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第14章 葛藤
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1.
和幸は、彩菜と打ち解け合った。
彼女は、弱者の味方になるために弁護士を志したということだ。
根底には、弱い者いじめをする人間のことが許せないという価値観があった。その価値観は、和幸の心の底に巣食う思いと一致していた。
和幸は、彩菜と会話をすることで気持ちの安らぎを感じた。
二人は、連絡先を交換し、二日後に再び会うことを約束した。
二日後の夜、二人は、新宿にある高級なイタリアンレストランで食事をした。彩菜が店を選んだ。
和幸は、両親が他界して以降、このような高級店で食事をしたことがなかった。経済的な事情に加えて、高級な店は表舞台に生きる人間が楽しむためにある店なのだと思ったことが理由だった。表舞台に生きる人間とは、無責任に弱い者いじめに加担した人間たちのことだ。
「こういう感じの店は嫌いなの?」和幸のおどおどした様子を目にした彩菜が心配そうに問いかけた。
「そうじゃないけど、普段、このような店に来ないから」
今の和幸には、このような店に対する偏見的なイメージよりも彩菜と食事をすることを楽しいと思う気持ちのほうが優っていた。
「今日は、私のほうから誘ったのだから、私がご馳走するね」
「そんなの、悪いよ。ボクも払うから」
「だったら、次は、澤田さんが知っている店に連れて行ってよ。そのときは、ご馳走になるから」
「わかった」
和幸は、笑顔で頷いた。
彩菜が、二人分のコース料理とワインを注文した。
和幸は、気持ちが落ち着かなかった。ちゃんとした料理の食べ方もテーブルマナーも知らなかったからだ。
和幸が、その不安を口にする。
それに対して、彩菜が、この店はカジュアルな店だからテーブルマナーなど気にしなくてもよいのだと笑顔で返した。
テーブルに、料理が順に運ばれてきた。
二人の会話も弾んだ。主に彩菜がしゃべり、和幸は聞き役に回る時間が多かった。
「それはそうと、澤田さんって、どのようなお仕事をしているの?」ひとしきりしゃべった彩菜が、和幸の仕事のことを聞いてきた。
「実は……、半月前に仕事を辞めて、今は求職中なんだ」和幸は、当たり障りのない返事をした。
「そうなんだ」彩菜が、悪いことを聞いてしまって申し訳なかったという表情でうつむく。
「そろそろ、次の仕事を探そうと思っているんだけどね」相手に気を使わせてしまったと感じた和幸は、明るく答えた。
「ちなみに、前の仕事って、どんな仕事だったの?」
「建設系の会社で働いていた。現場仕事がメインだったけどね」
「そうなんだ、なんだか、イメージと違うね」
「イメージと違うって?」
「澤田さんって、知的なイメージがあるから。だから、仕事も知的業務だったのじゃないのかなって思っていた。あっ、別に現場仕事のことを馬鹿にしているとかじゃなくて、体を使う仕事ではなく頭を使う仕事をしているっていうイメージがあったって意味で言ったの」
「オレって、そんなイメージがある?」
そう言葉を返した和幸の胸中は複雑だった。
あのような出来事がなければ、自分は今頃理工系の知識を生かして、大企業の研究機関などで開発や研究の仕事をしていたはずだ。兄も同じだっただろう。
そして今は、国家の発展のために使われるべき知識を、国家を破壊するために使おうとしているという皮肉な結果を生み出している。
「そういうイメージある。もっとはっきりいうと、バリバリの理系っていうイメージかな」彩菜が、口にする。
「高校も大学も理系だったけど、いろいろとあって、今は、理系とは関係のないことをしているって感じかな」和幸は、伏し目がちに返事をした。
2.
和幸にとって、女性と二人きりで食事をしたのは久しぶりのことだった。
彩菜との食事を楽しみながら、和幸は、ある記憶を思い浮かべていた。両親もこの世にいて幸せだったころの思い出だった。
恋人と二人で足しげく通い詰めたレストランがあった。オーナー夫婦とその息子夫婦でやっている地中海料理の店だった。
アットホームな店内でオーナーの手料理を味わいながら、恋人と将来のことを語り合った。
その時の恋人の顔と彩菜の顔が重なった。
二人は、雰囲気が似ていた。
食事を終えた和幸と彩菜は、夜の街を散策した。
他愛もない会話を交わしながら歩道をぶらついた。おしゃれなカフェがあったので、店内に入った。
いつしか二人は下の名前で呼び合うようになっていた。その分、距離も縮まった。
別れ際に、二人は、明日の夜も会うことを約束しあった。
次の日の夜、和幸は、昔恋人と通った地中海料理レストランに彩菜を連れて行った。
何年かぶりだったが、レストランは以前のままだった。オーナー夫婦も健在である。
以前よりも従業員が増えていた。客の数が増え、アルバイトの数を増やしたようだ。
オーナー夫婦は、和幸のことを覚えていた。ある時から急に姿を見せなくなったので心配していたのだという言葉を彼らは口にした。
オーナー夫婦は、和幸を襲った不幸な出来事のことは知らなかった。
昔、恋人と二人で何度も食べた料理は今のメニュー表には載っていなかったが、その時の料理と近いメニューがあるのを見つけた和幸は、二人分を注文した。
彩菜は、胸に抱えた悩みを和幸に相談することにした。労使紛争を抱えた会社からの依頼の件だった。
彩菜は、自分の信念を曲げたくないという思いと事務所に迷惑をかけたくないという思いとの間で板挟みになっていた。
明後日依頼企業を訪問しなければならない。最初に訪問した時に社長と総務担当の役員に対して意見した手筈で事を進めなければならない状況にあった。
事務所にも、そのように報告している。
彩菜は、苦しい胸の内を和幸に打ち明けた。
和幸は、黙って話を最後まで聞いた。
状況は理解できた。彩菜が苦しんでいる理由も理解できる。従業員にサービス残業を強要したり会社の不利益になることを申告しようとした従業員を一方的に解雇したりする行為は、弱い者いじめと同じである。
彩菜の話を聞いた和幸も、憤りを感じた。
そのうえで、和幸は、冷静な意見を口にした。
「社長と総務担当役員の対応に不自然さを感じたことや従業員から話を聞いたことを、事務所に相談してみたらいいんじゃないのかな。どうするべきかということを自分で決めるのではなくて、事務所に決めてもらえばいいと思うんだけど」
彩菜は、仕事を取ってきた事務所に対する遠慮もあって悩んでいる。しかし、このままでは何も変化しないので、自分が悩んでいることを事務所に相談するのがいいのではないかという考えであった。
「そっか……。そうだよね」彩菜が、頷きながら首を縦に振る。
「でもね。事務所に相談したとして、事務所から、そういうことには目をつぶって依頼企業のために働けって言われたら、私、どうすればいいんだろう?」
「もし事務所がそういう対応を取るんだったら、事務所は彩菜さんの信念とは逆の考えを持っているってことだから、改めて、この事務所で働き続けるかどうかを考えればいいんじゃないのかな。でも、所長さんは、彩菜さんがそのような信念を持っているということを理解した上で雇ってくれたんでしょ?」
「だと思っているんだけど」
「とにかく、相談してみなよ。もし、事務所が目をつぶれみたいな対応をしたら、その後のことは一緒に考えようよ」
和幸は、彩菜を励ました。
「ありがとう。おかげで、すっきりとしたわ」彩菜は、気持ちが軽くなったと感じていた。
前に進んでいこうという勇気も湧いてきた。
3.
彩菜は、和幸に対して惹かれるものを感じていた。
知的で、それでいてどことなく影を感じる。しゃべり方もソフトで、心にやさしく響く。
今まで出会ったことのないタイプの男性だった。自分が追い求めていた男性のタイプでもある。
彩菜は、もっと和幸のことを知りたいと思った。二人で過ごす時間を、これからもたくさん作っていきたい。
彩菜は、その思いをそれとなく口にした。
和幸も、これからも二人で過ごす時間を作っていきたいという言葉を口にしてくれた。
二回目の食事が済んだあと、彩菜は、次に会える日はいつかということを和幸に問うた。
和幸の返事は、今具体的な日にちは決められないが近いうちに会おうだった。
彩菜は、和幸からの連絡を待つことにした。
彩菜と別れ家に帰る電車に乗った和幸は、しばしの間、楽しいひと時を過ごした余韻に浸っていた。人間らしい心も取り戻していた。
そのことを自覚した和幸は、照れくさくなった。
意識をそらそうと、車窓の外の景色に視線を移した。
ビルやネオンの明かりが、ゆっくりと視界の中を流れていく。
そんな和幸の目に、病院の看板が留まった。病院の入り口に救急車が横付けされている。救急患者を搬送した直後のようだ。
その光景を目にした和幸の脳裏に、兄の顔が浮かんできた。
兄の意識は、まだ戻っていない。医師も、依然として予断を許さない状況だということを口にしている。
(兄貴……)和幸の頭の中から彩菜の笑顔が消え、兄の顔が浮かび上がった。
兄は、眠りながら何を思っているのだろう。自分に対して、何を訴えたいのだろうか。
兄とは、昔から支えあって生きてきた。
和幸の生き方は、いろいろな面で二歳年上の兄の影響を受けていた。
理系を目指すようになったのも兄の影響だった。工学分野の最先端技術というものに興味のあった兄は、自ら専門図書を購入し、あるいは図書館で借りた本を読み漁った。
和幸も、兄が読んだ本を借り受けて読んだ。
兄とは、技術に関する様々な議論を交わし、未来の技術革新の姿を想像しながら、自らが最新技術に関わる研究開発に携わっていくことへの夢も語り合った。
そして、二人は国立の一流大学に入学した。
大学でも勉学に励み、兄は大学院への進学も決まっていた。
しかし、この国の差別意識、面白半分に弱い者いじめに加担する人々の無責任さに、両親は命を奪われ、自分と兄も前途を断たれた。
過去の出来事を思い浮かべた和幸に、憤りが湧いてきた。
気づくと、電車は、和幸が下車する駅に到着していた。
電車を降り、駅の改札を抜けた和幸の顔に、冬の訪れを予感させる冷たい風が吹き付けた。
和幸の中で、葛藤が生まれていた。
彩菜と出会い、異性として惹かれる部分が生じていることを和幸は自覚していた。彩菜も、自分に対して好意を抱いてくれているようだ。
前途を断たれたとはいえ、自分も三十歳になったばかりだ。恋愛に夢中になっていても決しておかしくはない年齢である。
彩菜と付き合えば、生活も変わるだろうと思った。
しかし、そうなってしまうと、自分は兄と交わした約束を反故にしてしまうのではないだろうか。
復讐したいという執念を燃やし続けてきたことが計画を立てて実行しようとすることへのエネルギーになっていた。彼女によって心が癒されてしまえば、復讐したいという思いもしぼんでしまうに違いない。
そうなってしまうと、兄を裏切ることになる。
兄は今、自分自身と懸命に闘っている。この世に踏みとどまろうと懸命にもがいている。胸の内側に張り付いた復讐への執念が、生に執着するエネルギーになっているのは間違いない。
兄が、何かを訴えかけている。その横で、彩菜が屈託のない笑顔を浮かべている。
自分は、二人の中間に立ったまま、動けずにいる。
和幸は、頭を抱えた。
4.
家族四人が囲む食卓には、四人分の食事が載せられていた。
締め切ったカーテンの隙間からまばゆいばかりの朝日が差し込んできている。すっきりと晴れ渡った朝だった。
食卓を囲む四人は、暗い表情を浮かべていた。誰もが箸をつけようとしない。
「とりあえず、食べましょう」母親が、寂しげな笑みを浮かべながら父と子に呼びかけた。自ら、率先して箸を動かした。
父と子も箸を取った。ダイニングルームに、箸と食器がぶつかる音が静かに響いた。
そんな中、急に家の外が騒がしくなった。
間がなく、玄関のチャイムが鳴らされた。ドアをノックする音も聞こえてくる。チャイムとノックの音が鳴りやむ気配はない。
「うるせーな!」箸を置いた兄が勢いよく立ち上がり、テレビのリモコンをつけた。
早朝のワイドショー番組に、見慣れた光景が映し出されていた。
テレビ画面は、集まったリポーターややじ馬たちの表情を映し出していた。彼らの視線の先にあるのは、四人が暮らす家の玄関だった。門扉に、紙がべたべたと貼られている。画面の隅に、動物の死骸のようなものが横たわっているのが映った。
「ここが、問題を起こした社長一家が暮らしている家です。カーテンが全部閉められていますが、おそらく、中に一家がいるものと思われます」
「ご覧ください。門のところに、たくさんの紙が貼られています。カメラさん、寄ってもらえますか。ここには、犯罪者はこの国から出ていけ! と書いてありますね。ここはどうでしょう。お前たちには、生きている資格はないですか。ここは……」
「あそこにあるのは、猫の死骸でしょうか。偶然、この場所で死んだのか、それとも、誰かがここに捨てたのかですが。誰かが捨てたのだとすれば、抗議の意味でやったのだと思います」
「市民の方々の話を聞いてみましょう。ええと、そちらの緑色の服を着た方、話をお聞きしてもよろしいでしょうか。今回の件について、どのような感想をお持ちでしょうか?」
マイクが、野次馬の一人に向けられた。
マイクを向けられた野次馬は、愉快気な表情を浮かべながら言葉を発した。
「筋違いも甚だしいというか、我々日本人をなめきった行為だと思いますね。だいたい、あいつらの祖国が原因で、こういうことになったんでしょうが。それを逆恨みした上で、よりによって、私たちが口にする食品に異物を混入するなんて。そんな奴は、即刻、国外に追放すべきですよ……」
兄弟の両親に対する誹謗中傷合戦が繰り広げられた。
その間も、チャイムと玄関のドアをノックする音は鳴りやまなかった。
突然、父親が唸り声を上げた。テーブルに強く押し付けた箸先が折れ、テーブルの外に飛んでいった。今まで兄弟たちに見せたことのなかった鬼のような形相を見せていた。
母親の目には、涙が浮かんでいた。
和幸は、葛藤から抜け出せずにいた。
布団に入ったが、頭が冴えわたり寝付けない。体は疲れているのだが、脳が眠ることを拒んでいた。
少しの間うとうとしては目覚め、悶々と考える状態が続いていた。
頭の中で、彩菜と一緒に過ごした数日間の記憶と十年前のつらい記憶とが交互に浮かび上がった。
彩菜との関係を維持することと兄との約束を果たすことが両立しないことは、和幸も分かっていた。
彩菜の存在が、自分の中で大きくなりつつある。彼女となら人生をやり直せるのではないだろうか。
しかし、兄との約束を反故にすることはできない。自分だけの思いではなく、尊敬する兄の思いでもあったからだ。
誰に相談することもできない。ただ一人相談できる兄は、今、生死の境をさまよっている。
なぜ、自分は彩菜と出会ってしまったのだろうか。これも運命なのだろうか。
和幸は、彩菜との出会いを思い返した。
そんな和幸のもとに、彩菜からのメールが届いた。和幸の予定を窺うメールだった。
和幸は、風邪をひいてしまい体調を崩しているので、元気になったら連絡をすると返事を返した。
和幸は、彩菜と打ち解け合った。
彼女は、弱者の味方になるために弁護士を志したということだ。
根底には、弱い者いじめをする人間のことが許せないという価値観があった。その価値観は、和幸の心の底に巣食う思いと一致していた。
和幸は、彩菜と会話をすることで気持ちの安らぎを感じた。
二人は、連絡先を交換し、二日後に再び会うことを約束した。
二日後の夜、二人は、新宿にある高級なイタリアンレストランで食事をした。彩菜が店を選んだ。
和幸は、両親が他界して以降、このような高級店で食事をしたことがなかった。経済的な事情に加えて、高級な店は表舞台に生きる人間が楽しむためにある店なのだと思ったことが理由だった。表舞台に生きる人間とは、無責任に弱い者いじめに加担した人間たちのことだ。
「こういう感じの店は嫌いなの?」和幸のおどおどした様子を目にした彩菜が心配そうに問いかけた。
「そうじゃないけど、普段、このような店に来ないから」
今の和幸には、このような店に対する偏見的なイメージよりも彩菜と食事をすることを楽しいと思う気持ちのほうが優っていた。
「今日は、私のほうから誘ったのだから、私がご馳走するね」
「そんなの、悪いよ。ボクも払うから」
「だったら、次は、澤田さんが知っている店に連れて行ってよ。そのときは、ご馳走になるから」
「わかった」
和幸は、笑顔で頷いた。
彩菜が、二人分のコース料理とワインを注文した。
和幸は、気持ちが落ち着かなかった。ちゃんとした料理の食べ方もテーブルマナーも知らなかったからだ。
和幸が、その不安を口にする。
それに対して、彩菜が、この店はカジュアルな店だからテーブルマナーなど気にしなくてもよいのだと笑顔で返した。
テーブルに、料理が順に運ばれてきた。
二人の会話も弾んだ。主に彩菜がしゃべり、和幸は聞き役に回る時間が多かった。
「それはそうと、澤田さんって、どのようなお仕事をしているの?」ひとしきりしゃべった彩菜が、和幸の仕事のことを聞いてきた。
「実は……、半月前に仕事を辞めて、今は求職中なんだ」和幸は、当たり障りのない返事をした。
「そうなんだ」彩菜が、悪いことを聞いてしまって申し訳なかったという表情でうつむく。
「そろそろ、次の仕事を探そうと思っているんだけどね」相手に気を使わせてしまったと感じた和幸は、明るく答えた。
「ちなみに、前の仕事って、どんな仕事だったの?」
「建設系の会社で働いていた。現場仕事がメインだったけどね」
「そうなんだ、なんだか、イメージと違うね」
「イメージと違うって?」
「澤田さんって、知的なイメージがあるから。だから、仕事も知的業務だったのじゃないのかなって思っていた。あっ、別に現場仕事のことを馬鹿にしているとかじゃなくて、体を使う仕事ではなく頭を使う仕事をしているっていうイメージがあったって意味で言ったの」
「オレって、そんなイメージがある?」
そう言葉を返した和幸の胸中は複雑だった。
あのような出来事がなければ、自分は今頃理工系の知識を生かして、大企業の研究機関などで開発や研究の仕事をしていたはずだ。兄も同じだっただろう。
そして今は、国家の発展のために使われるべき知識を、国家を破壊するために使おうとしているという皮肉な結果を生み出している。
「そういうイメージある。もっとはっきりいうと、バリバリの理系っていうイメージかな」彩菜が、口にする。
「高校も大学も理系だったけど、いろいろとあって、今は、理系とは関係のないことをしているって感じかな」和幸は、伏し目がちに返事をした。
2.
和幸にとって、女性と二人きりで食事をしたのは久しぶりのことだった。
彩菜との食事を楽しみながら、和幸は、ある記憶を思い浮かべていた。両親もこの世にいて幸せだったころの思い出だった。
恋人と二人で足しげく通い詰めたレストランがあった。オーナー夫婦とその息子夫婦でやっている地中海料理の店だった。
アットホームな店内でオーナーの手料理を味わいながら、恋人と将来のことを語り合った。
その時の恋人の顔と彩菜の顔が重なった。
二人は、雰囲気が似ていた。
食事を終えた和幸と彩菜は、夜の街を散策した。
他愛もない会話を交わしながら歩道をぶらついた。おしゃれなカフェがあったので、店内に入った。
いつしか二人は下の名前で呼び合うようになっていた。その分、距離も縮まった。
別れ際に、二人は、明日の夜も会うことを約束しあった。
次の日の夜、和幸は、昔恋人と通った地中海料理レストランに彩菜を連れて行った。
何年かぶりだったが、レストランは以前のままだった。オーナー夫婦も健在である。
以前よりも従業員が増えていた。客の数が増え、アルバイトの数を増やしたようだ。
オーナー夫婦は、和幸のことを覚えていた。ある時から急に姿を見せなくなったので心配していたのだという言葉を彼らは口にした。
オーナー夫婦は、和幸を襲った不幸な出来事のことは知らなかった。
昔、恋人と二人で何度も食べた料理は今のメニュー表には載っていなかったが、その時の料理と近いメニューがあるのを見つけた和幸は、二人分を注文した。
彩菜は、胸に抱えた悩みを和幸に相談することにした。労使紛争を抱えた会社からの依頼の件だった。
彩菜は、自分の信念を曲げたくないという思いと事務所に迷惑をかけたくないという思いとの間で板挟みになっていた。
明後日依頼企業を訪問しなければならない。最初に訪問した時に社長と総務担当の役員に対して意見した手筈で事を進めなければならない状況にあった。
事務所にも、そのように報告している。
彩菜は、苦しい胸の内を和幸に打ち明けた。
和幸は、黙って話を最後まで聞いた。
状況は理解できた。彩菜が苦しんでいる理由も理解できる。従業員にサービス残業を強要したり会社の不利益になることを申告しようとした従業員を一方的に解雇したりする行為は、弱い者いじめと同じである。
彩菜の話を聞いた和幸も、憤りを感じた。
そのうえで、和幸は、冷静な意見を口にした。
「社長と総務担当役員の対応に不自然さを感じたことや従業員から話を聞いたことを、事務所に相談してみたらいいんじゃないのかな。どうするべきかということを自分で決めるのではなくて、事務所に決めてもらえばいいと思うんだけど」
彩菜は、仕事を取ってきた事務所に対する遠慮もあって悩んでいる。しかし、このままでは何も変化しないので、自分が悩んでいることを事務所に相談するのがいいのではないかという考えであった。
「そっか……。そうだよね」彩菜が、頷きながら首を縦に振る。
「でもね。事務所に相談したとして、事務所から、そういうことには目をつぶって依頼企業のために働けって言われたら、私、どうすればいいんだろう?」
「もし事務所がそういう対応を取るんだったら、事務所は彩菜さんの信念とは逆の考えを持っているってことだから、改めて、この事務所で働き続けるかどうかを考えればいいんじゃないのかな。でも、所長さんは、彩菜さんがそのような信念を持っているということを理解した上で雇ってくれたんでしょ?」
「だと思っているんだけど」
「とにかく、相談してみなよ。もし、事務所が目をつぶれみたいな対応をしたら、その後のことは一緒に考えようよ」
和幸は、彩菜を励ました。
「ありがとう。おかげで、すっきりとしたわ」彩菜は、気持ちが軽くなったと感じていた。
前に進んでいこうという勇気も湧いてきた。
3.
彩菜は、和幸に対して惹かれるものを感じていた。
知的で、それでいてどことなく影を感じる。しゃべり方もソフトで、心にやさしく響く。
今まで出会ったことのないタイプの男性だった。自分が追い求めていた男性のタイプでもある。
彩菜は、もっと和幸のことを知りたいと思った。二人で過ごす時間を、これからもたくさん作っていきたい。
彩菜は、その思いをそれとなく口にした。
和幸も、これからも二人で過ごす時間を作っていきたいという言葉を口にしてくれた。
二回目の食事が済んだあと、彩菜は、次に会える日はいつかということを和幸に問うた。
和幸の返事は、今具体的な日にちは決められないが近いうちに会おうだった。
彩菜は、和幸からの連絡を待つことにした。
彩菜と別れ家に帰る電車に乗った和幸は、しばしの間、楽しいひと時を過ごした余韻に浸っていた。人間らしい心も取り戻していた。
そのことを自覚した和幸は、照れくさくなった。
意識をそらそうと、車窓の外の景色に視線を移した。
ビルやネオンの明かりが、ゆっくりと視界の中を流れていく。
そんな和幸の目に、病院の看板が留まった。病院の入り口に救急車が横付けされている。救急患者を搬送した直後のようだ。
その光景を目にした和幸の脳裏に、兄の顔が浮かんできた。
兄の意識は、まだ戻っていない。医師も、依然として予断を許さない状況だということを口にしている。
(兄貴……)和幸の頭の中から彩菜の笑顔が消え、兄の顔が浮かび上がった。
兄は、眠りながら何を思っているのだろう。自分に対して、何を訴えたいのだろうか。
兄とは、昔から支えあって生きてきた。
和幸の生き方は、いろいろな面で二歳年上の兄の影響を受けていた。
理系を目指すようになったのも兄の影響だった。工学分野の最先端技術というものに興味のあった兄は、自ら専門図書を購入し、あるいは図書館で借りた本を読み漁った。
和幸も、兄が読んだ本を借り受けて読んだ。
兄とは、技術に関する様々な議論を交わし、未来の技術革新の姿を想像しながら、自らが最新技術に関わる研究開発に携わっていくことへの夢も語り合った。
そして、二人は国立の一流大学に入学した。
大学でも勉学に励み、兄は大学院への進学も決まっていた。
しかし、この国の差別意識、面白半分に弱い者いじめに加担する人々の無責任さに、両親は命を奪われ、自分と兄も前途を断たれた。
過去の出来事を思い浮かべた和幸に、憤りが湧いてきた。
気づくと、電車は、和幸が下車する駅に到着していた。
電車を降り、駅の改札を抜けた和幸の顔に、冬の訪れを予感させる冷たい風が吹き付けた。
和幸の中で、葛藤が生まれていた。
彩菜と出会い、異性として惹かれる部分が生じていることを和幸は自覚していた。彩菜も、自分に対して好意を抱いてくれているようだ。
前途を断たれたとはいえ、自分も三十歳になったばかりだ。恋愛に夢中になっていても決しておかしくはない年齢である。
彩菜と付き合えば、生活も変わるだろうと思った。
しかし、そうなってしまうと、自分は兄と交わした約束を反故にしてしまうのではないだろうか。
復讐したいという執念を燃やし続けてきたことが計画を立てて実行しようとすることへのエネルギーになっていた。彼女によって心が癒されてしまえば、復讐したいという思いもしぼんでしまうに違いない。
そうなってしまうと、兄を裏切ることになる。
兄は今、自分自身と懸命に闘っている。この世に踏みとどまろうと懸命にもがいている。胸の内側に張り付いた復讐への執念が、生に執着するエネルギーになっているのは間違いない。
兄が、何かを訴えかけている。その横で、彩菜が屈託のない笑顔を浮かべている。
自分は、二人の中間に立ったまま、動けずにいる。
和幸は、頭を抱えた。
4.
家族四人が囲む食卓には、四人分の食事が載せられていた。
締め切ったカーテンの隙間からまばゆいばかりの朝日が差し込んできている。すっきりと晴れ渡った朝だった。
食卓を囲む四人は、暗い表情を浮かべていた。誰もが箸をつけようとしない。
「とりあえず、食べましょう」母親が、寂しげな笑みを浮かべながら父と子に呼びかけた。自ら、率先して箸を動かした。
父と子も箸を取った。ダイニングルームに、箸と食器がぶつかる音が静かに響いた。
そんな中、急に家の外が騒がしくなった。
間がなく、玄関のチャイムが鳴らされた。ドアをノックする音も聞こえてくる。チャイムとノックの音が鳴りやむ気配はない。
「うるせーな!」箸を置いた兄が勢いよく立ち上がり、テレビのリモコンをつけた。
早朝のワイドショー番組に、見慣れた光景が映し出されていた。
テレビ画面は、集まったリポーターややじ馬たちの表情を映し出していた。彼らの視線の先にあるのは、四人が暮らす家の玄関だった。門扉に、紙がべたべたと貼られている。画面の隅に、動物の死骸のようなものが横たわっているのが映った。
「ここが、問題を起こした社長一家が暮らしている家です。カーテンが全部閉められていますが、おそらく、中に一家がいるものと思われます」
「ご覧ください。門のところに、たくさんの紙が貼られています。カメラさん、寄ってもらえますか。ここには、犯罪者はこの国から出ていけ! と書いてありますね。ここはどうでしょう。お前たちには、生きている資格はないですか。ここは……」
「あそこにあるのは、猫の死骸でしょうか。偶然、この場所で死んだのか、それとも、誰かがここに捨てたのかですが。誰かが捨てたのだとすれば、抗議の意味でやったのだと思います」
「市民の方々の話を聞いてみましょう。ええと、そちらの緑色の服を着た方、話をお聞きしてもよろしいでしょうか。今回の件について、どのような感想をお持ちでしょうか?」
マイクが、野次馬の一人に向けられた。
マイクを向けられた野次馬は、愉快気な表情を浮かべながら言葉を発した。
「筋違いも甚だしいというか、我々日本人をなめきった行為だと思いますね。だいたい、あいつらの祖国が原因で、こういうことになったんでしょうが。それを逆恨みした上で、よりによって、私たちが口にする食品に異物を混入するなんて。そんな奴は、即刻、国外に追放すべきですよ……」
兄弟の両親に対する誹謗中傷合戦が繰り広げられた。
その間も、チャイムと玄関のドアをノックする音は鳴りやまなかった。
突然、父親が唸り声を上げた。テーブルに強く押し付けた箸先が折れ、テーブルの外に飛んでいった。今まで兄弟たちに見せたことのなかった鬼のような形相を見せていた。
母親の目には、涙が浮かんでいた。
和幸は、葛藤から抜け出せずにいた。
布団に入ったが、頭が冴えわたり寝付けない。体は疲れているのだが、脳が眠ることを拒んでいた。
少しの間うとうとしては目覚め、悶々と考える状態が続いていた。
頭の中で、彩菜と一緒に過ごした数日間の記憶と十年前のつらい記憶とが交互に浮かび上がった。
彩菜との関係を維持することと兄との約束を果たすことが両立しないことは、和幸も分かっていた。
彩菜の存在が、自分の中で大きくなりつつある。彼女となら人生をやり直せるのではないだろうか。
しかし、兄との約束を反故にすることはできない。自分だけの思いではなく、尊敬する兄の思いでもあったからだ。
誰に相談することもできない。ただ一人相談できる兄は、今、生死の境をさまよっている。
なぜ、自分は彩菜と出会ってしまったのだろうか。これも運命なのだろうか。
和幸は、彩菜との出会いを思い返した。
そんな和幸のもとに、彩菜からのメールが届いた。和幸の予定を窺うメールだった。
和幸は、風邪をひいてしまい体調を崩しているので、元気になったら連絡をすると返事を返した。
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