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女の花道3
しおりを挟む「はいはい、御免なさいよ」
紙子の襦袢に小袖の着物を身に着けた、恵比寿顔の男が部屋に入ってきた。
銀姫を見て一瞬だけ動きを止めたが、次の瞬間には平然とした顔をしていた。
「どうぞ、お座りください」
「では遠慮なく座らせてもらいますよ」
彼女が座布団を勧めると、商人は言われるままにそこへ座った。
人の良さそうな顔をしているが、それ故に他の表情が読めない男だった。
にこやかな表情を変えずに口を開いた。
「良い着物をお召しでいらっしゃる。……流石は三百両の娘さんですなぁ」
銀姫は微笑しながら、心の中で警戒度を上げた。
「あらまあ、お耳の早いことで御座いますね」
「いえいえ。先程の御坊がね、息巻いて大磯さんに詰め寄っていたんですよ。そいつが耳に入ってきたんで、つい」
照れ笑いを浮かべるようにして頭を掻く商人だが、部屋に入ってきた時の笑顔と変わっていなかった。
商売用の表情を纏っていると思われるが、彼女にそう思わせる罠でないとは言い切れない。
「そういえば、聞こえましたよ。あの三味線の音色といったらもう、心が洗われるようでした。何処かで習われたので?」
「これはお恥ずかしい。独学で御座います」
「ほう、師もとらずにあれだけの腕前を独学とは、神様仏様に愛されているとしか言い様がありませんな。これは是非とも、その秘訣をお教えしてもらいたいものです」
商人は、帯に差していた扇を取り出して膝を打った。
「そう言われても、返す言葉も御座いません」
「ま、師が居たとしても、その腕前ならば恥じることはありますまい」
苦笑いをして小さく首を横に振る銀姫は、内心で感嘆していた。
その理由と言うのも、この商人はまったく銀姫の言うことを信用していないからである。
商売に信用は付き物だが、初めて会う人間を頭から信用しないのも商売の基本と言えば基本だろう。
商人の気持ち良いくらい割り切った実利主義の商売根性には、呆れを通り越して、その合理的思考に納得させられてしまった。
人当たりの良い顔と話術で探りを入れてくる技術は、見事としか言い様が無い。
しかし、策士は策に詳しいが故に、策に溺れるものである。
「私も、聞いてもよろしいですか」
銀姫は澄ました顔で言った。
商人は怪訝そうな雰囲気を見せたものの、すぐに頷いた。
「ええ、どうぞ」
「あなた様から見て、私は三百両に値すると思われますか」
「はあ」
生返事をした商人だが、この瞬間にも、彼の頭は凄い速さで働いていた。
自分が選んだ言葉から予測される結果が、最大限の利益をもたらすように、思考の海を泳いでいる。
商人は、銀姫と初めて会ったときから品定めをしていた。
そして、彼のそろばんが弾き出した答えは、銀姫は三百両に届かないということ。
彼女は見目麗しく、外見的には申し分ない。加えて三味線も上手ならば、遊女として売りに出しても、高値がつく。
商人が後見人となって吉原に出せば、吉原でも数人しか居ないと言われる最高位の『太夫』とて夢ではない。
それくらいには銀姫を見込んでいた。
だが、それでも三百両の値段がつけられないのは、この少女の底が知れないからだった。
もしも商人が、銀姫を『太夫』まで育て上げ、大名にでも身請けされたとすれば、その金額は千両を軽く超えてしまう。
その間に『太夫』として稼ぐ金額も加算すれば、投資としての三百両は安いと言える。
しかし、銀姫が途中で逃げ出さないとも限らない。足抜けでもされれば、注ぎ込んだ金は無駄になる。
足抜けさせないためには、銀姫に首輪をつける必要があるが、素性が知れないので弱みが握れない。
暴力で縛り付ける手もあるが、それでは売り物にならなくなるかもしれない。
逃げられる可能性も考慮すると、どうしても三百両を出す気にはなれないのであった。
そうは思えど、商人として自分が買うのでなければ、目前の少女が三百両すると言われても誇張には見えない、と考えたのも事実である。
「……どうなされました?」
銀姫の問いに、商人は思考の海から引き上げられた。
取り繕うように言う。
「これは申し訳ありませんなぁ。あまりにあなたが美しいので、見惚れていたのですよ。確かにあなたは三百両の値打ちはあると思います」
「では、私を買って下さるのですね」
微笑む銀姫に、商人は首を横に振った。
「そうしたいのは山々ですが、生憎と手持ちが無くて……」
「ふふふ、私をからかっていらっしゃるの?」
口元を隠して笑う銀姫に対し、不可解さを消しきれない表情で首を傾げる商人だった。
「何のことですか」
「知らない振りは駄目ですよ」
「これは困りましたな。本当にわからないのです」
買う気が無いとなれば、正直にもなるのが商人である。
「……本当に? これは大変失礼致しました」
銀姫は表情を変え、丁寧に頭を下げた。
こうなると面白くないのは商人だ。
自分だけが何も知らないという状況は、誰かに騙される状況と酷似している。
本能的に、どんな小さなことでも知っておきたいのが商人の心情だった。
「いえ、謝らくても結構ですよ。その代わり、あなたが考えていたことを教えちゃくれませんか」
「しかし」
「どんな小さなことでも、どこで商売に繋がるかわかりませんからな。さ、遠慮なく」
こくり、と頷いた銀姫は、呟くように言った。
「はい。……私が三百両の値打ちがあることは、あなた様に確認して頂きました」
言質をとられたか、と商人は苦い顔をするが、何も言わずに銀姫の言葉を待つ。
「そして、あのお坊様は、私のことを買うと仰ってくれました」
「ほぅ、あの御坊がね」
商人として近隣の財政事情には詳しいが、徳海の経営する寺に、三百両も即金で払う力が無いことは知っている。
どこからか借金でもするのだろうな、と考えた。
そこで商人は、あることを閃いた。
銀姫の言葉が続けられる。
「でも、お坊様だけに迷惑をおかけするのは心苦しいのです。そこで誰かの力添えがあれば、と思った次第で御座います」
彼女は、嫌味でない程度に頬を緩ませた。その意味を解さない商人ではない。
「なるほど。御坊の借金を肩代わりしろ、というわけですか。まあ確かに、御坊には信用がありますから、貸付は容易ですがね。それだけですか?」
商人が身を乗り出した。
それを見た銀姫は、商人の仮面が剥がれかかっていることに気付いた。
今までと同じように微笑んでやる。
「お坊様と仲良くされていれば、色々と仕事が御座いましょう。この世で死なない人はおりません。なればこそ、墓や棺桶を必要とされる方が絶えることはないと思いますが」
「寺の経営に一枚噛める、ということですかな」
商人にとって、安定した商売というのは理想である。
しかしそれ故に安定した商売というのは難しいものだ。
その点、宗教組織というのは皇帝から権利を庇護されていて、安定している。銀姫の言った通り、仕事が絶えることは無い。
そこへ潜り込む好機が、今、目の前に存在するのだ。
銀姫を買って『太夫』に仕立て上げるよりは儲けが少ないが、その分、確実に儲けられる手段である。
商人として、それに手を出さないわけにはいかなかった。
「……いやはや、感服いたしました」
座布団から立ち上がった商人は、扇を帯に差し、銀姫に頭を下げた。
「このお礼は、いずれまた」
そして立ち去ろうとするが、部屋の障子に手をかけたところで、何かに気付いたように言った。
「あ、そうそう。やはりあなたには、三味線は似合いませんな」
それは、商人が銀姫について、本気で評した一言だった。
この言葉の意味するところは理解できなかった彼女だが、微笑だけで曖昧にその返事をしたのだった。
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