46 / 61
45・イベントが終わったら
しおりを挟む
慣れない経験をした長い夜が明けて翌朝。私は竹村係長と時間差をつけて彼の自宅から直接職場へと出勤した。制服なので、昨日と同じ服だとバレることも無い。
ここ最近では一番落ち着いた気分でいられた。憑き物が落ちたかのようにすっきりしたというか。身体はどことなく疲れが溜まっているはずなのに、足取りは軽い。始業前にお茶でも飲もうと給湯室に入ると、新田くんがやってきた。
「おはよう」
「おはよう」
「今日は、別のを使ってるんだね」
これだけで新田くんが何を言いたいのか分かってしまう。私はもう、あの口紅に頼る必要がなくなったのだ。
「うん」
「それが、のりちゃんの選択?」
選択も何も、よくよく思い返すと私には元々一択しかなかった。結局そこへ戻ってきただけということ。私は一口お茶を啜ってから返事した。
「そうだね」
「そっか。でも、もう一度だけでいいからよく考えてみて?僕は気長に待ってるよ」
新田くんは、少し寂しそうに笑う。それを誤魔化すようにして、結局お茶も飲まずに給湯室を出ていってしまった。
新田くん、もしかして。でも、相手は私だし。よく考えれば考える程自意識過剰な気がしてくる。だから気にしないでおこう。
そして午前中の業務が始まる。私はカタログの校生を行っていた。イベントの際に発表する新機能を搭載した最新機種の開発仕様書がようやく手に入ったのだ。これも、森さんが実の兄である開発の課長を身内ということを活かして強力にプッシュしてくれたおかげ。お陰で製品の外見が微妙に変更されることも判明し、試作機を撮影する段取りも早めにつけることができた。
昼からは職場会議。月に一度の緩い雰囲気の会議なのだが、今回はイベントに向けた部員の業務分担について改めて見直すことになっている。冒頭、私は手を挙げて高山課長に発言の許可をもらった。本来こんなことをするべきではない。でもこの会議をイベントに向けて経営企画部が本当の意味で一丸になる再出発の場にしたい。
私は細かなことは言わずにおいた。
「先日からご迷惑をかけておりますが、問題は解決しました。竹村係長はこれまでもお世話になってきた大切な上司ですし、それはこれからも変わりません。皆様に何かとお気遣いいただくことになって、本当に申し訳ございませんでした」
下げた頭を上げると、会議テーブルを囲む全員の視線が柔らかい。漂う空気もすっと軽くなって鮮度が良くなったような気がした。
その日の定時後、森さんからメールが届いた。隣の席にいるのに、なぜ声をかけてこないのか。何だろうと思いながら内容を見ると……
『のりちゃん先輩
お疲れ様です!
ついに、ついに! ですね!
おめでとうございます!
光一くんからはどんな言葉で告白されたんですか?
ゆきの』
おい、完全にプライベートメールじゃないか。私はすかさず返事する。
『森さん
今日も遅くまでお疲れ様。
いろいろと迷惑をかけて本当にごめんね。
竹村係長との喧嘩状態は解消されたけれど、
私は何も言われていません。
以前よりも仲良くなれたとは思いますが、それだけです』
送信ボタンを押すと、リアクションは生で伝わってきた。隣の席の森さんが椅子ごとこちらへやってくる。
「それ、どういうことですか?」
「え?」
「私の女の勘はこう言ってます。『こいつらは絶対にヤったな』って」
職場で何てことを言うのだ、この後輩は?! 私は慌てて森さんの手を引くと、打ち合わせコーナーに引きずり込んだ。
「あのね、とにかくもう雰囲気悪くしたりしないから、あんなこと大声で言わないで!」
「のりちゃん先輩たら照れ屋さんなんですからぁ。これも大抵の人が通る道なんですし、恥ずかしがることないですよぉ。とりあえず私はほっとしました。お付き合いできることになって良かったですね!」
手を叩いて喜ぶ森さん。私が、竹村係長と、付き合う?!そりゃぁ、昨夜はちょっと深い関係になったかもしれないけれど、それとこれとは別だ。
「だから! 付き合ってないんだってば! 好きとか言われたわけでもなし、きっと竹村係長もそのつもり無いに決まってる」
「う……嘘でしょ……」
森さんはムンクの叫びの如く、可愛らしい顔を引き攣らせている。そこまで驚くことないのに。あの歳でまだ独身の彼。社畜で喪女の私。そう簡単に事は進まないのは当然というもの。
「のりちゃん先輩は、それでいいんですか?」
昨夜感じた竹村係長の温もりをふっと思い出す。ボッチで引きこもりの私が、まさか人生の中であんな体験をする機会がやってくるなんて思ってもみなかった。
「……いいよ」
たぶんあれは、イベントに向けて真面目に働いてる私へ神様がくださったプレゼントなのだ。女の子として、一度でもそういう経験をさせてもらえたら、もう十分。欲は言わない。ましてや、本気になってほしいだなんて望んだら、何かの罰が当たりそう。
でも、そんな私を森さんは許してくれない。
「嘘です。顔は嫌だって言ってます」
「そんなこと、ないよ」
「……好きなんですよね? それとも、まだ嫌いですか?」
嫌いなわけ、ないじゃない。
もう森さんに誤魔化すのは止めた。
観念した私は小さく頷く。
「ほら! じゃ、ちゃんとのりちゃん先輩から伝えないと! こればかりは当たって砕ける心配も無いし、後はぶつかるだけですよ!」
「でも今はイベントが迫ってるし。お互いそれどころじゃないって言うか……」
これには森さんも二の句がつけなかったらしい。盛大にため息をついて、椅子から立ち上がる。
「ま、のりちゃん先輩だから仕方がないですね。でも! イベント終わったら必ず告白してくださいよ。それでないと……さすがの私も浮かばれません」
ごめんね。
「ありがとう」
ここ最近では一番落ち着いた気分でいられた。憑き物が落ちたかのようにすっきりしたというか。身体はどことなく疲れが溜まっているはずなのに、足取りは軽い。始業前にお茶でも飲もうと給湯室に入ると、新田くんがやってきた。
「おはよう」
「おはよう」
「今日は、別のを使ってるんだね」
これだけで新田くんが何を言いたいのか分かってしまう。私はもう、あの口紅に頼る必要がなくなったのだ。
「うん」
「それが、のりちゃんの選択?」
選択も何も、よくよく思い返すと私には元々一択しかなかった。結局そこへ戻ってきただけということ。私は一口お茶を啜ってから返事した。
「そうだね」
「そっか。でも、もう一度だけでいいからよく考えてみて?僕は気長に待ってるよ」
新田くんは、少し寂しそうに笑う。それを誤魔化すようにして、結局お茶も飲まずに給湯室を出ていってしまった。
新田くん、もしかして。でも、相手は私だし。よく考えれば考える程自意識過剰な気がしてくる。だから気にしないでおこう。
そして午前中の業務が始まる。私はカタログの校生を行っていた。イベントの際に発表する新機能を搭載した最新機種の開発仕様書がようやく手に入ったのだ。これも、森さんが実の兄である開発の課長を身内ということを活かして強力にプッシュしてくれたおかげ。お陰で製品の外見が微妙に変更されることも判明し、試作機を撮影する段取りも早めにつけることができた。
昼からは職場会議。月に一度の緩い雰囲気の会議なのだが、今回はイベントに向けた部員の業務分担について改めて見直すことになっている。冒頭、私は手を挙げて高山課長に発言の許可をもらった。本来こんなことをするべきではない。でもこの会議をイベントに向けて経営企画部が本当の意味で一丸になる再出発の場にしたい。
私は細かなことは言わずにおいた。
「先日からご迷惑をかけておりますが、問題は解決しました。竹村係長はこれまでもお世話になってきた大切な上司ですし、それはこれからも変わりません。皆様に何かとお気遣いいただくことになって、本当に申し訳ございませんでした」
下げた頭を上げると、会議テーブルを囲む全員の視線が柔らかい。漂う空気もすっと軽くなって鮮度が良くなったような気がした。
その日の定時後、森さんからメールが届いた。隣の席にいるのに、なぜ声をかけてこないのか。何だろうと思いながら内容を見ると……
『のりちゃん先輩
お疲れ様です!
ついに、ついに! ですね!
おめでとうございます!
光一くんからはどんな言葉で告白されたんですか?
ゆきの』
おい、完全にプライベートメールじゃないか。私はすかさず返事する。
『森さん
今日も遅くまでお疲れ様。
いろいろと迷惑をかけて本当にごめんね。
竹村係長との喧嘩状態は解消されたけれど、
私は何も言われていません。
以前よりも仲良くなれたとは思いますが、それだけです』
送信ボタンを押すと、リアクションは生で伝わってきた。隣の席の森さんが椅子ごとこちらへやってくる。
「それ、どういうことですか?」
「え?」
「私の女の勘はこう言ってます。『こいつらは絶対にヤったな』って」
職場で何てことを言うのだ、この後輩は?! 私は慌てて森さんの手を引くと、打ち合わせコーナーに引きずり込んだ。
「あのね、とにかくもう雰囲気悪くしたりしないから、あんなこと大声で言わないで!」
「のりちゃん先輩たら照れ屋さんなんですからぁ。これも大抵の人が通る道なんですし、恥ずかしがることないですよぉ。とりあえず私はほっとしました。お付き合いできることになって良かったですね!」
手を叩いて喜ぶ森さん。私が、竹村係長と、付き合う?!そりゃぁ、昨夜はちょっと深い関係になったかもしれないけれど、それとこれとは別だ。
「だから! 付き合ってないんだってば! 好きとか言われたわけでもなし、きっと竹村係長もそのつもり無いに決まってる」
「う……嘘でしょ……」
森さんはムンクの叫びの如く、可愛らしい顔を引き攣らせている。そこまで驚くことないのに。あの歳でまだ独身の彼。社畜で喪女の私。そう簡単に事は進まないのは当然というもの。
「のりちゃん先輩は、それでいいんですか?」
昨夜感じた竹村係長の温もりをふっと思い出す。ボッチで引きこもりの私が、まさか人生の中であんな体験をする機会がやってくるなんて思ってもみなかった。
「……いいよ」
たぶんあれは、イベントに向けて真面目に働いてる私へ神様がくださったプレゼントなのだ。女の子として、一度でもそういう経験をさせてもらえたら、もう十分。欲は言わない。ましてや、本気になってほしいだなんて望んだら、何かの罰が当たりそう。
でも、そんな私を森さんは許してくれない。
「嘘です。顔は嫌だって言ってます」
「そんなこと、ないよ」
「……好きなんですよね? それとも、まだ嫌いですか?」
嫌いなわけ、ないじゃない。
もう森さんに誤魔化すのは止めた。
観念した私は小さく頷く。
「ほら! じゃ、ちゃんとのりちゃん先輩から伝えないと! こればかりは当たって砕ける心配も無いし、後はぶつかるだけですよ!」
「でも今はイベントが迫ってるし。お互いそれどころじゃないって言うか……」
これには森さんも二の句がつけなかったらしい。盛大にため息をついて、椅子から立ち上がる。
「ま、のりちゃん先輩だから仕方がないですね。でも! イベント終わったら必ず告白してくださいよ。それでないと……さすがの私も浮かばれません」
ごめんね。
「ありがとう」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
〈銀龍の愛し子〉は盲目王子を王座へ導く
山河 枝
キャラ文芸
【簡単あらすじ】周りから忌み嫌われる下女が、不遇な王子に力を与え、彼を王にする。
★シリアス8:コミカル2
【詳細あらすじ】
50人もの侍女をクビにしてきた第三王子、雪晴。
次の侍女に任じられたのは、異能を隠して王城で働く洗濯女、水奈だった。
鱗があるために疎まれている水奈だが、盲目の雪晴のそばでは安心して過ごせるように。
みじめな生活を送る雪晴も、献身的な水奈に好意を抱く。
惹かれ合う日々の中、実は〈銀龍の愛し子〉である水奈が、雪晴の力を覚醒させていく。「王家の恥」と見下される雪晴を、王座へと導いていく。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる