「水に溶ける恋」花と読み解く物語

田丸哲二

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小さな真花

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 テラス席の白いテーブルに朝陽が差し込み、光の透けた硝子瓶に花の欠けた紫陽花あじさいが生けられた。青空は雲の切れ目から覗いているが、天気予報は曇りのち雨である。

 優花は見学したいと渋ったが、学校で待っていろと洋介が説得して送り出した。複雑な大人の事情を知る必要もないし、友だちだからこそ秘密にしたい事だってある。

「師匠に任せろ」

「わかった。お母さん行ってくるね」

 テラス席から由香里が笑顔で優花に手を振り、空が陰って雲で完全に覆われ始めた頃、店の前の通りに三瀬圭子と幸哉が手を繋いで歩いて来た。

 母親は子供の入学式のようにスーツを来て、少年はリュックを背負って制服を着ている。顔には痣と擦り傷が残っているが、水の錬金術師に言われたように、学校へ行くか行かないかは花の占いを見てから決めるつもりだ。

「よく来たな。幸哉くん」

 既にテラス席のテーブルにはコップと水と道具箱が置かれ、長谷寺の紫陽花に少年の行動を聞く準備をしてあった。今回の依頼はボランティアであり、迷える少年の心を探る事である。


「どうぞ、そちらへ」

 洋介の前の席に二人が並んで座り、姉が飲み物を出してすぐに店へ戻って行く。その後ろ姿を見てから、母親が冷たい眼差しを洋介に向けて疑問を投げかけた。

「息子が見たいと言うから来たのですが、何をするのでしょうか?」

「僕は花の想いを水に溶かして聴くことができます。今回はこの長谷寺の紫陽花に、貴方の息子さんが何故あそこで倒れていたか?この花が見て感じた事を水の中に蘇らせるのです」

 幸哉はテーブルの上の紫陽花と[水の錬金術師]のプレートを見てから洋介に視線を向けた。好奇心で瞳が煌めいているが、期待感はなく唇の笑みはすぐに消えた。

「正直、信じられませんわ。チラシは見ましたけど、珍しい占いですわね。しかも錬金術師の探偵なんて、子供向けの小説みたい」

「ええ、そう思って見ていてください。人間は嘘をつくが、花は嘘をつかない。少年の物語が悲しい結末であってもご了承ください」

 洋介がそう言って母親と少年に微笑みかけ、コップに水を注ぎ入れて紫陽花の中央部分にある小さな花びらを指で摘んだ。


「幸哉くん。紫陽花の花だと思われている部分は本当の花ではなく、装飾花といわれる葉が変形したガクだというのは知ってた?」

「いえ、そうなんですか?その小さい方が花だったの?」

「そう、これが真花……」

 洋介は姉に昨夜レクチャーされた説明をして、コップの水の中に小さな花びらを六枚沈ませた。

「ガクアジサイ」は中心部にある小さなツボミのような部分が「真花」で、「ホンアジサイ」は、「装飾花」を掻き分けた真ん中に「真花」がある。

 白と緑色の粉の硝子容器を選び、その二つの粉を銀のスプーンでひとさじずつコップの水の中へ入れ、ジュワッと泡立って紫色の小さな花びらが浮き上がるのをコップを持ち上げてよく見せる。

「君は覚えてないと言ったが、本当は話したくないんだろ?」

 覗き込む少年の瞳をコップの水に透かし、洋介はガラス棒でゆっくりとかき混ぜてから水を口に含んだ。

『花は想いを感じ、その恋は水に溶ける』

 そんな呪文を心の中で呟くまでもなく、洋介は長谷寺のあじさい路を捜索している時から、少年が雨に打たれながら紫色の花の下に隠れた理由を知っていた。

「君は誰かから逃げて来て、紫陽花の中に隠れた。その花に埋もれて、もう死にたいと悲しみに濡れてしまう」

 洋介は水を飲み込んで目を開けると、少年の優しげな顔を正面から見てそう告げた。

 その瞳には長谷寺の紫陽花の花たちが庭を見下ろし、黒い傘を差して青紫色の傘を手にした男性の姿が映っていた。洋介たちがあじさい路を捜索する数十分前、男はそこに立っていたのである。


 男は雨の中に佇み、付近を見回していたが人が多くなったので諦めて立ち去り、幸哉は優花にメッセージを送ってから寒さと失望感から気を失ってしまう。

[大好きな紫色の中。僕の心は二つに千切れた。……]

「その顔の傷は転んだからではなく、その男に殴られたんだよね?」

 長谷寺に来る前に高徳院で大仏を見学した二人は、駐車場の車に乗り込むまでは笑顔もあったが、男が突然叱責し始め、車内でいきなり少年の顔を殴った。

 洋介はその時の映像を頭の中に蘇らせ、目を背けて全身を震わせる少年の心が涙に濡れて花びらのように千切れるのを見た。

「父親は男らしく生きろと言い。母親は女の子のように育てようとした。少年の指標は二つに分かれ、行き場を失い、真の花は心の奥底に隠れた」

 洋介はその男が少年の父親で、息子の育て方に不満があり、いつしか妻にも暴力を振るうようになって家族が崩壊したと知る。

 男の怒鳴る声は聞こえなかったが、表情から何故父を選ばない。つまり母ではなく自分と一緒に住む事を息子に強要していると推測できた。

「ご主人とは別居している。息子さんを呼び出して鎌倉観光に誘ったご主人は、そのまま幸哉くんを連れ戻そうとしたのではないでしょうか?」

 洋介は頬を引き攣らせてコーヒーを飲んでいる母親を見つめてそう言った。それが紫陽花が見た少年の悲しみであり、水の中に溶け込んだ想いである。


「そうだとしても、幸哉は私を選んで此処にいます。この子は優しくて可愛らしくて、女の子に生まれた方が良かったのよ。あんな暴力を振るう酷い男にならないように、私が育てた方がいいに決まってる。違いますか?」

 母親は洋介ではなく、硝子瓶に飾られた紫陽花を見てそう訴えた。瞳から涙が溢れて頬を流れ落ち、空からも雨が降り始めて外の風景を濡らしている。

「お母さん。花に聞かないで。信じてないって言ってたのに、大人って変だよ」

 幸哉が首を傾げて母親の身勝手な意見を問い詰め、洋介を澄んだ瞳で見つめて微笑んだ。

「凄いです。全部当たってた。優花ちゃんに聞いてたけど、まるで魔法みたいに僕が見て感じたことを言い当てた」

「それは良かった」

 洋介も微笑み返し、ハンカチを取り出してこっちを見た母親へも笑顔を見せて依頼の終了を告げる。

「紫陽花の想いはこれで終わりです。あなた方ご家族に意見をするつもりもないし、何が正しいかなんて知らない。でも、幸哉くんの心の中に小さな真花が咲いている。それだけはお忘れなく」

 洋介がそう言って道具箱に硝子容器を片付け始めると、母親は頭を下げて席を立ち上がり、幸哉は雨の風景に視線を向けて思い悩んだ。

 その少年に水の錬金術が精霊からのメッセージのように耳打ちした。

「友だちへ本当の花を見せる。それが優花への礼儀だと思うぜ」
 

 幸哉はその言葉で目が覚めたように立ち上がり、「ありがとうございました」と言って深々と頭を下げ、リュックを背負って母が待つ玄関先へ向かった。

 それを見て母が赤い傘を開いて渡そうとしたが、幸哉は見向きもせずに雨の中へ飛び出して行く。

「ユキヤ」

 母が呼び止め、少年は立ち止まって振り返り、髪と頬を濡らして笑顔で答えた。

「お母さん。僕、学校へ行ってくる。僕は僕らしく生きるって伝えなきゃ」

 店内にいた由香里が玄関のドアを開けて雨の通りを走って行く少年を眺め、テラス席から出て来た洋介もその横に並んで見送った。

「上手くいったみたいね?」

「どうかな。試練はこれからも続くからね」

 姉は腕を組んで微笑み、洋介は目を閉じて優しい雨に紫陽花あじさいの花が咲き乱れ、紫色のストリートを少年が心の真花を手に取り、花束を届けに行く姿をイメージした。

 そして幸哉は走りながら、優花をLINEから外した時のモヤモヤとした苦しみを思い起こしていた。

 学校の下駄箱で「お母さんの言いなりじゃなくて、もっとユキヤくんの好きでいいと思うけど?」と意見され、「何も知らないくせに」と冷たく言い返してしまった。

「優花へは、僕の本当の想いを話すよ。だって、友だちだから……」


 窓ガラスに雨の滴が流れ落ち、窓側の席の優花が鉛筆を顎にあてて空を見上げている。

「幸哉くんが学校へ来たら、普段通りに迎えてあげませんか?」

 優花は授業が始まる前に先生と生徒たちにそう提案し、二時間目の授業が始まった頃に出席者が現れて教室がざわつき始めた。

 数人の生徒が振り向き、こそこそ話す生徒もいたが、優花は斜め前の通路側に座る幸哉をチラッと見ただけで、先生が授業を再開するのを静かに待った。

 しかし、じわじわと笑みが押し寄せて、小さくガッツポーズをするのを前の席の奈々子に見られて笑われてしまう。

 幸哉は教室に入る前に保健室へ行き、タオルを借りて濡れた髪と顔を拭き、服はまだ濡れていたが心は暖かく、急いで教科書を出して勉強に集中した。

 やがてチャイムが鳴り、休憩時間になると幸哉は自分から優花の席に行き、みんなのいる前で友だちとしてLINEを再開したいと頼んだ。

「優花、また前みたいにLINEしていいかな?」

「もちろんだよ。でもまた生意気な事を言うかも。それでもいいの?」

「わかってる。僕もそうなりたいんだ」

 幸哉はそう言って微笑み、教室の隅に集まってこっちを見ている男子生徒たちにもはっきりと宣言した。

「病院にみんなが見舞いに来てくれた時、どうせまたイジメられるに決まっていると思った。でも、僕はもう逃げないよ。男とか女とか、そんなことでイジメるなんて最低だと思う。こんなだけど、僕だって男だからね」

 その宣言に優花が驚き、背後から幸哉の袖を引っ張って止めたが、「カッコいい」と奈々子が呟き、パラパラと拍手もあって意外と効果があり、優花は振り返った幸哉と笑顔で見つめ合った。
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