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沼るホストと そのホストに沼される側

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 …6.…後半。
 続き



 首元に優しく触れる香柴さんの唇は、少しひんやりとしていて、収まり掛けた心臓の荒々しい動きが、再び強くなる。
 見える分で、数える気にはなれないけど、首とか胸にどんだけ跡と残してんだよ。
 「あの…これだと…シャツから見えるし…」
 はっきりしないキスマなら誤魔化しが聞くけど、見るかにこれは… 
 「なんって、言われるか…」 
 「お客さん? それか店側?」
 「…どっちも…」 
 くすぐるように香柴さんは、僕に擦り寄り後ろから抱き締めてくる。 
 心臓の音が、ちっとも収まらない。
 何か、いつみたいに平然とした表情に戻らない。
 気持ちが緩んでいるからか、顔も緩むみたいに力が入らない。 
 こんな感じは、初めてだった。
 今までの僕は、どんな感じだった? 
 
 『クールで、カッコいい!』
 “ カッコよくしてないと、モテないから。そうしているだけだよ ”  
 『ニレくんって、普通にモテるでしょ?』 
  “ 普通に?… ”  
 『やっぱ。ニレさんは、カッコいいですよね。憧れるって言うか、目標みたいな存在?』
 “ 僕が? ” 
 『ニレ。今月も、頼むなぁ~!』
 “ なんか ”
 『やっぱり。ニレさんには、敵わないです! 不動のって感じで!』
 “ もう… ” 

 「疲れた」

 香柴さんの腕にしがみつくみたいに顔を埋めた。 
 ほんの少し優しくされて、甘やかされたみたいになって… 
 自分が、優しくするんじゃなくて…  
 自分も、優しくされたくなった。 
 子供の頃の記憶って言うか、親との確執みたいな関係は、呪縛みたいで… 
 急に優しい言葉を掛けられて、優しくされて簡単にほだされて… 
 気が付いたら。この優しさを自分のモノにしたくなってた。 
 僕は、優しさの加減を、知らないで育ったから。 
 香柴さんからの…
 優しさ? 温もりが、突然のように心地よくて仕方がない。

 こんなにあっさりにも、求めていたモノに近いモノを手にしてしまったら。
 今まで通りの媚びた優しさは、演じれない。
 本当の僕は、皆に喜ばれるようなカッコいい人間なんかじゃない。
 振りでカッコよくしているだけだよ。
 それに心底、疲れていた。
 僕みたいな中途半端な愛情や無い物ねだりな優しさには、本物の優しさに敵わない。
 この人から感じられる行為には、優しさがあるように思えてならない。 
 もしかしたら。
 僕の勘違いって、場合もあるし。
 からかわれて居るだけで急に、嘘だよとか言われる可能性だってあるかもしれない。
 自分都合に考えてしまえるほどに僕は、この人の存在に依存しようとしている。
 僕の方が余っ程、我儘だ。
 だとしても僕は、この抱き寄せられている腕が、離されるのも自分から離すのも嫌だ。
 「ニレくん。気分悪いの?」
 僕は、首を振る。
 「…違う。本当は、愛されていたかった。愛情が…欲しかった」 
 「うん」
 「優しくされたかった」
 「うん」
 「だから。香柴さんが、頭を撫でくれたことが嬉しかった」
 僕は自分自身が、思うよりも単純で、どう見ても、我儘な人間なのは明白だ。
 再び唇が、触れ合う。
 絡み合う舌が、糸を引くような深いキスへと変わっていく。 
 フト息が、キスの合間に溢れる。
 見詰められる視線に身体が、痺れたように震え出す。
 シャツを、捲るように服と肌の間で、擽るように手を這わせられると変な声が、つい漏れ出てしまう。
 力が入らなくなる身体を、香柴さんが抱き締めてくれる。
 脱ぎ捨て合うみたいに散らかる衣服は、僕にとっては殻みたいで…
 重なり合う身体は、熱に侵され続けそれが、自分の体温なのか相手の体温なのか、分からない程に入り乱れていた。
 後ろから抱えれ痛みにも似た快楽の動きの中でも、前からの激しく求められる艶めかしい圧迫感に悶えて、ビクッと跳ね上がる身体を、優しく抱き留めてくれる手が、何もよりも嬉しく思えた。
 「ん~っ…」
 「…なぁ…何で、締め付けくるわけ?」
 「分からない…」
 指を絡め合いながら香柴が、僅かに腰を浮かせる。
 敏感に反応するように僕は、無意識に締め付けたらしい。 
 「抜こうか?」
 こんな異物感は、苦しいだけだから抜かれてしまった方が、楽なんだろうけど…
 身体が、言うことをきかない。
 「あのなぁ…急に、おっ始めたから。ゴムとかしてねぇ…のな…」
 「…んっ…」
 「これ以上出すと、流石にヤバいだろ?」 
 頭の中が、燃え尽きる寸前みたいな感覚になっていて、何も考えられなくなり快楽的に身体が、反応しているようだった。
 首筋を舐められ吸い付かれる。
 荒々しい息遣いで、甘噛された耳の内側を舌が、飴玉でも舐め回すみたいにするから。
 また反応してしまう。 
 多分。気の抜けた顔しているんだと思う。
 「顔がメス化してんじゃん…」
 トロトロにされてる顔のことだろうか?
 「抱き潰そうか?」
 「………」
 もう…抱き潰されてる感覚しかない。
 だから。
 このまま溶け合い続けていたい。
 次に僕の意識が戻ったのは、完璧に翌朝だった。
 初めて感じる違和感だらけの身体が、ダルいくて…
 抱き寄せられて眠ったのか、香柴さんの腕の中ってのが、これ以上ないぐらいのパワーワードな気がして、妙に恥ずかしくなった。
 閉じられたカーテンの隙間から差す朝日が、部屋を照らす。
 昨日のドサクサに置き忘れたスマホからメッセージを伝えるバイブの音が、微かにする。
 多分、ひょっとしなくてもカノジョからだろう…
 でも、今は時間が許す限り微睡んでいたい。
 もう少し香柴さんの体温を、近くで感じていたいからと無視をした…



 
 7.

 


 ニレが、俺の部屋で眠っている。
 しかも、隣で少し前に目を覚ました時には腕を回していたはずが、もう一度目を覚ました時には、1人でうずくまるようにベッドのやや端の方に寄って、寝入っていた。
 気持ち良さそうで、起こすのが勿体無い。
 寝返りを打つたびに髪が、サラサラと流れて少し開けたカーテンの隙間から差す日に照らされて、艶良く光っている。
 見るからに美形で、メンクイ気味の馬宮さんが、密かに熱を上げているのが分かる。
 俺はと言うと… 
 別にバイでもゲイでもない。
 でも、かと言って付き合ってきたのが女だけとも言い切れない点は、バイ寄りと言えばそうなのかも知れない。ただ基本的に人に興味が、わかないだけだ。
 好みってのも、特にない。
 シたい時は、無作為に相手を選ぶ。 
 関係は、一度っきり。
 マッチングアプリも、普通にありだが、酔っているからと部屋に連れ込むことはしなかった。
 住所バレは、面倒だからだ。
 もしも、身バレしたら。
 あからさまな金目当てが、大半だ。
 それで、あのセリフだ。

 「まったく。急に連れて来られた店で、気前良くおごんなよ‼」

 予想外なセリフだった。
 高い店で、それなりの金額を支払えば、金持ちだとか簡単に近付いてくると思っていたから。
 なのに暴言並のセリフは、見方を変えた。
 そしたらあの店のNo.1だ。
 そりゃ…金で、つれるわけがない。
 相手も、それなりに稼いで居るんだし高そうなプレゼントだって…もらってるはず。 
 こっちが、いくらアピった所で引っ掛かる訳がない。
 今回は、無かった事にして立ち去る予定が、引き留められたってわけだ。
 別に俺は、ニレを抱いた事に対して後悔とか面倒くさいとは、思ってない。 
 逆に言えば、ニレの方はどうだろう? 
 見るからにノンケだろ?
 ホストで、店の看板商品が、男に掘られた訳だし。
 プライドとか、メンタルが心配だよな?
 でも、半分はニレの方から煽ってきた。
 俺に少しは、興味があったのか?
 今一…ニレの気持ちが、測れない。
 ベッドの上で上体だけを起こして、肩の出掛けたニレに毛布を掛け直した。
 「ん…?」
 ポヤッと、目だけを覚まし。
 まだ、眠そうにコロンと俺の方に転がってくる。
 「大丈夫?」
 ヒタッと吸い付くみたいにニレは、俺が差し出した指先に、頬を近付けてくる。
 その様子は、猫がじゃれてるみたいで不思議な感じがした。
 すると、寝惚けてる風なニレは、俺に甘えたように頭を撫でて欲しいとだけ言ってきた。
 最初は、本当に出来心で飲みに誘ったようなものだ。
 あわよくば、何って単純にも考えた。
 でも、実際に関わると掴み所がないと言うか、子供が大人に甘えるみたいな物欲しそうに擦り寄ってくる。 
 普通だったら。
 俺が、一番面倒だと感じる部類の人間なのにだ。
 だから。昨日のキスは、あわよくばだ。
 最初は、ムカついた。
 直ぐにヤれると踏んでいたから。
 落ち込んで居る所を、丁重に介抱して隙を作って、懐に入り掛けながら抱いてやろうと考えていた。
 それが、大きく的が外れて苛立っていたら。
 抱き潰してしまい。
 この寝顔だもんな…
 安心したような。
 気持ち良さげな表情に、見惚れた。
 元々、店で紹介された時から気にはなっていたし。 
 少しでも気付いてくれればと、思っていたら。自分から近寄って来てくれたのは、ラッキーと思いつつも…
 何となく罪悪感が残ったが、ニレも何故か、俺に付いてきたそうだったし。
 そのまま連れ出した。
 傍から見れば、俺のした事はヤバい事なのかもしれない。
 それでも、ニレを手放すのが、惜しくなって… 
 今現在。
 こうなった。
 撫でてもらえるのが、そんなに嬉しいのかってぐらいに撫でるとニレ喜んで、満足したのか、また寝息を立てた。
 普段俺しか居ない空間なのに自分以外の音や気配がするのが、新鮮でつい気持ちが緩でしまった。
 
 ブーブーブー…  ブーブーブーブー

 またどっかで、スマホのバイブが鳴っている。
 俺が、目を覚ましたのもその音を聞いたからだ。
 数十分おきか、数分おきにバイブが鳴り響く。
 そう言えば、ヤってる最中も… 
 「…鳴ってなぁ…」
 早朝ってのもある。
 覚めたばっかりで、まだ気怠さの抜け切らない身体でベッドから這い出る。
 脱ぎ散らかした服を寄せ集めて洗濯出来るものは、洗濯機に放り込もうと拾い上げると、Aーーの着ていたカーディガンが踏まれたみたいに平たく床に広がっていてその近くで、例のバイブが鳴っていた。
 飽きもせず。ご連絡ご苦労な事で…
 床に放置するのもどうかと思い拾い上げると通知バーが、チラッと見えた。
 アイコンは、小瓶?
 あぁ…香水の小瓶だ。
 オシャレな小瓶が、並べられた所を見ると通知の相手が、女であることは明白だった…
 連絡が、欲しい。
 今直ぐに欲しい。
 …と、立て続けに飛び込んできた。
 尋常とは、思えない履歴。
 通話のバイブじゃなくて、メッセージが立て続けに送られてきていたから。長ったらしくバイブが、鳴っていた訳か? 
 気の毒と言うか、顔だけでもモテそうなヤツが、こんな地雷系みたいな突飛な女と俺みたいのに引っ掛かるとか、どんだけ人運ねぇんだよ。
 コイツは…
 まぁ…同情した所で、どうにかなるわけでもねぇーし。
 本人は、起きそうもないから。
 寝かせておこう。
 スマホは、音が響くから使ってない別室に放り込んで置くか…
 俺は、その場を一旦離れた。
 数時間後に目を覚ましたニレは、寝室のベッドの上で毛布を頭から相被り起き上がっていた。
 相変わらずポヤっとしていて、店で見掛けた印象が、大分薄くなっていた。
 「起きれた?」
 「うん。あの…今何時?…」
 「えっと、昼前」
 「そう…」
 「何か…飲む?」
 毛布を、被ったままブンブンと首を振る。
 何を、慌ててんだ?
 「あの…」
 「ん?」
 兄から任せられた在宅仕事の合間をぬって寝室を覗いたら。もう既にこんな感じになっていた。
 「僕が、着てた服は…」
 あっ、そう言えば洗濯して乾燥機に掛けている所だったのを、思い出したところだった。
 あと少しで、服の乾燥が終わると伝える。
 「何なら。風呂が、沸いているから。入ったら?」
 「うん…ありがとう…」と、何だか歯切れが悪い。
 ペタンと座り込んだままで、動くに動けないような…
 あぁ…そう言う事か。 
 「ほら」と、差し出された手を、掴むべきか迷った。
 でも、起こってしまった事は、覆らないし。
 事実だから。 
 香柴さんの手は、昨日と同様に優しい。
 少し体重を掛けたぐらいでびくともしないぐらい力強くて驚いた。
 「辛いなら。抱きかかえてもいいけど…」
 「それは、ちょっと!」
 僕は、香柴さんの手にしがみついた。
 ゆっくりと、手を引かれて廊下を進む。
 昨日も思ったけど、この部屋広い。
 リビングだって、広かったし。
 さっきまで寝てた寝室も、詳しくは分からないけど広い。
 前にオーナーの部屋で、飲み会あった時に通されたリビングも、広いとは思ったけど…
 アレの上も、存在するんだ…
 僕の住んでるワンルームのリビングが、スッポリと収まる宏さであることは間違いない。
 「はい。着いた。後は一人で大丈夫かな? 何かあったら。呼んで俺の仕事場廊下を挟んだ反対側だから」
 爽やかな笑みに悪巧みとか、性格悪そうは、当てはまらないけど… 
 微妙に遠慮したい人かもしれない。
 「…………」
 …って、僕…この人と…
 全身の血流が逆流するぐらい一気に身体が、熱くなるを感じた。 
 被っていた毛布を肩まで下ろし。  
 浴室に入ると大きな姿見に目が止まった。    
 昨日よりも、遥かにキスマの数が増えてる。
 全身は、大袈裟だけど… 
 首とか胸とか脇腹とか… 
 内ももとか…
 発狂しそうにるのを、どうにか堪えて軽くシャワーを浴びてから湯船にタップリと浸かった。
 身体が温まると、腰や背中の痛みは大分マシになっていった。 
 それにしても、脱衣場も風呂場もバスタブも広い。
 全部引っ括めて、賃貸だった実家の自室の広さと良い勝負だ。
 何でこんなに、金持ってんだよ。
 まぁ…月の売上とかに見合う物件借りればいい話だけど…
 今一、寝るだけの部屋に金を賭けるって感覚がなぁ…
 それに僕の場合は、本当に欲しいモノだけが手に入ればいいってスタンスだから。必ずそのブランドの新作が欲しい訳じゃない。
 倹約主義で無駄遣いは、NOって両親に育てられたから。  
 贅沢するって意味が、全く持って分からない。 
 仕事仲間でハイブランドで身を固めて尚且つ良い所に住むが、ステータスのヤツも居るし。
 そう言えば、後輩のめちゃくちゃ髪のセットに時間を、掛けてます頭の宜保は、その傾向が強いよな。
 ただ。アイツは、実力があるのに直ぐ悪乗りする癖があるから。
 オーナーは、要注意だって言ってたなぁ…
 悪いヤツではない。
 少し生意気って所はあるけど…
 それに比べて要領は良くないけど、晶の先輩やオーナーに付いてあれこれ教わる姿勢は、皆が褒めているぐらいだ。
 宜保も、その辺を見習って変に悪乗りせず。確実に仕事をこなしていけば、近い将来、僕を抜いてNo.1になるかもしれない人材なんだけど…  
 どうだろう? 
 温かいお湯の中で、思いっきり伸びをしていると、脱衣場の方の扉が開いた。 
 「服乾燥終わったからカゴの中に入れとくね」
 「ありがとうございます…」
 気恥ずかしさか、口元まで湯船浸かっていた。 
 「あっ…ニレくんは、バスソルトとか好き?」
 そう言えば、常連のお客様から入浴剤の誕プレとかって貰ったっけ?
 ラベンダーとローズ系の凄く良い匂いがしたやつで、体が芯から温まる感じがして自分でも同じのを探してしばらくは、ハマってたなぁ…
 「知人からギフトで貰った物とかの寄せ集めだけど、ローズ系とウッド系に柑橘系とラベンダーが、あるんだけど…どう?」
 「ローズとラベンダー…」
 「うん。って、直接見てみる?」
 興味は、あるけど…
 「…カゴの隣に置いとくから。見てみな」
 そう言って脱衣所の扉が閉められた。
 入って来るのかと身構えたけど…
 そんな事はなくて、なんか思い上がってた僕が、バカじゃん。
 抱かれたとか、抱いたとか… 
 あんまり意識しない方が、いいのかも知れないって事かなぁ?
 本心を、さらけ出しながら相手に溺れそうになるとか…
 僕も、貞操なさ過ぎる。 
 しかも、男にって…
 でも、実際。
 悪く無かった。
 本気で、気持ちいいって思ったし。
 すがるような行動を取ったのは、僕も同じで最初に煽るように香柴さんの首に抱きついたのは、僕方。 
 仮にあの行為が、間違ったことでも…
 それは、仕方がないんじゃ…
 香柴さんは、見るからに落ち着いていて大人な人だと思うから。 
 僕みたいなガキを、本気に相手にするわけがない。 
 気まぐれとか? その方がしっくりくる気がして、逆上せそうなる身体を、ゆっくりと起こして湯船から上がった。 
 バスソルトは…  
 使えなかった。
 使いたかったけど、これ以上は甘えちゃダメな気がして、着替えだけして廊下に出たけど、どこに行けばいいのか分からない。
 そう言えば、廊下の迎え側で仕事してるとか…言っていた気がするけど…
 仕事最中かもしれないし。
 部屋に入るのは、迷惑だよね? 
 かと言って、このまま帰るのは、礼儀としてダメだし。何を、どうするのが正解なんだろう?
 いつもだったら。こうだって! ためらいなく動けるのに、思うように動けない。
 「…折角、温まったのにそんな所で素足のままいたら。湯冷めするよ。はい。スリッパ履いて、初夏って言っても、今日は雨だから尚更、冷えちゃうよ」
 パサっと、カーディガンが掛けられた。
 それは、僕が着ていたものではなくて… 
 「これ。俺のね。ニレが、昨日着てたのは、クリーニングに出しといた」
 「えっ…? いつの間に…」
 「さっきコンシェルジュさんに取りに来てもらって、クリーニングに出した」
 「…………」普通のマンションに…
 コンシェルジュさんなる職業は、居ない。精々常駐してるのは、管理人さんぐらいだ。
 ここバカ高いタワマン系か? 
 元々、昨日は酔っ払っていて連れて来られたような感じだし。 
 確か…お店やあの辺り近辺で、コンシェルジュなる人達が、居て高層階とか…
 「あれ? バスソルトは使わなかったの?」
 「あっ…えっ…と…」
 着替えをしながら横目でチラッと見たアンティーク調の小物入の中にあったバスソルトは、僕が貰ったモノとは違って、一目で高級品と分かる類で…
 本人は軽くギフトなんって言っていたけど…
 ブランドのロゴが見えた。
 庶民は、使っちゃダメなやつだよ。
 「ローズとかラベンダーの香り評判いいんだけど…」
 評判が、いい? 
 自分以外の誰かが、確実に風呂に入るシチュエーションが、あるってことだね。
 この様子だと、こんな風に連れ込んだヤツは、初めてじゃないらしい。
 良かった。勘違いしなくて…
 やっぱり気まぐれだ。 
 じゃなきゃ会って直ぐ。
 しかも、同性を抱くか? 
 まぁ…バイとかゲイとか…よく知らんけど…
 遊んでいる風には、見えないけど遊びみたいな感覚だったのかも、知れない。
 「ニレ?」
 こう言う考えの人は、セフレまではいかなくとも、そう言う人が、常に居るって聞くし。 
 探してたらたまたま目に付いたのが、僕みたいな? だったかも知れない。
 それに、同意を持ってるならメッセージとか、電話で呼んだりする事もあるらしいって聞くし。そうなると…いつまでも、僕が居るとじゃまだね。 
 「あの…僕のスマホどこですか?」
 スマホがあればコンビニで傘とか買えるしね。
 後…店に荷物も取りに戻りたい。
 「あぁ~っ…スマホね…」
 そうだった。 
 うるさいからって、使ってない部屋に放り込んで置いたんだった。
 「ちょっと待ってて!」
 そのままニレを、残すのも何だしとリビングに案内してからソファー適当に座ってもらっている内にスマホを取りに部屋へと向かった。
 すっかり忘れていた。
 慌てて取りに戻ると、相変わらずスマホが、ブーブーと振動していて、チラッと見えた通知バーは、例の女から…らしく。
 連絡。
 連絡。
 連絡と、連続して通知してきていた。
 もしも俺が、ニレの立場なら速攻でブロックで着拒だな。
 面倒くせー。
 俺も、たまに厄介なヤツに好かれる事もあるが、ここはセキュリティが、しっかりしていて車で地下駐車場まで入る事ができる所も、住むにあたっての判断基準で安全管理は、ちゃんとしている。
 出入りには、必ずコンシェルジュが遅い時間まで、目を光らせてくれているし。至る所に防犯カメラが設置してある。
 オマケにカードキーは、複製は不可能。万が一紛失したとしても、コンシェルジュから直接受け取らないと部屋にも入れない。
 俺的には、良い物件だが、たまに親族系のコネと疑ってくるヤツもいる。
 断じて親族のコネで、住んでい訳じゃない。家賃も、適正に払っている。
 そう答えると、他人はまた意外な顔をして親族の持ち物件でしょ? と詰め寄ってきたりする。
 そう言うのに限って、家賃が安く上がるんでょ? や、俺と付き合えれば安くて、人気のタワマンに住めるかもと、近寄って来る事も少なくない。
 しかも、家賃が自費となると目の色を変え鼻息荒く息巻いてくるから。
 「…じゃ…なんで…店の支払いなんかしていくんですか?」
 と、ニレに飽きられた。
 まさか、NIREの気を引こうと仕掛けたら自分の方が、ハマったとは言いづらい。
 「馬宮さんって、飲むとしつこし。帰らなそうだったし…」
 「確かに、そう言う所ありますけど…昨日は、そこまでは飲んでませんでしたよ?」
 「まぁ…終わった事だし」
 曖昧な俺の返事にニレは、頷きながら手元のスマホを、スクロールでもしているのか、じっと見詰めている。
 「…あのさぁ…」
 「はい?」
 「ニレって…本名?」
 「へぇ…」
 ニレの顔をスマホから上げされる事が、出来た。  
 「そうですけど…」
 「何って言う字?」
 「あっ…えっと…」
 俺が、メモとペンを差し出すと、丁寧に綺麗な文字を書いてくれた。
 「紫藤 楡…」
 コクリと頷く楡は、少し照れくさそうに見えた。  
 で…また。ブーブーと、鳴り出すスマホの着信音。
 「…カノジョから?」
 俺は、何を改まって聞いるんだ?……
 「居ますけど…」
 「そうなんだ…」
 普通に速答された。
 聞きたくない事を、聞いてどうするつもりだよ…
 「気になりますか?」
 気にならない方が、おかしいだろ?
 「向こうから。告られて付き合ってます。心配性で、嫉妬深い子で…」
 妙にシュンとした顔をしている。
 一応ってのは、変かもしれないが、あまりいい関係とは言えない。
 そんな表情をしている。
 そうなると、昨日の悶えた声と顔の楡には悪いが、優越感が半端ないな。
 必死に背中や首にしがみついては、涙目になりながら擦り寄ってきた楡を、普通に可愛いと思ったし。
 酒が入っていたからと言っても、相性は良かったと思う。
 けれど、一夜明けてから。徐々にクール差が、戻りつつあるようだ。
 冷静になってきたって事か?
 「あの…今更ですけど…香柴の本名は?」
 言葉でしか自己紹介していないのは、自分も同じだったと、楡の名前が書かれた横に香柴 茉莉と書いた。 
 「茉莉さん…」
 「昔は、よく女みたいだって、からかわれた。必ずちゃん呼びだし。ただそうやって呼ばれて出て来るのが、図体デカい俺だから。必ず引かれる…」
 クスッと、楡は笑う。
 でも、さっきから余り俺とは、目を合わせてこない。
 合いそうになると酷く慌てて、別な方に顔を向ける。
 「…どうか…したの?」
 そう問うと、楡の顔は、ほんのりと高揚して赤くなって見えた。
 「別に…」
 僕は、それなりに意識されてるのかな…
 香柴さんは、大人の余裕かってぐらいに平然としていて、何も動じてない。
 僕ばっかりが、同様しているのを悟られないようにしているのが、ハズい。
 この人が、僕をどう思っているのか、気にならない訳じゃない。
 好きでもないのに…あんな事されて、気持ちが上手く定まらなくて…
 「あの…」
 「何?」
 「帰ります!」 
 最初からそうやって、立ち去れば良かったんだ。 
 「貸して貰ったカーディガンは、クリーニングに出してお返ししますし。僕のは、店に着払いしてもらっても、いいので足りない分は、改めてお支払いしますから…」
 と、席を立つと香柴さんは、僕の腕を掴んだ。
 「そのままで、帰るつもり?」
 「そうですけど…」
 「キスマが、目立って何事かと思われるよ…」
 って、そっちが付けてきたんだろがと、妙な怒りを覚える。
 「気休めかもだけど…」
 掴まれた腕のまま僕は、また寝室の方へと連れ込まれた。
 「えっ…あの…」
 「はい!」
 そう言ってクローゼットから手に取り差し出してきたのは、黒の…
 「パーカー?」
 「言ったろ? 気休めって…少しはコレで、隠れると思うし。なんなら車で送ってく。あぁ…えっ…と近くまで…」
 最後を少し言い換えた。 
 今更な気もしたけど、若干まだ身体の調子が戻ってないのと…
 首筋のキスマと言う理由で、香柴さんの仕事が一段落した所を見計らい送ってもらえる事になった。
 「店でいいの?」
 「はい。私物置きっぱなしで、出てきたし」
 「私物って…財布とか?」
 「後、部屋の鍵とか…」
 雨曇の空は、どんよりとしていて雨が降ったり止んだりを繰り返している。
 スマホの履歴は、相変わらずで…
 バイブは、うるさいから。ミュートにしてしのいでいる状態。
 昼過ぎだし。
 一番乗りは、オーナーであることが多い。
 裏口から続く通路は、ロッカールームと事務所のある一階と控室に別けられていて、店内に繋がる2階の階段がロッカールームの近くある。。
 シーンとした通路を進みドアをノックし失礼しますと、一声掛けた。
 「おっ! 早えーな? どうした?」
 「おはようございます。えぇ…っと、その…」
 ディスクから立ち上がり僕の方へと歩み寄るオーナーは、いつも通り明るく陽気に見えるが…
 「…オーナー。香水変えました?」 
 「何で?」 
 「いつものエスニック調の香水と…似てはいるけど…スパイシーなウッド系な感じの…難易度の高い二色付ですか?」
 「…この香水ヲタクが…」   
 「えっ!」
 「…で?」
 威圧するように僕の前に立つオーナーは、相変わらずの迫力だ。
 「で、昨日、何があった?」  
 目深にフードを被り過ぎたのが、逆に不審さを煽ったらしく顔を覗き込まれた。
 「…ひい。ふう。みい。やー……」
 「数えないでください!」
 「お前も、そんな顔すんのな?」と、オーナーに笑われた。
 「…色々…あって…」
 「別にさぁ…例のカノジョだっけ? 付き合うなとは言ってねぇーけど、節度ってもんがあるだろ? それどうやっても、隠せねぇーだろ?」
 「……………」
 「お前の売りは、クールで知的で話を聞いてくれて…甘えさせてくれる……真逆いってどうすんだ?」
 それは、分かるけど…
 「それとも、香柴さんに新しい女でも、紹介されたか?」
 予想だにしない質問に息を飲んだ。
 「これが…宜保なら。まぁ…やり過ぎ感は否めないが…チャラさに磨きがかかっていい気もするが…お前は、ダメだ」
 「…………」
 「いいな。しばらく休め。まぁ…デカい休み取ってなかったんだ。休養だと思え…売り上げの変動は、そこそこあるかもだが…他のヤツらにとったら。良い機会だ。お前が、出れねぇ…日数分、派手に競ってもらうよ」
 やっぱり。この人は、誰が相手でも容赦ない。
 休暇申請が、上手く通ったことで僕は、そのまま事務所を出て隣のロッカールームに自分の荷物を取りに入った。 
 そこには…
 「晶?」
 「あっ……あざーす。随分と早いですね?」
 「…ちょっとな…」
 セット前の髪型は、特別ハネてるでもなく。少し癖っ毛の見慣れない風体の晶が、ロッカールームに備え付けの長椅子に座っていた。 
 しかも… 
 「ジャージ?」
 「あぁ…オレ今日は? 休みなんすけど…そのやらかして…オーナーから? 掃除当番を…申し付けられて?」
 何で…しどろもどろ?
 「掃除終わったら帰りますから。あはは…」
 「そっ…頑張って…」 
 自分のロッカーから。何の変哲もない。
 可もなく不可もない。どこにでも売ってそうな大き目なトートバッグを取り出し肩に掛ける。
 「あの…」
 「ん?」
 「それ…キスマっすか?」
 「…‼っ………」
 いつの間にか、距離を詰められていたのか、隣に立った晶は、意外そう表情をしている。
 「その数。エッグ…」
 「って、覗き込むな!」
 「しゃーないじゃないですか? 楡さんも、それなりに身長高い方だけど、オレの方が身長高いし。フード被ってれば、見えないけど…オレからしたら…丸見えっすよ。しかも、そのパーカーサイズの合ってない男物だし…」
 口が、パク付いていたかもしれない程の衝撃だった。
 「しかも、何気にブランドモノのパーカーだし。楡さんブランド系の服って、好きじゃないから」
 ニヤニヤして気持ち悪い後輩だな。 
 「…だからなんだよ?」
 「そう言うキスマは、見えない所にって、相手にお願いしないと…」 
 「はぁ?」
 「オレみたいに…」
 ジャージのチャックを、わざとらしく数センチ下げて鎖骨の下を曝け出す。
 ほんの少し前に付けられました的な生々しいキスマと、ワッと漂う鍵覚えのあるエスニック調の香水。
 「晶さぁ…いつものカルダモン系の香水どうした?」
 「いつもと変わらないでしょ?」
 まぁ…エスニック調の香水でもスパイシー系の香水でも…大雑把に説明すれば、似てるかも知れないけど…
 「これ…オー…」グフッと、おもいっきりデカい手で、口をと言うか顔を覆われた。
 だいぶ焦っているようだ。
 「あっ…スミマセン!」
 「まぁ…別にいいけど…」
 いつもしているカルダモン系の香水とは、異なる香水の付き具合が、若干色濃く感じられた。 
 コイツも、ポーカーフェイスを若干の売りにしてるから…
 こう言う顔すんのかと、吹き出した。
 「…いや…さっき…そのオーナーが、その…事務所も、掃除しろって言ってきて…その時に香水付けてたからじゃないかと?……多分…」
 いつもの小生意気な後輩のなりが、すっかり成りを静めて、かなりいい具合に薄まった。
 動く度に二人分の香りが、混ざったみたいな…
 嗅覚えのない香りが、晶からも漂う。
 「…で、それ…例のカノジョさんが?」
 あからさまに、話を変えてきた。
 「………」
 「アレ? 違うんですか?」
 「お前には、関係ない」
 「ふ~ん。まぁ…そう言う事にしておきますね」
 ニヤつく表情。
 コイツは、根本的にいつもこんな感じだ。
 「そう言えば、楡さんによくヘルプでつくヤツ…」
 「あぁ…宜保?」
 「そうそう。ギボさん。なんか…」
 晶は、身長差を生かした耳打ちをしてくる。
 「楡さんのカノジョ…狙ってるみたいっすよ…」
 「…へぇ…」
 「反応薄!」
 「そこまで、ビックリする程か?」
 「よく楡さんが、仕事終わりにカノジョと腕組んで歩くの見掛けたし。なりにラブラブなのかなぁ…って?…もしや…倦怠期?」
 「……別にそんなんじゃねぇよ……」 
 パッと見。
 キレイかわいい系で、ストレートの髪型とファッションで清楚系に見えなくもないが…
 実際。
 あのワガママぶりは、目に見張るものがある。
 仕事中にお客様の見送りで、店の外に出ると見計らって現れたり。
 声を掛けてきたりするから。
 その時にヘルプで一緒になったギボが、カノジョを見掛けて気になっていても、不思議じゃない。
 派手なルックスにハイブランドの服を、私服の様に着こなせる程の高身長とスタイルが人気で、指名も取れてきているし。売上に貢献している一人らしい。
 「オレも、早く売れてぇ~っすよ。で、ブランドの服を着こなしたりしてぇ~…」
 「お前にブランドモノは似合わねぇーよ。僕と同じで…いいんじゃない? カジュアル路線で」 
 「…オーナーとおなじこと言わないでくださいよ…でも、オレ。楡さんが、カッコよく何でも、着こなしちゃうとこ…結構憧れてます」
 「ありがとう」
 晶は、素直なヤツなんだけど、今一野心がないんだよなぁ… 
 それが、あれば上り詰められると思うんだけど…
 対して宜保は、接客も対話も申し分ないし。野心もそれなりにある…が、若干俺様気質が、拭えない。
 話題も豊富だし。
 それなりに努力家してるんだろうけど…
 オーナーも先輩達も、チャラさ加減をどうにかして欲しそうだ…
 まぁ…そう言うのを、好む客も居るから。受けては、居るんだろうし口うるさく言わないんだろうな…
 「で…楡さんは、今日、何時頃のご出勤で?」
 どっかの誰かが、したみたいに指で、自分の首筋をなぞりながら。
 僕に付いたキスマの場所を、指差しニッコリする晶にしては、珍しく徴発でもしてくるような仕草を見せる。
 「しばらく休暇…実家で、ゴタゴタがあって…」
 「へぇ~~そうっすか…」
 「うん。だからしばらくは、休むな」
 と、咄嗟に付いた嘘だが、オーナーの事だ。上手く話を合わせてくれるぐらいは、機転をきかせてくれるはず。
 まぁ…だから。この店を維持していけるんだろう。
 「…それに…したって…キスマを、誤魔化す嘘が、疎遠にしてる家族のゴタゴタって…」
 付けまくった張本人が、何を言ってんだよ? 
 「消えるまで、来んなって言われた方の身になって欲しい…」
 「ふぅ~ん…」 
 運転席に座り爽やか風を、装った意味深な微笑みに一瞬、ドキッと心臓が動く。
 その表情は、ズルい。
 パーカーのフード被ってて良かった。
 顔が、隠されているから。赤くなっているかもしれない顔を、見られずに済むし。
 「……あの…部屋の近くまで送ってくれるんでしたっけ?」 
 何気に顔を上げたら香柴さんの顔が、近く迫っていた。
 一般人にしておくのが勿体ないぐらいの顔立ちは、綺麗な顔を見慣れてきた僕でも見入ってしまう程に強烈だ。
 カーラジオから聞こえてくるDJの軽快なトークは、雨がよく似合う曲を紹介する。
 雨粒が、涙みたいに降っては流れる。
 涙を隠して最後には、前向きになる歌詞は、何度か聞いたことがある。
 軽く少しだけ深く交わしたキスは、流動的で曲の歌詞みたいな終わり方を、迎えられるのか僕には、曖昧に聞こえた。
 昨夜から。
 ずっと、流されてる気はするし。
 落ち着かない。 
 握られた手の平に伝わる体温は、昨日と何も、変わっていない。
 これ以上知ったら。
 確実に戻れなくなる心地良い体温だと、僕の身体は気持ちに訴え掛けてくる。
 もっと…こうしていたい。
 ほんの一瞬でも、深く交わったキスが終ると、欲深な心境がジワジワと何処からともなく姿を表そうとする。
 この人は、僕を好きなのか? 
 会ったばっかりで、好かれるとか… 
 どっかのドラマじゃないんだし。
 「これ以上は、まずいね…」  
 そう言われると、残念な気持ちなる僕も、居たりする。
 僕は、どう思っているんだ?
 「さてと…遅めだけど、お昼ごはん食べに行こうか?」
 「えっ! このまま送ってくれるんじゃ…」 
 「休み貰えたのなら。少し付き合ってよ。ご飯とか買い物とか、遊びとかに」
 「えっ…ちょっと!」 
 軽快にハンドルを切り国道を進む事、数分。
 ログハウス調で、おしゃれな外観の…
 「レストラン?」
 「そう。ここはハンバーグが、一番旨いんだ。それに個室だしね」
 と、やっぱり首筋を指差された。
 「だから…香柴さんが、付けたんでしょ…」
 楡は、ムッとしたような口をしながら俺の方へと、向き直した。
 車を駐車スペースに停めエンジンを切ると、雨音がフロントガラスに打ち付けてくる。
 降ったり止んだり続く雨に、傘を差しながら助手席のドアを開け傘を傾ける。
 楡は、戸惑った顔をしながら俺の方が濡れると傘を突き返そうとする。
 埒があかない気がして手を差し出すが、それも勢いで突き返されそうになるのを見越して俺は、自分から楡の手を引いて車から下ろした。
 「香柴さん!」 
 「エスコートさせて…」
 おそらく普段は、自分がエスコートする側だろうから。慣れないんだろうな。
 それでも微妙に逃げようとするものだから。俺は構わず腰に手を回した。
 「いや…だから…」
 「ここのおすすめは、ハンバーグって言ったけど…野菜炒めと焼肉も、旨いんだ。フライモノなら。大き目の海老フライとか…ミックスフライも、日替わりで美味しいよ」
 ガッチリと、腰を掴まれた為に身動きが取れない。
 幸い雨で視界が悪いのと、人が出歩いていないから。
 どうとも、思われはしないだろうけど…
 昨日の今日とじゃ…
 感覚的にゾクッとなる。
 「楡は、何が食べたい?」 
 フードから少しだけ顔を出して見上げると、何だよ。このキラキラな成分で出まくる表情は? って、思えてならなかった。
 仕草も、自然って言えば自然で…
 スマートで、全く粗とかない。
 慣れてるとしか、言いようがない。
 僕の目から見ても、カッコよく思えるのだから。 
 これが、慣れでも素でも、イイ男の部類に別けられるんだろうな…
 日中なのに雨で、視界が暗く見えがちだけど、木目調の室内はとても明るく。   
 とても、暖かく思えた。
 しかも…
 「いい匂い」
 厨房から漂う匂いが、食欲を掻き立てる。
 「香柴さん。お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
 通されたのは、4人がけのゆったりとした個室で、他に数席がうまってい様子だった。
 「ここには、ランチタイムとか、そう言うのは、特にないんだ。昼から夜の8時まで…」
 案内されると同時に出された水を飲んでいるが、上手く飲めない。
 けして飲み方がおかしいとか、そんなんじゃない。
 向かい側に座る香柴さんが、ここぞとばかりに見詰めてくるからだ。
 「あの…僕、変ですか?」 
 なんって普段の自分が、言うはずないような言葉を言わせてくる。
 「変じゃないし。寧ろ。かわいい」
 かわいい?
 クールって、呼ばれてきた僕が?
 勿論、クールは振りみたいな所はあるけど…
 かわいい呼ばわりは、意外と言うか表情が、真顔になりかける。
 「普通、男に言いますか?」
 って、この人。
 やっぱり男とも付き合える系?
 誰かとの罰ゲームで、無理矢理に同性抱くとか………ねぇわな…
 堂々巡りな事しか、浮かんでこねぇ~
 「あの…聞いてもいいですか?」
 「ん?」
 メニュー表を見ていた目線が、ゆっくりと僕にまた向けられる。
 「その…香柴さんって、ゲイですか?」って、直球過ぎた! 「いや…あのその…」
 「どちらかと言えば、バイ寄りだと思うよ。初恋のコは、女子だっし。でも、最初に付き合ったのは…後輩の男子だったし。女子とも付き合ってきたし。数的には、半々ぐらいかな?」
 なんか…
 「ヤバいヤツに好かれたって、思っているんだろうけど、今更だろ?」
 何って答えるのが、正解なんだ?
 「いつから?」   
 「それは…楡を、ってこと?」
 うん。と頷く楡は、何とも言えない表情だ。
 「それこそ何となくだよ。好みの顔だったし。雰囲気も、良かった。話していて楽だったし。一目惚れってのは重いだろうけど、好きなった。どうにかして、話せないかと、思案して…」

 …で? 気前よく奢ってみたって事にした…
 僕の記憶に残るようなことをしたら。もしかしたら。気を引けるかなっと、
 そしたら。
 まんまと罠にはまって、逃げれなくなっていると…
 「…………」
 「楡?」
 なぁだ。
 同じ事、思ってたんだ。
 「…似てますね……」
 「ん? 何?」
 「いえ…何でも…」
 慌てるようにメニュー表で顔を隠した。 
 この人と一緒に居ると、感情とか気持ちが、剥き出しになるって言うか… 
 心と身体が、平行線にあるはずなのにチグハグな行動を取ろうとする。
 香柴さんは、多分。優しい人だと思う。
 僕なんかが、相手に見せる優しさとは、比べられないぐらい。 
 優しさだけは、誠実に感じた。
 「…あっ、この人参のグラッセ…甘くて、美味しい」
 味に以外性を持ったのは、人参に苦手意識が、あって一瞬食べるのを躊躇したからだ。
 「もしかして、人参苦手だった?」
 「少し。でも、このグラッセは、美味しいです」
 にっこりと笑い掛けてくれる香柴さんに、僕はどこかホッとしている。
 もしかして、僕ってチョロい? 
 その日、僕が頼んだのはジューシーなハンバーグだった。  
 簡単な料理しか出来ない僕には、マネ出来そうもないぐらい美味しいハンバーグは、柔らかくてデミグラスソースも、ワインの風味が効いていて、付け合せの野菜に人参のグラッセは、とても好きな味付けだった。 
 子供の頃のいつも冷えていたレンチンの夕飯は、あるだけマシで。
 自分で稼げるようになって初めて、1人でファミレスって場所にだけ行ってみた。
 店内で目を引いたのは、多くの家族連れの姿で、美味しそうにハンバーグを食べている子供を見守る両親の目が、優しそうに笑っていた。
 こんな風に愛されていたのなら。
 僕のようには、ならないだろうな…
 妙に切なくなったけど…
 ついつい。同じハンバーグを頼んだ。 
 その時からだと思う。
 こう言う場面で必ずハンバーグを頼むようになったのは、あの時一人きりで食べながら。母親にハンバーグなんって作ってもらったけ? とか思い出してみたけど、僕の記憶の中では、作っている風な姿も光景も目にしたことがなかった。
 今にして思えば、作る暇がなかったのか… 
 面倒だったのか… 
 僕に出されていたのは、スーパーとかの出来合いの惣菜だったのかもしれない。 
 僕の舌は、市販の惣菜に慣れすぎている。
 親の微笑む顔さえも、思い出せないし記憶にもない。
 見守られているが=微笑みとは、限らないけど、微笑まれて見守られるって…
 こんな感じなのかと、カニクリームコロッケを頬張る香柴さんを、チラッと見てしまった。 
 香柴さんのは、恋愛としての意味合いで見守ってくれているのかな… 
 同情しているからかな…

 何かまた楡は、考え込み始めたらしい。
 前を向いているはずなのに、その前の席に座る俺を、見ているわけじゃない気がした。
 順番が逆になって、告白が後になったのは、まずかったか? 
 確かに、楡からしたら…
 酔って部屋に連れ込まれての事だし。
 不審がっていても、おかしくはない。
 俺が、譲歩して正常な物言いだと言い切っても、楡からしてみれば、アレは普通ではない。
 意思を、確認したわけでもないから。
 下手したら。
 訴えられる?…
 やっぱり。色々と詰んだか?
 その割には、こうやって付いて来てくれる。(略、強引と言えば、強引かもしれないが…)
 美味しそうに、ご飯も食べてくれる。
 …目は、合わせてくれないみたいだけど、帰したくなくなったのは、本当のことだ。
 「あのさぁ…」
 「はい?」
 ご飯を食べ終えて、紙ナプキンで口元を拭く楡の姿は、やはり絵になる。
 雨で曇り空の下で陽光なんかが無くても、自分で輝けるようなそんな子なんだ。
 「ね。為に…付き合ってみる?」
 吹き出したりするかと思ったが、反応は以外にもあっさりして冗談じゃなくて? と首を傾げていた。

 えっ…と、付き合うって僕と香柴さんが?
 ありなの?
 いや…あのその前に。 
 「僕…付き合ってる子が居るんで…」
 「…どうしても、ダメかな?」
 ミュートにしても、トートバッグを見ると表のポケットに差し込んだスマホが、お知らせと着信を時折り知らせてきては、僕の気持ちをザワ付かせている。
 付き合っている経緯は、単に僕の顔が好みだったから。
 らしいと、カノジョが教えてくれた。
 「えっと…」
 言葉が、詰まる。
 行き場のない言葉や気持ちを表すように、置き場のないないままテーブルで組んだ指先が、冷たくて仕方がない。
 その指先に香柴さんの人差し指が、スーッと触れてくる。
 意地悪されてるようで、少しこそばゆい。
 ふざけてる訳でもないし。
 個室だからかな?
 この人の付き合っては、本当なのかもしれない。
 でもその前に僕は、カノジョ事が好きなのか…
 ただ言われるがままにズルズルと付き合っていて、好きとか…
 僕から言ったことあったかな?
 真っ直ぐ見詰めて、好きって言うのは簡単なことなのかな?
 僕は、カノジョに言える?
 カノジョが、いとも簡単に言ってくる言葉を、僕もカノジョに正面から言える?
 例え言えたとしても、それに対してカノジョは、安心する?
 僕にとって、分からない感情を相手に示してあげられる?
 今の自分は、中途半端で…
 そんなんでよくホストやってるって言われそうだけど、それはあくまで稼ぐための演技だから…
 生きていかなきゃならない為の演技なんだ。
 今まで、考えてこなかったわけじゃない。人間って自分にとって、都合の悪いことは見ない振りや聞こえない振りをするから。
 それに、近い事なのかも知れない。
 …それにしたって、この人。 
 ずっと、手に触れて… 
 いや…握ってくるんだけど… 
 個室だからいい…って、さっきも似た考えをした事に焦った僕は、咄嗟に立ち上がってしまった。
 「…あの…ちょっと、お手洗いに…」
 他に言うセリフあったろうに…
 でも、自分の気持ちを落ち着ける必要はあったし。
 今日は、ここで別れよう。
 ここからなら歩いてもで、帰られない距離じゃないし。このままズルズルと一緒に居るのは、流石に心臓がもたない。
 気を落ち着かせるために駆け込んだお手洗いの鏡に映る自分の顔が、いつもの自分の顔からすれば、程遠くてまた驚き溜息を吐き出しながらしゃがみ込んだ。
 立ち直れるか?
 今までの僕の表情、どこいった?
 クール? 
 冷たい印象?
 目の前の鏡に映るのは、顔が赤くて…
 まるでお店に来るコが、してくれる表情に似ている。
 
 “ なんでこんな顔するかって? えぇ~っ。聞いちゃう? ”

 店の常連で、よく僕の事を指名してくれるコが…
 いつだったか僕に言ってた。

 “ そんなの分かりきってるじゃない。恋してるからでぇ~~す ”

 好きだとか、愛してるなんって言葉。
 こう言う仕事に携わっていて、普通にそこかしこから聞こえてくるから。
 特別、気にもとめなかった。

 “ 仕方がないなぁ~っ。教えてあげる! この赤い顔も、このウルっとした瞳も、全身でニレを好きって表してるんだよ。私の気持ちは、この場の疑似かもだけど…こう言う顔になっちゃうんですぅ~っ! ”   

 確かに…そう言う顔してるかもだけど…
 昨日の今日で、僕やっぱチョロ過ぎない?
 香柴さんの前で、こんな顔してたら。気付かれる。もし香柴さんが、僕を連れ回してる事が気まぐれみたいので、思い付きで…
 さっきの付き合っても、冗談とかで…
 モテ慣れしてるからで…
 大体。昨日は、お互いにお酒を飲んでて…優しくされて… 
 つい流さた結果で…
 僕が、少し絆されたみたいな…
 って、これじゃ僕が、本当に香柴さんの事が、好きって言ってるみたいじゃない?
 急にキスされてイヤだとは、思わなかった時点で、気づけよ!
 キスされたり触れられたりされる事が、優しくて気持ちの良いものって、初めて知れて。
 不思議に身体中が温かくなって、自分からも求めてしまった………
 いや…これ自覚するだけハズくない。 
 元々、子供の頃から続く愛情不足で、隙をつかれたみたいに優しくされたからって…
 僕(ホスト)が、沼り掛けてどうすんだって! 仕事に差し支えるだろ!
 早く。何かもっともらしい言い訳とか考えて、香柴さんから離れないと…
 確実に沼る未来しか見えない。
 気合を入れるように立ち上がり。仕事モードに近い顔付きを作る。
 僕だって、人間だから。
 不安な事とか、嫌だと思う日はある。でも、それは客商売では通じない。
 ある程度で切り替えないと、周りに迷惑を掛けてしまう。
 『嘘でもいいから笑えなんって、言うヤツいるけど…嘘付いて微笑まれても、相手にはバレる。取り敢えず。どっかで踏ん切りつけろや。そりゃ…嫌な事は、直ぐには忘れられないだろから。それをも武器にするぐらいでないとな。以外にアンニュイな所も、ウケるんだぞ』
 今の店で、ボーイとして働いていた頃に現役だった頃のオーナーにやんわりと言われた。
 そうだよ。切り替えよう。
 で、自分の部屋に帰ろう!
 お手洗いを出て、個室に戻ると香柴さんは、普通に水を飲んでいた。 
 たかが水を飲んでいるがだけのなのに妙に様になっていて、カッコ良いと思えてしまう程に綺麗な横顔だった。
 「大丈夫そう?」 
 「あっ…ハイ」
 何、見惚れてんだよ…
 「さてと…もうそろそろ出ようか?」
 おそらく。この人の事だ。
 支払いは、済ませてそうだ。
 なので…
 「あの。これ僕が頼んだ分の合計です。後クリーニング代、ここに置きますね。僕はここからでも歩いて帰られますので、ごちそうさまでした」
 都合よく。小降りになりつつある雨で良かったと思い頭を下げ自分が、座っていた椅子からトートバッグを掴み。
 席を離れ追い付かれないように、素早く出入り口から表に出て歩道を走った。 
 元々、走るのは得意だしなんとかなると、細い脇道に出るように横道にそれた。
 流石にこの道じゃ車で追っては、これないだろう。
 連絡先は、交換してないし。
 借りたパーカーは、クリーニングに出してマンションのコンシェルジュさんに託せばいいはず!
 アレ以上、近くに居たら。
 沼るだけだ。
 ここからなら僕のマンションまで歩いて数十分。道すがらコンビニに立ち寄り。いつも毎月買う雑誌とお茶に…
 テレビで宣伝していた新発売のスナックをカゴに入れた。
 最後にビニール傘を合わせて会計をするためにレジに持っていくと店員は、戸惑うように僕をチラ見する。
 見られてる理由は、首のキスマだと思う。
 目立ってる自覚は、ある。
 まぁ…2~3日も、過ぎれば薄くなるだろうし。
 しばらくは、出歩かない方がいいから。食事はその都度、頼もう。
 「○○○円です!」
 トートバッグから財布を取り出して会計を済ませながら。そのトートバッグに買った品物をしまう。
 「ありがとうございました!」
 コンビニを出ながらペットボトルだけを取り出しお茶の封をあける。
 少し小走りに来たから一休みと言う感じに一口飲み込む。
 また雨が強くなってきた感じがする。
 傘を開こうとペットボトルをトートバッグにしまうと、見慣れないキーケースが、バッグの中に入っている事に気付いた。
 店の誰かのが、紛れ込んだ?
 でも、キーケースっていっも鍵らしいモノは付いてない…
 変に触るのも壊れたとか、難癖をつけられたくないからと、そのままバッグにしまった。
 ビニール傘の内側から見上げた水滴は、弾き合って傘のフチから流れ落ちる。
 遠くの空が明るいから雨も、もう時期止むだろうと、ぼんやりと考えながら歩き続ける事それから数十分。
 マンションの近く辿り着い頃には、既に雨は上がっていて、少し蒸し暑くなっていた…
 梅雨だから。 
 こう言うモノだと割り切るしかない不快な空気。
 あと数十メートルの距離まで来たときにマンションの入口少し手前に乗用車が、ハザードをつけて停まっていることに気が付いた。
 思わず。物陰に隠れながら停まっている乗用車を見詰める。
 あの車の運転席に座って、キョロキョロしたりスマホを見ているのって…
 香柴さん?!
 近くの電柱に移動して、遠目に運転席を覗くと香柴さんらしい人影が、スマホに視線を移した様な姿が目に留まった。
 「嘘…マジで…」
 部屋の場所なんって、教えてないし。
 何でここに居るわけ?
 後ずさりしてしまった僕は、周りに注意が向けられていなかった。
 冷静で居られたら。
 気づけたかも知れない。
 「ニレくん!」  
 甲高い声に振り返るよりも早くカノジョは、僕の背中に抱き着いてきた。
 「全然、スマホに掛けても、繋がらないんだもん。来ちゃった!」 
 引き離そうとカノジョの腕を掴んだけど、びくともしないぐらいにキツく抱き着かれているようだ。
 「その事は、ゴメン」 正直に言ってそんな事を、言っている状況じゃない。
 どこでもいいから逃げないと、勿論。カノジョからも…
 これ以上は、勘弁して欲しい。
 カノジョの執着心は、凄い。
 最初からこんなコと知っていたら付き合わなかった。
 「ねぇ~っ。またニレくんの部屋に行ってもいい?」
 ここから動くと香柴さんにバレるし。
 カノジョの正面に立ったらキスマが、バレて手が付けられなくなる。
 暴言とかならまだ良い。
 逆上して騒ぎを起こされるのも仕事柄たまにある話では、あるけど…
 ここは、一般道だ。
 下手したら。この辺りに住めなくなる!
 「ニレくん。聞いてる?」
 考え事をしている人間に力が、入っている訳でもない。 
 簡単にカノジョは、僕の前に回り込んで、また抱き着いてくる。
 「あれ? さっきも後ろから抱き着いて思ったんだけど…」
 服に顔をうずめるみたいにカノジョは、顔を上げた。  
 「香水変えた?……って!」
 目を大きく見開いて、僕が被っているフードの払い避け首元を、マジマジと見詰めてくる。
 「これ。キスマよね?」
 怒りを通り越したような冷ややかな視線。
 「あの…」
 「二股してんの?」  
 「えっと…」
 誰かにキツく睨まれると、両親を思い出す。
 「…ゴメン…」
 「サイテー…」
 鈍い音が、路上に響く。
 キスマの次は、平手打ち…
 「待ってたのに酷い。サイアク…」
 言い返せないのは、僕の落ち度でカノジョが悪いわけじゃない。
 何年振りだろう殴られたの…
 「私…帰る…」
 掴まれていたフードを、力一杯押し避けるようにカノジョは、現れた方向に去っていく。
 僕はと言うと、バランスを崩して濡れた路面に座り込んだ。
 最低で、カッコ悪くて、ダサい。
 その他に、何も言葉らしい言葉が浮かんでこない。
 カノジョを、傷つけた事は本当だし。
 殴られて当然だってことは、分かってた。
 でも、心のどっかでカノジョに対して変に抑えて気を引くこともしなくていいと、最低にも思ってしまった。
 いい加減。
 愛されたことがないからと、逃げても、どうにもならないと自覚しないと…
 また顔や服にポツポツと冷たい感触が、伝わってくる。
 「…楡…」
 僕は、ズルい。
 こうやって、良い方に逃げようとしてる。
 この人は優しくしてくれるって、知ってるから。差し出された手が、自分にだけ向けられたものだって疑わないから。  
 躊躇いなく手を取ってしまう。
 力強く握り返される手の平は、やっぱり優しくて温かい。





 
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