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一国一城
しおりを挟む「ふむ、このようなものかの」
銀姫は、雑巾を持った手の甲で額の汗を拭った。
彼女の正面には、丹念に磨かれて光っている廊下があった。
あまりに綺麗に掃除されているので、歩くのも憚られるような気分にさせられるほどである。
その廊下に面した障子が開かれた。そこから出てきたのは、よれた寝巻きを着た真木忠宗だった。
「……あー、眠いねぇ」
「ん? 起きたのか」
「ああ、俺の姫。おはよう」
「お銀でよいと言ったであろう」
「……怒った顔も、また良いねぇ。朝から良いもの見させてもらったよ」
忠宗が笑いながら、廊下に一歩踏み出した。
その一足が止まることなく滑り、忠宗はずっこけた。
「痛ぇ……え、何だ、うわっ、廊下が眩しいっ」
「私が磨いておいた」
「尋常じゃねーっ! つか、そんなことしなくていいって」
「何、私は三百両で買われた身だ。これしきのことで返せるとは思わぬが、礼には礼を尽くさねばなるまい」
「だから、買う決断をしたのは俺で、金を出したのも俺だぜ? 負い目を感じる必要は無いって」
「故に、なのだ。結局、私の話に乗らなかったではないか」
「ああ、そのことね……」
銀姫の提案を、忠宗は却下したのだった。
山賊に三百両払い、銀姫を有名にしてから高値で金持ちに売りつける手筈は、結局のところ行われなかったのだ。
忠宗にしては、嫁にするつもりで銀姫を買ったのであり、他の誰かに売り払うという考えを持っていなかった。
よって、銀姫は金持ちに売られることは無くなったが、忠宗だけに三百両の重荷を背負わせることになった。
「ま、気にするな」
「この有様を見れば、気にもする」
そう言って銀姫が視線を逸らした先には、穴だらけの庭が見えた。元は見事な枯山水であっただろう庭園が、見事に崩壊していた。
それもそのはず、三百両の金策のために、真木家にある金目のものは根こそぎ売り払われてしまっていた。
掛け軸も茶器も箪笥でさえも、金になるなら持っていかれた。配下や中間などの奉公人の給金も目減りしていた。
それでも誰一人として奉公人が職を辞さなかったのは、彼らの真木家への好意の現われと思われるが、原因となる銀姫にとっては心苦しかった。
「そう言ってくれるなよ。俺は、悪い買い物をしたとは思ってない」
「お主の妻にはなれぬ、と言ってもかの?」
少し憂いを含んだ声で呟く銀姫に対し、忠宗は頭を掻いて言った。
「まあ、それは追々だ。本音を言えば心変わりを期待しているが、無理は承知の上だしな。あのまま、山賊の元に置いておくのが嫌だったんだよ」
「感謝する」
「おう、今はそれだけでいい。掃除とかしなくてもいいから、俺に膝枕をしてくれよ」
「それは……考えておこう」
ははは、と笑った忠宗であった。
そうしていると、廊下の奥から女中のお静がやってきた。
「おやまあ、普段は昼過ぎまで寝ていらっしゃる忠宗様が、こんなに早くに起きられて。雨でもふるのではありませんか」
「それは言い過ぎだ、お静。それよりも、ゆっくり歩かないと転ぶぞ」
「え? ……って、何ですかこの廊下っ」
そのお静の反応に、銀姫が眉を寄せた。隣にいる忠宗に問う。
「……何か間違っていたのか?」
「いや、間違ってはいないはずだ。ただ、間違っていないことが、正しいことではないといったところだな」
「つまり?」
「手加減をしろ、ということだ」
「ふむ、掃除というのも難しいものじゃな」
一通り慌てたお静は、頷き合っている二人に近づいていった。にこやかに笑って銀姫から雑巾を奪い取り、二人の背中を押す。
「ささ、これから朝食ですよ。大殿もお待ちですし、召し上がってください」
「雑巾は私が洗うぞ」
「おほほほ、何を仰るやらお姫様。家事はこのお静めにお任せください。私の仕事を奪われては、真木家に対する私のご奉公の面目が立ちません。どうか、ごゆるりと」
「いや、私は姫では……」
「ええ、分かっておりますとも」
お静は、あれよあれよという間に二人を押しやった。輝く廊下を抜け、角を曲がり、その突き当たりにある座敷に辿り着く。
障子を開くと、そこにはすでに膳の用意が出来ており、上座には真木家の前当主である真木直近が座していた。
髭を蓄えてはいるが、まだ老人というには早すぎる年齢に見えた。
「遅れました」と忠宗。
「申し訳ない」と銀姫。
直近は頷いただけだった。銀姫は最も上座から遠い下座に行こうとしたが、結局は忠宗に連れられる形で直近の隣の席に座る。
そうしてようやく、真木家配下の武士たちが入室してきた。どうやら二人の入室を待っていたらしい。
全員が揃うと、直近が手を合わせた。
「それでは、食おうか」
その合図で、皆が朝食を取り始めた。
全員が黙々と朝食の膳を平らげていく。早飯早糞芸のうち、とはいったものだが、それを文字通りに実行する速さで朝食が終わった。
一人食べ終わってないのは、銀姫だけだった。
「む、むう」
唸る銀姫に、直近が語りかけた。
「無理をすることはないぞ。ゆっくり食してくれ」
「しかし」
「何、気にする必要は無い」
それだけ言うと、直近は忠宗に視線を向けた。
「しっかりやれ。わしは盆栽を見てくる」
すっくりと直近は立ち上がり、座敷から出て行った。
よって、上座に残されたのは忠宗と銀姫の二人だけとなった。見方によれば、夫婦になった二人に見えなくも無かった。
下座にいる武士たちはそんな二人を見て、誰一人余さずにやけ笑いを浮かべていた。
それに気づいた忠宗は、仕方なさそうに言う。
「お前ら、飯食ったらさっさと持ち場にもどれ」
武士たちはそれぞれに、ご馳走様、と漏らして退散した。
「…………」
誰もいなくなって、座敷は静かになった。
しばらくして、銀姫が膳に箸を置く音が響いた。
頃合を見計らったように、お静が座敷に入ってきた。
「お茶は、どうなさいますか」
「ん、ああ、自分の部屋で貰うから、後で持ってきてくれ」
「かしこまりました」
お静が座敷から出て行った。
忠宗は咳払いをして、銀姫に言う。
「さて、俺も書き物をしなくちゃならん。まあ、これでも関所守の長としての仕事があるからなぁ。その手伝いをしてくれよ」
「ふむ、是非も無い」
彼女は二つ返事で了承した。
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