくはなかった。自分のような未熟な者に経験を積ませてくれたことへの感謝の気持ちもあったからだ。
 彩菜は、出口の見えない悩みを抱えてしまっていた。

 彩菜は、三杯目のモスコミュールを注文した。
 カウンターの中から、マスターが彩菜の前に新しいグラスを置いた。
 彩菜は、ピザの最後のピースを口に運んだ。指についた脂をおしぼりで拭いた。
 その手でグラスを持とうとしたその瞬間、手の甲でグラスを倒してしまった。グラスの中身がこぼれ、カウンターの上を広がっていった。
 こぼれた液体は、カウンターの端にいた男性客のもとまで流れついた。
 「ごめんなさい」彩菜は男に謝罪し、カウンターの上をおしぼりで拭いた。
 彩菜のこぼした酒は、男性客の手元に広げられたペーパーナプキンの上に置かれていたミックスナッツも濡らしてしまっていた。
 「新しいのを注文しましょうか」彩菜は、男性客に声をかけた。
 その声かけに、男性客が怪訝な表情を向けた。
 「ナッツを濡らしてしまったので、新しいのを注文します」
 「別にいいですよ。これくらい」
 「でも、私のせいで濡らしてしまったので、注文させてください」
 彩菜は、新しいミックスナッツを注文した。間がなく、マスターが彩菜の前にミックスナッツの皿を置いた。
 「これ、どうぞ」彩菜は、新しい皿を男性客の傍らに置いた。
 「そんな、申し訳ない。自分のはまだありますし、どうぞ、ご自分で食べてください」
 男性客が手元のナッツ皿を指さした。皿には少量のナッツが残されていた。
 「もう残りも少ないようですし、ぜひ食べてください」
 「本当に、気を使っていただかなくても結構ですから」
 男性客から遠慮された彩菜の脳裏に、あるアイデアがひらめいた。
 「よろしければ、私と一緒につまみませんか?」
 「えっ?」
 男性客が、驚きの表情を浮かべた。
 彩菜は、新しく注文したグラスや食べ物の残りとともに男の隣の席に移動した。

4.
 和幸は、これからどうしていけばよいのかわからなくなっていた。
 兄と二人で行動していた時は何の迷いもなかった。心が燃えたぎっていた。復讐するために生きてきたといっても過言ではなかったからだ。
 そして、復讐のときはすぐ目の前に迫っていた。
 それなのに、兄が倒れた後、燃えたぎるものがどこかへ行ってしまったように感じてしまっていた。
 今さらながら、復讐にどのような意味があるのかということを問いかける自分がいるような気もしていた。
 和幸は、自分自身の変化に戸惑っていた。
 冷静に気持ちを整理した上で迷いを拭い去ろうというつもりでこの店にやってきたのだが、一向に気持ちの整理がつかない。つかないどころか、ますます迷いの度合いを増していた。
 何杯もグラスを重ねているが一向に酔わない。
 もう一杯飲んだら店を出ようかと思ったその時、横で酒をこぼした女から声をかけられた。
 その後、新しいミックスナッツを注文した女が隣の席に移動してきた。
 一人静かに酒を飲みたいと思いこの店にやってきたのだが、静かな空間に割り込んできた女のことを拒む気持ちは湧いてこなかった。
 和幸は、女の存在を受け入れていた。

 「それって、ブランデーですか?」彩菜は、和幸が飲んでいる酒の種類を聞いた。
 「そうです。あなたのは?」和幸は聞き返した。
 「私のは、モスコミュールです。こういうところに来たら、いつもこればっかり飲んでいます」
 「この店は、よく来られるのですか?」
 和幸は、この店で彩菜のことを見た記憶はなかった。
 「ううん。今日が初めてです。いろいろと考え事をしたかったから、静かな店を探そうと思ってこの近辺を歩いていたんですけど、静かにジャズを聴きながらって書いた看板が目に留まったので、入ってみたんです」
 「ジャズが好きなんですか?」
 「そうじゃないですけど、静かにジャズを聴きながら飲む店だと、騒ぐ人はいないかなと思って」
 彩菜が笑みを浮かべた。和幸の表情もほころんだ。
 和幸は、胸の中でぬくもりのようなものを感じていた。
 「あなたも、この店は初めてなんですか?」
 「いえ。ボクは、何度も来たことがあります」
 「そうなんですか。いつも、こんな感じで、一人で静かに飲んでいらっしゃるんですか?」
 「いえ、そうじゃないですけど……」
 「決まった相手と来ていたんだ?」
 彩菜は、和幸の顔を覗き込んだ。
 和幸は、彩菜の勘違いを否定しないでおくことにした。兄とのことを話すと、つらく暗い過去までを口にしなければならなくなるのではないかと感じたからだ。
 普通に生きている人間に、自分たちの味わった苦しみを理解できるはずがない。
 「あの。こんな風に話しかけるの、ご迷惑でしたか?」彩菜が真剣な表情で聞いてくる。
 「いえ。全然そんなことないですよ」和幸は、即座に否定した。
 本心から、そのように感じていたからだ。彩菜と話すことで、気持ちが楽になっていた。胸の中を覆っていたモヤモヤが消えていくのを感じていた。
 それだけではなく、彩菜自身に対しての興味も覚えていた。
 「よろしければ、自己紹介しあいませんか?」
 「いいですよ」
 「じゃぁ、私から。名前は、結城彩菜って言います。歳は二十九歳。職業は弁護士です」
 「弁護士、ですか?」
 「やっぱり、弁護士には見えませんか?」
 「そういうわけではないけど、弁護士って言ったら、いかめしい顔つきをした中高年男性っていうイメージがあったから」
 和幸は、両親を巡る一連の出来事の中で、弁護士という職業の人間とも接した。彼らはみないかめしい顔つきをした中高年男性であり、和幸の中で、弁護士は威厳のある人間が就く職業なのだというイメージが出来上がっていた。
 「若い女性が弁護士をやっているというイメージは普通ないですよね。私は、資格を取ってから一年の新人弁護士なんですけど、正直相手からなめられっぱなしです。というか、若い女性っていうだけで、信用してもらえていないんですよね……」
 彩菜は、日頃感じていた不満を口にした。
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