平凡な自分から、特別な君へ

暇神

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俺、友人にラーメンを奢られる。

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 『欲』とは、生物が生きていく為に必要な物であり、それには少なからず意味がある。

 三大欲求。これは生物が生きていく為の必須事項であり、どれか一つでも欠かそうと言うのなら、種の絶滅すらもあり得る。
 睡眠欲。疲労を回復し、体調を整え、感染症への抵抗を強め、病で死ぬのを防ぐ。
 食欲。十分な栄養を取り込み、体を作り、餓死するのを防ぐ。
 性欲。他者と交尾し、子孫を残し、種を次の世代へと生き長らえさせる。
 これらの欲求は、生物が、その種が生存する為の、最低限の条件とも言える。これさえ満たしていれば、少なくとも種の自滅は起こらない。
 だが、実際はそう上手くいかない。承認欲求、知識欲など、生物、とりわけ人間には、多くの『欲』が宿る。結果、それら全てを満たそうとした結果、他者へ攻撃する。これが、人類の自滅の原因となり得る物だ。
 ならば、欲を捨てるのが正しいかと言われると、俺はそうは思わない。先述の通り、人間の欲とは、人間という種のアイデンティティーであり、これを捨て、ただ生きるだけの生物となった時、人間という種は、『絶滅した』と言っても差し支えないだろう。種の保存は叶っても、個人が個人らしく生きるのが、その種の保存という点における、最大の条件である。
 しかし、その個人らしさというのも、曖昧で、他の個人の解釈によって異なる為、とてもではないが定義できた物ではない。ならばどうすれば良いのか。
 俺の考えだけで言うなら、ただ『面白い』を突き詰めれば良いだけの筈なのだ。面白くない事をやっている時程、生きる意味を見失う。人間の心を屈服させるのは、痛みでも言葉でもなく、ただただ退屈な、目的も無い、終わりの見えない作業である。
 人間らしい人間は、自分を楽しむ。

 彼女はあの後も、『お礼』と称して俺に近づこうとする。まあ、その度にあしらっているのだが。
 彼女の『お礼』というのは、幼少期に教えられた、『人に何かされたなら、自分もその分何かやるべき』という、父の教えから来る物らしい。幼少期の経験は、その人間の人格形成に大きく関わると言うが、ここまで良い人間に育つとは、親の教育の素晴らしさが伺えるな。
 しかし、ここまで付き纏われては、こっちが迷惑する。どうにか対策を練らねば。
 『何かに悩むのなら、どうにかなりそうな時だけ他人を頼れ』。俺の弟の名言だ。俺はその教えに則り、一応友人である木村陽太さんに、話を聞いてもらう事にした。
「……という事だ。どうかその知恵を貸してくれないか」
「状況説明ご苦労。随分羨ましい状況だなコラ」
 うん。そうだろうな。俺もこういう話を誰かにされたら、普通はモテるアピールだと感じ、ウザイと思う事だろう。しかし、俺は真剣なのだ。どうにか意見を聞きたい。
「そう言わずに。お願いします」
「そうか……そうだな……じゃ、ラーメン食い行くか」
 なぜそうなる。俺は相談しようと考えて話しかけただけなのに、何時の間にかラーメンを食べに行くという話になっていた。これにはミスターマリックもビックリだろう。
 大学の講義も終わり、俺達は夕食として、近所のラーメン屋へ行く事になった。
 その店は食券式で、カウンター席だけの作りだった。誰かが食事を終え、店を出たら、そこに次の客が座るような仕組みらしい。丁度二つ席が空いているので、俺達はそこに座る事にした。
 狭い店では、厨房の様子が見られるようになっている。そこでは、たった二人の店員が、忙しく働いている。皿を片付け、ラーメンを作り、食券を確認し、それをもう一人に伝える。この作業の繰り返し。とても忙しそうだ。
 俺達はそれぞれ食券を出し、品が来るまで、少し話をする。
「で、美少女に付き纏われて面倒だから、解決法を探そうと。それなら、冷たくあしらって終わりだろ」
「それならもう試した。しかし彼女、どうやら親の言いつけを守るタイプらしい」
「分かり合えそうにないな」
 その後も、『どさくさに紛れて撒いたらどうか』とか、『全力で逃げたらどうか』とか、色々な案が出たが、どれも一回試した物ばかりで、解決の糸口は見出せそうになかった。
 あーでもないこーでもないと、一向に答えが見つからない論争をしている間に、もう注文したチャーシュー麺はできていたらしく、俺達の目の前には、所狭しとチャーシューが敷き詰められた、デカいラーメンが置かれた。
 その香りと、いかにも旨そうな上、よく食う男子大学生には堪らない見た目に、俺達は自身の食欲を思い出したように、その食べ物に釘付けになった。
「ま、ここは飯の後で……」
「そうだな。ここは一旦……」
「「いただきます」」
 先ずはスープ。ラーメンを食べる時、何から行くかは、人間社会における永遠の議題だが、俺と陽太さんはスープ派だった。ここも、俺と彼が上手く行っている要因の一つなのだろう。
 味が濃く、できたばかりの熱いスープは、俺達の食欲をより一層刺激した。麺とチャーシューを同時に口に入れる。これがもう最高だ。縮れた中太麺には、このスープがよく合う。そこに脂っこいチャーシューとくれば、罪悪感を遥かに凌駕する満足感が得られる。素晴らしい。
 話もせず、写真を撮りもせず、ただ無心で麺をすする。そうしていると、見る見る内に丼ぶりの中が減っていく。ニ十分もする頃には、あんなにあったラーメンも、もうスープだけになっていた。因みに、俺はスープは少し飲む程度にしておく人間だ。ここでも、陽太さんと俺の嗜好は合った。やはり好みが合う人との付き合いは良いな。
「さて、じゃあ割り勘だよな?」
「いや、ここに連れて来たのは俺だし、奢ってやるよ」
 マジか。しがない大学生の俺には、ありがたすぎる話だ。ここはお言葉に甘えておこう。陽太さんは「貸し一つな」と言って、笑いながら会計を済ませてしまった。カッケェ。
 店を出ると、春のまだ長いとは言えない日は沈んでいた。と言っても、都会の夜は明るい。近くの公園で一息吐くと、俺はこれまで、暗くなってから、遊ぶ為に町を出た事が無かった事に気付いた。夕飯は基本自炊、外に出てやる事も無い。だから、外に出ない事が当たり前になっていた。
 俺は、「ありがとうな」と陽太さんに言った。
「なんだよ急に改まって」
「いや、奢ってもらったんだし、お礼くらいは言っておこうかなと」
「パチで少し稼いだからな。それに言ったろ?貸し一つだからな」
「応」
 俺達は顔を見合わせ、少し笑った。なんだか面白かったのだ。友人と過ごす時間という物は、結構楽しい物だ。実際、今凄く楽しい。
 俺達は、少しくだらない話をしてから、それぞれ帰路に着いた。一人で歩く夜道は、暗く、そして少し寂しかった。今まで誰かと一緒に居た分、落差を感じているのだ。仕方が無い事とは言え、まだ慣れない。
 俺はアパートに帰り、シャワーを浴びて、布団を広げる。しかし、特に眠いという訳でもない俺は、読んでいる途中の小説を読んで、眠くなるのを待った。何か忘れている気がするが、気のせいだろう。
 今日は良い一日だった。旨いラーメンを食って、友人と笑い合えた。こんなに良い日があるだろうか。
 十一時になる頃には、もう流石に眠くなってきて、俺は布団に潜り込んで、そのまま寝た。

 翌日、俺を待っていたのは、騒がしくて真面目な、彼女だった。
「亮太さん!明日空いてますか!?」
「なんで君は毎日毎日話しかけて来るのかなあ?」
「『お礼』をする為です!」
 いつも通りの光景。対策も抵抗も意味を成さない、ただの日常の光景。そう、今彼女は、俺の日常に成ろうとしているのだ。それだけは避けたい。
 しかし、かと言ってどうこうできる人間ではない。彼女は善意で、親の教えに則った、言うなれば『正しい』事をしているのだ。この事は、この光景が嫌な俺にも分かる程、単純で明快な事だ。否定のしようがない。
「はいはい。で、何の用?」
「次の休み、一緒に出掛けませんか?」
 おっと嫌なワードが聞こえたな。出掛ける?俺が?彼女と?おいおい冗談はこの状況だけにしてくれ。俺がそんな事に、易々と応じる訳が無い。ここは、適当な用事をでっち上げて、逃げてやろう。
「ちょっとその日は友人と予定があってね」
「陽太さんですか?」
「そうだよ?」
 そう答えると、彼女はこっちにスマホの画面を向けて来た。
 そこには、陽太さんと彼の彼女さんのツーショットがあった。
「これは?」
「陽太さん、この人と二人きりで出掛けるらしいですよ」
 あ、成程。どうやら俺は、彼女が行動力の権化だという事を忘れていたようだ。彼女、いや、七海さんは個人でマークしておいた方が良いようだ。
 しかし、嘘を吐いているとバレてしまった今は、もう断る手札も言い訳も無い。ここは七海さんに従うしか無いようだ。
「じゃ、あの喫茶店で集合ですね!十時頃で!」
「はいはい」
 災害のような人だ。訪れれば、俺には成す術が無く、ただそれに合わせるか、通り過ぎるのを待つ事しかできない。
 まあ、災害程の実害はまだ出ていない。ここは我慢。我慢だ。
 彼女にあの喫茶店を紹介してもらった後、俺はあそこでバイトをしている。元々バイトを雇うつもりは無かったらしいが、七海さんの紹介という事もあってか、雇ってもらえた。そこそこ給料が高いので、七海さんには感謝している。つもりではある。
 あの店は、やはり『隠れた名店』というヤツらしく、仕事で近くに来た時だけ来る探偵や、近所に住んでいる小説家など、客は少ないが、彼等は全員常連だ。マスターはその全員の名前と顔を覚えているらしい。人数が多い訳ではないが、それでも凄いと思う。
 今日は、あの喫茶店でのシフトは入っていない。残念な事に、明日も丁度空いている。つまり、俺に『断る』という選択肢は無かったのだ。
 諦めの境地とは便利な物で、こういう時、極度に落ち込む事が無い。

 翌日の十時前、俺はスマホ、財布、暇潰しの小説を入れたカバンを持って、あの喫茶店に向かった。
 既に開いていた店の中はいつも通り静かで、俺は小説を読みながら、七海さんが来るのを待った。
 が、七海さんは案外早く来た。
「おはよう亮太さん!待ちました?」
「数分。まあ、特別長いという訳でもないのだし、気にする程でもないですよ」
 七海さんは朝食を食べ損ねたようで、マスターにサンドウィッチプレートを頼んでいた。朝食をもそもそと食べ始めた七海さんに、俺は今日の目的地について聞いた。
「で、どこに行く予定なんです?」
「今日はですね~予定を作らずブラブラ旅です!」
「うん、帰って良いかな?」
「なんでです!?」
 当たり前だろ。多少はどこに行くかみたいな目星を付けてから来てくれ。
 いや、予定無しの旅が嫌という訳ではない。七海さんとだから嫌なのだ。こういうのは、波長の合う人間とだから楽しいのだ。七海さんと居たら、何だか凄く疲れそうだ。
 しかし、彼女も何も考えていなかった訳ではないらしく、どの辺りまで行くか程度は話して来た。
「亮太さんに教えてあげたい、こことは別のお店があるんです!今日はそっちの方面に行こうかと考えてます!」
「全くの無計画じゃなくて安心したよ」
 そういう事なら、付き合ってやろう。七海さんのオススメの店ともなれば、また隠れた名店みたいなのを教えてくれるかもしれない。ここはついて行くのが得。頑張ろう。
「そういう事なら、ついて行こう」
「やった!ありがとうございます!」
 そんな話をしていると、店の奥からマスターが出て来た。どうやらここまでの話は聞いていたようで、少しにやにやしてた。おいアンタおい。
「なになになにデート?」
「違いますよ。彼女の『お礼』に付き合ってるだけですよ」
 マスターはにやついた顔をしながら、「それをデートって言うんじゃない」と言っている。この頭ピンク色の後方保護者面がよお。
 俺達はマスターを放って、さっさと出掛ける事にした。付き合ってられん。
 十時を過ぎた表通りは賑わっており、もうこの町に来て一か月程だが、この騒がしさには慣れない。
「じゃ、駅行きましょう」
「はいはい仰せのままに」
 俺達は、休みを満喫したい人がごった返した駅から、人がすし詰めになった電車に乗った。物理的にも精神的にも辛い。このままどれ位待てば良いのだろうか。
 そして、この状態で待つ事、驚愕の三十分。都会特有の駅と駅の短さも相まってか、余計長く感じた。
 駅のホームから出た俺は、大きく息を吸って、深呼吸をした。
「やっぱり亮太さん、この人込みには慣れてなかったですか」
「やっぱりって何だやっぱりって」
「人とつるんでる所を余り見かけないので。サークルでも、付き合いはそこそこ程度にみたいな距離感でしたし」
 何でアンタ俺のサークル内での立ち回り知ってんだおい。知り合いは多そうな性格だが、その口調は実際に見た奴の口調だ。俺もうアンタが怖くなってきたよ。
 そんな俺をよそに、七海さんはずんずん先へ進む。待て俺を置いて行く気か?ここに連れて来たのアンタだろうがよおい。
 俺は少し速足になって、七海さんの後を追う。人間の壁に阻まれ、何度か七海さんを見失いかける。その度に俺は背伸びしたりして、七海さんの姿を補足する。
 それから暫く歩き、これまたあの喫茶店と似た雰囲気の、小さな建物に着いた。
「ここです」
「ほほう。貴女の好みが少し分かった気がするよ」
 看板には、『樫の木古本屋』と書いてある。どうやら、書店らしい。七海さんが本を読むイメージは湧かないが、あの喫茶店で読んでいるなら、結構サマになるのかもしれない。七海さんは顔が良い。
 中には結構な量の本が置いてある。古本屋だけあって、結構懐かしい本が置いてある。小説、伝記、啓発本や論説文など、昔読んだ本も、今持っている本も、聞いた事がある本も、知らない本もある。ちょっと心躍るな。
「こっちに来てから見つけた古本屋さんです。小説読んでる所をよく見かけるので、こういう所も好きかなと思って、紹介しました」
「結構好きだね。ありがとう。暫く見てっても良いかい?」
「はい。そのために来ましたから」
 俺は小説の棚に近づき、昔気になっていた本を手に取る。もうどこの書店にも売っていないような本だ。ブックオフとかも探したが、少なくとも近所には無かった。ここ以外で手に入る事も無いかもしれない代物だ。折角だし、買ってしまおうか。
 この本は恋愛小説で、恋する乙女が好きな男子相手にドギマギする、言ってしまえばありがちな話なのだが、圧倒的な話の作り込みと引き込まれる文で、一躍有名になった。この作者の作品は、どれもありがちな展開を、自身の力でとても魅力的な話に作り上げた作品だ。
 一時間程だろうか。話のキリが、一旦良くなった所で、俺は肩を叩かれた。振り返ると、七海さんが立っていた。
「そろそろお昼行きません?近くのマックで」
 そういえば、もうお昼時だ。集中して気付かなかったのだろうか。結構腹が減っている。この本もキリが良いし、そろそろお昼にしても良い頃合いだろう。
「そうですね。これ買ってくるので、少し待っててください」
 俺はレジに向かい、店主と思しき老婆に本を渡した。
「二百円」
「はい」
 言われた金額を差し出すと、彼女はこっちを見て、微笑んだ。
「いや、やっぱタダで良い。持って行きな」
「え、いやでも、それじゃあ……」
「良いのさ。良い色を見せてもらった。これはほんのお礼さ」
 そう言って、彼女はつけていたグラサンを外した。その顔は、見間違える筈が無い。この本を書いた、秋原祥子あきはらしょうこ先生だった。
「ここで働いてんのは秘密な。今後とも、ご贔屓に」
 そう言われ、言葉を発する事もできないまま、俺は店を後にした。七海さんが何か聞いて来たような気もするが、よく覚えていない。それ位の衝撃だった。あんな小さな古本屋で働いてるとか、誰が想像できただろうか。通おう。
 マックに入った時も、少しボーっとしていた。七海さんに、何を食べるか聞かれた時も、「ビッグマックのセットを一つ」なんて、少し心ここにあらずみたいな返事になってしまった。
 列の先頭に近づいた辺りで、ようやく衝撃を受け止めきれた俺は、少し溜息を吐いた。何かどっと疲れた。
「ダイジョブですか?さっきの書店で本を買ってから、ずっとそんな感じですよ?」
「ああ、大丈夫。もう大丈夫。ありがとう」
 うん。もう大丈夫。
 今日一日の運が、全てあの数十秒に集約したかのような時間だった。それ位、凄い時間だった。幸運だった。七海さんには、今度何か美味い物でも奢ってしまおう。いや、この会計を、俺一人でやってしまおう。今、俺の財布には、五千円とバラが少しある。これなら、流石に二人分足りる。
「七海さん。金は俺が出すんで、あっちの方で待っててください」
「お、実は今月そこそこきつかったんですよ。ありがとうございます」
「いやいや。ほんのお礼ですよ。ここに連れて来てくれたね」
 七海さんは、少し首を傾げたが、特にきにする事でもないかと思ったのか、直ぐに列を外れて行った。
 俺は注文と会計を済ませ、レシートを貰って、七海さんと合流した。
「お待たせしました」
「たかが五分なんだし、そんな言わなくても良いですよ」
 待っていると、流石は大手ファストフードチェーン。こんなに混んでいるのに、十分程で呼ばれた。すげぇ。
 店の外で食べると予め決めておいた俺達は、そそくさと店を出て、それぞれが注文したハンバーガーを手に取った。
「やっぱりマックは美味しいですね~」
「そうですね。やはり大手は偉大」
 マックに限らず、ファストフードは大抵味が濃い。それが良い。体に悪い物は大体美味い。これが堪らん。以前食ったラーメンも旨いが、ファストフードには時々食べたくなる謎の魅力がある。
 俺達は、それぞれのハンバーガーを食べながら、次の目的地について、横目で話し合った。
「で、紹介したかったらしい古本屋も行って、ファストフードも食べて、これで満足ですか?」
「まだまだです。今日はこっち方面で遊びまわりますよ」
「今月ピンチとは……」
 その後も、俺は七海さんに、スイーツバイキングとか、ゲーセンとか、今をときめく感じの、イマドキな感じの、そんな感じの若者がよく行ってそうな施設に連れ回された。結構楽しかったが、何か暫く行きたくないと思った。
 そんなこんなで、お開きになる時にはもう、俺は結構疲れていた。体が怠い。もう何か疲れた。
「だ、大丈夫ですか?何か足元覚束ないですよ?」
「その金は一体どこから出てるんだ……っ」
「あ、副業とかバイトとか頑張ってるんです。でも、今月ピンチなのはホントです」
 嘘吐け。キツイと思ってる人間は、こういう金の使い方しねえ。絶対。断言してやる。今月ピンチな奴は、一つで万行く服を数枚買ったりしねえ!

 結局、俺は七海さんに心配されながら、あの喫茶店まで戻る事になった。
 店に入るとほぼ同時に、マスターが出て来た。ついでにいつものにやけ面が剥がれて、少し焦っている。やったぜ。
「どうしたどうした!?君達デートに行った筈じゃないの!?」
「連れ回し過ぎました……」
「彼女の『お礼』を甘く見てました……」
 その後、俺はマスターに休まされて、暫く夜の喫茶店に居座る事になった。因みに、七海さんは帰った。オイ。
 机に突っ伏す俺に、マスターはサンドウィッチをくれた。
「これ、どうしたんです?今金持ってませんよ」
「慰労と言うヤツさ。それに、賞味期限切れたヤツしか使ってないから良いよ」
 うう、うめえ。マスターの優しさが骨身に染みるようだ。賞味期限が切れたヤツの筈なのに、前に食べたのよりも旨い気がする。疲労ってすげえ。
 数分もすると、軽食程度の量しか無かったサンドウィッチは食べ終わり、肉体的にも精神的にも、少し余裕が持てた。やっぱりこういう軽めの飯があるだけで、何だか落ち着く。
「ごちそうさまでした」
「ありがと」
 マスターは皿を店の奥に置いてから、俺の方に戻って来た。
「今日は災難だったね」
「災害が訪れた時の人間は、一刻でも早く、その災害が去るのを静かに待つのみです」
 マスターは笑いながら、「違いない」と言った。対策も無い、避けようも無い。これはもう災害と遜色無い。違う所があるならば、物的損害が無い事位だ。
 もうすっかり暗くなった外には、まだ人が居た。人の生活が好きみたいな、そういう大層な趣味は無いが、この世界に他人が存在しているというだけで、自分が死んでも、この世は変わらないと思える。気が楽になる。
 しかし、このままお世話になる訳にもいかない。もうアパートに帰ろう。
「じゃ、ありがとうございました。サンドウィッチ美味しかったです」
「他人にお礼を言われたり褒められたりするのは、結構気分が良いね。こちらこそさ、少年」
 俺は店を出て、さっさとアパートの一室に戻る。俺が店を出ると、直ぐに店の電気は消され、さっきまで明るかった店から、途端に人気が無くなる。元々雰囲気のある店だったが、こういう所も好きなのだ。

 さて、明日から、もう少し頑張ろう。
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