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その17
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ここノエル・ヨルクでは、季節の変わり目に雨が降ると、摩天楼が灰色がかって見える。
一昔前なら、雨上がりには、抜けるような青い空がより高みを目指して舞い上がる無重力の不思議な空間が出現し、高層階にある人々を非日常の時間の裂け目に轢き入れそうになったものだが、そうした秘蹟の再臨は、もはや期待できそうにない。
神に近づき過ぎた者に、祈りの姿は必要なかった。
「午後には尿意を伴った激しい降雨となるところもあるでしょう」
気象予報士が変なことを口走る。
これも世のなりわい、移りゆく季節の変わり果てた姿……
(さればとて、あだもあだなすあしもふとて、いもせがあしもとにもおよばず)
何にしても遅い、何もかもが相対性理論の理論値よりも手ひどく遅い、遅れて切っている。レナペ、デラウェア、ウィグアン、ハドソン、マンナ・ハッタ、二十四弗相当のガラスのフード付きお値打ち品、ビビアン、バビアン、西方の魔女、ぴけ、三毛、アメリカン・ショートヘアー、ナゲット、バケット、森ガール、兜蟹、夫婦岩、パンナコッタ、内務省御用達のランジェリー、六十ギルダーの麦酒樽、ウイリアム征服王の制服蒐集癖、パンゲア大陸が眠るあの巨大な雲母の岩盤の下には無数の先住民たちの骸が横たわっていて、時折漏らすその何とも聞くに耐えない呻き聲が彼らの亀裂を僅かずつだが広げている。右の手には瞋りのハンマーを、左の手には黙しの聖書。いつしか腐敗臭がもうもうと立ち込める魔界の巣窟となり……百足、ゲジゲジ、田虫、蜱、線虫、蚤、虱、ゴキブリ、蜥蜴、蛇、蛙、蟹、鼠、鰐、岩をも腐る、齧る荒波の、押し寄せる、逃げ惑う、逃げ延びる、逃げ切る、逃げおおせる、か。
よしなくも踏み惑う臓器の林、轟く原生林の胎盤、荒れ狂う野立、くずおれる巨木の橋、稲光る雷鳴、迫り来る大荒らし、吹き詰る風、叩き集う雨、黒々と天頂を覆う光の痛点、底無しの消失点、凍みついた叢雲、割れた柘榴、裂け目には血痕のようなつぶつぶの塊りが、闇の目をごくりと呑み込む巨大な赤黒い牙を剝いた口となり、自由な博愛、平等な博愛、それにしてもうすっぺらなぱりぱりの脣しか。
(しばしのわかれぞこんじやうのわかれなるかやいましもしばししもんあしもとおぼつかねど)
ハドソン・リヴァーの河畔には夏服のすずやかな女たちがさんざめいている。赤と白のペンキで塗りたてのペンギンみたいに喫水線の近くを切り分けられたタグボートがぽんぽんと近づき、気取った紳士面の男たちが急ぎ足で棧橋を下りる。摩天楼の長い影がほんのりと色づいて、夕闇の青さに溶けて行く。
踏み惑い、踏み迷い、夏を抜け、たうたうここまで来た。夏草の擦り傷、切り傷、秋の風にかすかに痛む。見舞うひとなきみまごうひとなき草庵にひとり冬籠りの支度せんと。去年今年、薄氷を踏む思いなりけり。
まるでひどい目に遭っているのは世の中で自分だけだ、なぜ自分だけがこんな思いをしなければならないのか、などと大甘の思いに耽ることができたのも、幸運だったと言えるのかもしれない。幸運の定義は、大略恩寵のおこぼれであろうから。
「二人目はまだですか」
「一人じゃそりゃあ可哀相ですよ」
「もう一人いればかえって子育ては楽になりますよ。上の子がしっかりするし、下の子の世話も焼いてくれるし」
「二人も三人もそんなに変わりないですから、思い切ってどうです。お金はなんとかなりますよ」
次々に矢継ぎ早に五月雨式に乱れ打ちする、彼らはその善意というか悪意の無さを疑いもしない、疑う素振りも見せない、そのような気配すら感じさせない。おそらく子だくさんは生存競争の勝ち組であるとの暗黙の了解というか、ぼんやりとした自覚があるものと思われる。
美しい国であるかはさして重要ではありません。その身は醜き国であれ、けだかきひと、とうときひとのおわすところ一隅にかがやく光あまねく差し照らす。ところで、あの方のマイ認識番号は?
「タグは表の左側につける、これベビー用下着の一般常識でしょ」
じたばた暴れるあのこを押さえつけ、紙おむつを穿かせようともがく。その上ボディースーツにスパッツときたら、どっと疲れるぜ。
「ミルクの作り置きはできませんから」
妻はきっと睨みつける。
今泣いた烏がもう笑う
子どもの気まぐれ、気忙しさは、喩えようもなく、思いの外思い通りになるものではなかった。いつも予想外の展開に驚かされ、感心している間すらなく、次の騒動に巻き込まれている。
泣く子と地頭には勝てぬ、か
ニッチモ、サッチモ、わった、わんだふる、わあるど!
もぐり、もどき、ぱくり、ぱしりの連鎖状球菌だア。
一昔前なら、雨上がりには、抜けるような青い空がより高みを目指して舞い上がる無重力の不思議な空間が出現し、高層階にある人々を非日常の時間の裂け目に轢き入れそうになったものだが、そうした秘蹟の再臨は、もはや期待できそうにない。
神に近づき過ぎた者に、祈りの姿は必要なかった。
「午後には尿意を伴った激しい降雨となるところもあるでしょう」
気象予報士が変なことを口走る。
これも世のなりわい、移りゆく季節の変わり果てた姿……
(さればとて、あだもあだなすあしもふとて、いもせがあしもとにもおよばず)
何にしても遅い、何もかもが相対性理論の理論値よりも手ひどく遅い、遅れて切っている。レナペ、デラウェア、ウィグアン、ハドソン、マンナ・ハッタ、二十四弗相当のガラスのフード付きお値打ち品、ビビアン、バビアン、西方の魔女、ぴけ、三毛、アメリカン・ショートヘアー、ナゲット、バケット、森ガール、兜蟹、夫婦岩、パンナコッタ、内務省御用達のランジェリー、六十ギルダーの麦酒樽、ウイリアム征服王の制服蒐集癖、パンゲア大陸が眠るあの巨大な雲母の岩盤の下には無数の先住民たちの骸が横たわっていて、時折漏らすその何とも聞くに耐えない呻き聲が彼らの亀裂を僅かずつだが広げている。右の手には瞋りのハンマーを、左の手には黙しの聖書。いつしか腐敗臭がもうもうと立ち込める魔界の巣窟となり……百足、ゲジゲジ、田虫、蜱、線虫、蚤、虱、ゴキブリ、蜥蜴、蛇、蛙、蟹、鼠、鰐、岩をも腐る、齧る荒波の、押し寄せる、逃げ惑う、逃げ延びる、逃げ切る、逃げおおせる、か。
よしなくも踏み惑う臓器の林、轟く原生林の胎盤、荒れ狂う野立、くずおれる巨木の橋、稲光る雷鳴、迫り来る大荒らし、吹き詰る風、叩き集う雨、黒々と天頂を覆う光の痛点、底無しの消失点、凍みついた叢雲、割れた柘榴、裂け目には血痕のようなつぶつぶの塊りが、闇の目をごくりと呑み込む巨大な赤黒い牙を剝いた口となり、自由な博愛、平等な博愛、それにしてもうすっぺらなぱりぱりの脣しか。
(しばしのわかれぞこんじやうのわかれなるかやいましもしばししもんあしもとおぼつかねど)
ハドソン・リヴァーの河畔には夏服のすずやかな女たちがさんざめいている。赤と白のペンキで塗りたてのペンギンみたいに喫水線の近くを切り分けられたタグボートがぽんぽんと近づき、気取った紳士面の男たちが急ぎ足で棧橋を下りる。摩天楼の長い影がほんのりと色づいて、夕闇の青さに溶けて行く。
踏み惑い、踏み迷い、夏を抜け、たうたうここまで来た。夏草の擦り傷、切り傷、秋の風にかすかに痛む。見舞うひとなきみまごうひとなき草庵にひとり冬籠りの支度せんと。去年今年、薄氷を踏む思いなりけり。
まるでひどい目に遭っているのは世の中で自分だけだ、なぜ自分だけがこんな思いをしなければならないのか、などと大甘の思いに耽ることができたのも、幸運だったと言えるのかもしれない。幸運の定義は、大略恩寵のおこぼれであろうから。
「二人目はまだですか」
「一人じゃそりゃあ可哀相ですよ」
「もう一人いればかえって子育ては楽になりますよ。上の子がしっかりするし、下の子の世話も焼いてくれるし」
「二人も三人もそんなに変わりないですから、思い切ってどうです。お金はなんとかなりますよ」
次々に矢継ぎ早に五月雨式に乱れ打ちする、彼らはその善意というか悪意の無さを疑いもしない、疑う素振りも見せない、そのような気配すら感じさせない。おそらく子だくさんは生存競争の勝ち組であるとの暗黙の了解というか、ぼんやりとした自覚があるものと思われる。
美しい国であるかはさして重要ではありません。その身は醜き国であれ、けだかきひと、とうときひとのおわすところ一隅にかがやく光あまねく差し照らす。ところで、あの方のマイ認識番号は?
「タグは表の左側につける、これベビー用下着の一般常識でしょ」
じたばた暴れるあのこを押さえつけ、紙おむつを穿かせようともがく。その上ボディースーツにスパッツときたら、どっと疲れるぜ。
「ミルクの作り置きはできませんから」
妻はきっと睨みつける。
今泣いた烏がもう笑う
子どもの気まぐれ、気忙しさは、喩えようもなく、思いの外思い通りになるものではなかった。いつも予想外の展開に驚かされ、感心している間すらなく、次の騒動に巻き込まれている。
泣く子と地頭には勝てぬ、か
ニッチモ、サッチモ、わった、わんだふる、わあるど!
もぐり、もどき、ぱくり、ぱしりの連鎖状球菌だア。
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