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生殺与奪3
しおりを挟む木津島貴信は、死体に突き刺さっている鉞の柄を掴んだ。
「一人、逃がしたか」
呟きながら、死体を踏んで、鉞を引き抜く。その傷口からは、まだ血が溢れてきていた。
死体から視線を上げた貴信が、暗く深い獣道の奥を睨む。
月明かりさえ届かない闇夜の森は、すべてを飲み込んでしまいそうな雰囲気を漂わせている。
肉食獣の巣穴の前に立ったような戦慄を覚えた貴信だった。
「逃がした魚は大きいと言うが、さて、逃がした『獣』はどうだろうな」
一人の山賊を探し出すために、精鋭の全軍で山狩りをするほど非効率な話はない。山狩りのために必要な松明や食料の捻出も馬鹿にならないのだ。
それに、逃がした者よりも、先に捕まえるべき人物がいる。
例え逃がした山賊によって貴信たちの位置が第三者に暴露されようと、それまでに銀姫を探し出して捕らえるか殺すかすればよいのだ。
そうすれば謀反は成功し、全権を掌握した木津島の勝利は揺るがない。
今は、山賊一人に煩っている場合ではなかった。
――――しかし、一人でも逃がしてしまったか。
貴信は不思議と、逃がした人間のことが気になっていた。
この綻びが、大きなものとして心に残った。
貴信が口元を歪めると同時に、彼の背後へと近づく鎧姿の男がいた。側近の柴山直房である。
「制圧完了しました」
「ご苦労、直房」
「は。それでは順次、兵の休息に当たらせますがよろしいですか」
「構わん。山賊の隠れ家を襲ったのは、陣を整えて兵を休ませるためだ」
鉞を肩に担いだ貴信は、やはり獣道から目を離さずに言った。
「居場所は分かっている。決行は明日だ。兵を万全にせよ」
「ええ、わかっております――――」
直房は、わずかに逡巡を見せた。それを逃す貴信でもない。
「どうした。何が言いたい」
「……はい、恐れながら言わせていただきます。この作戦は、戦人の言葉を信用し過ぎているように思われます」
「ほう。お主は戦人を信用せんとな」
「あまりにも用意周到過ぎて、こちらが罠に嵌められているような気がしてなりません」
「それだけ優秀なのだろうよ」
「はい。戦人が優秀であれば、尚更のこと警戒しなくてはならないでしょう。それだけに、我が木津島家にとっても危険であるということになりますので」
「お主の言にも一理ある」
「恐悦に御座います」
「畏まらずともよい。戦人についての警戒は、直房に任せる。いざとなれば、精鋭を以ってして亡き者にしても構わん」
「御意」
頭を下げた直房は、ゆっくりと背後の闇に消えようとした。
それを呼び止めるように、貴信が言った。
「ときに直房。貴様は、銀姫の護衛のことを知っているか」
「何か、問題でも御座いますか」
「ふん、問題など無い。これから銀姫を殺しに行くのならば、必ず護衛には会うこととなろう。その前に、追手の足軽隊を全滅させるような猛者のことを知りたいと思うのだ」
「まさか貴信様、そやつを配下に引き入れるおつもりでしょうか」
「馬鹿者。生きて捕まえたならば、切腹くらいはさせてやっても良い。だが、生かしておくことだけは出来ん。ただ、護衛の人となりを知っておけば、戦いやすくなるだけの話よ。さっさと答えろ」
「……確か、荒木新兵衛とかいう人物だったと存じております」
「会ったことはあるか」
「いえ、御座いません。ただ……」
「ただ、何だ。申せ」
「元は山賊の出身だという噂を聞いたことがあります。しかし山賊は罪人ですから、侍になるようなことは有り得ないでしょう。恐らくは、姫のお傍付きを良く思わない連中が、出生の怪しい荒木のことを揶揄したのだと思います」
「ほう」
貴信は面白そうな顔をして、顎の髭を摩った。
「山賊か。それは面白いことを聞いた」
「何が面白いので」
戸惑いの表情を浮かべる直房だった。
「いやなに、それならば説明がつくと思うただけよ。追手を五十人ほど殺す手際に、どうしても納得がいかなかったものでな」
「荒木が山賊だと、説明が出来るのでしょうか」
「うむ。それは『地の利』だ。山に慣れていない者と、山で生活をしている者とでは、それこそ雲泥の差よ。山は罠も仕掛けやすいし、障害物も多い。一対多数で戦うためにあるようなものだ。いかに『数の利』があろうと、慢心出来ぬ場所だ」
「それほどまでに……」
「単なる山賊ならば、恐るるに足らん。しかし、銀姫の護衛に抜擢されるような男が、単なる山賊であるはずもなかろう」
「腕が立つとお考えでしょうか」
「ふん、腕が立つだけならば、ここまで生き残れんわ。人が戦場で生き残るには、頭が要る。……例えば、ここから広がる森よ」
貴信は、獣道の奥に向かって殺気を飛ばした。
「罠を仕掛けるには絶好の地形だとは思わんか」
「は、はあ」
生返事をする直房を、半眼でねめつけた貴信だった。
何も言わない代わりに、逃げたらしき山賊の消えた方向を見た。
「もしも、今逃げ去った山賊が荒木だったとして、追いかければどうなると思う」
「甲冑を身に着けている我らは、余計な体力を消耗するでしょうね」
「それだけではない。これだけ深い森になると兵は迷い、疲れ、そこを狙われて各個撃破されるだろう。それで我らが負けることは無いだろうが、兵は恐怖に駆られて士気が下がる。要らぬ体力を使うのも看過でいたものではないが、士気が下がるのはそれよりも死活問題だ。これからの合戦に支障が出る。だからこそ、これ以上は追いかけられないのだ」
貴信が空を見上げると、黒かった空が濃紺に変わった。
空気も心なしか清涼なものに変わり、夜が明ける前触れが見て取れた。
「……ほう、もう夜明けか」
踵を返した貴信は、獰猛な顔をして笑っていた。
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