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弟、ウチに来る。
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人の因果関係というのは、遠かろうが近かろうが、関係無く結ばれる。
これは生まれた瞬間からの決まりであり、肉親だけでなく、自身の出産に立ち会った者、或いはその場に居た者、発想を飛躍させれば、人はこの世に生まれ落ちた瞬間、世界中の人間と、大小様々な糸で繋がった事になる。
これに例外は存在せず、いくら少なく見積もっても、どんなに自身の両親が浮世から離れた存在であっても、片手では収まり切らない量の人間との関係を持つ。
この糸が切れる事は、その人間の死を意味するが、それ以上に多くの糸で、人と人は繋がりを増やし続ける。
逆に、書類上の家族や親戚との関わりを、可能な限り絶ちたいと言う人間も居るだろう。その要因は、一時的な喧嘩や癇癪かも知れないし、相手を思いやっての行動かも知れない。ただ一つ言える事は、それで書類上の関係を絶ったとしても、人としての糸は切れないという事だ。
血の繋がりとは、この世で最も強い繋がりでもある。血が繋がっているというだけで、親の立場を受け継ぐ事も、自分自身は何もせずにテレビに出る事だってある。
しかし、俺はそれが忌まわしい。可能なら、血の繋がりでさえ切ってしまいたいと考えている。
実際の所、そんな願いが叶う筈も無い。正直な所、俺は願っていると同時に、諦めているのだ。諦めた状態で叶う願いなど、実際の所存在しない。根性論とかではなく、諦めたなら行動しなくなるので、願いを叶える術を失ってしまう。だから叶わない。
アレと血が繋がっている事に感謝した日など、覚えている限り一度も無い。何をするにも、アレとの関係が付き纏う。うっとおしいったらありゃしない。
ならば、可能な限り遠ざけよう。『臭い物には蓋をしろ』とは言うが、蓋ができないような物だったなら、遠ざける以外の対処法は存在しない。
だから、俺はここに居る。
千葉へ行った帰り、俺は七海さんに、延々と問い詰められていた。理由は勿論、俺に弟が居る事を言っていなかったからである。
「亮太さん!何で弟さんが居る事を、私に黙っていたんですか!?」
「いや聞かれなかったし……」
「紹介の一つでもしてくださいよ!『友達だよ』って誰かに言われるの、少し憧れてたんですよ!」
いや初耳だが。しかし、まさか弟の存在を知らせていなかっただけで、ここまで絞られるとは思わなかった。たかが弟だぞ?身内なのは確かだが、それだけで紹介する理由になるとは、正直考えていなかったのだ。
「分かった分かった。じゃ、明日アイツが来るらしいから、そん時紹介してやるよ」
「本当ですか!?やったあ!」
おお飛び上がった。そんなに嬉しいのか。誰かに『友達だ』と紹介されるのが、そんなに嬉しいのか。やはり七海さんの考え方は独特だな。
そんなこんなで、七海さんの機嫌を取る事に成功した俺は、夕方も近くなってきたので、そろそろ駅に戻る事を提案した。機嫌が良い七海さんは、それを承諾した。
帰りの電車。俺達は二人共疲れていたらしく、席に座り、目を瞑ると、直ぐに寝てしまった。
『間も無く東京駅です』という車内アナウンスで起きると、隣で七海さんが寝ていた。気持ちよさそうに寝ているが、ここで起こさないと七海さんだけ乗り過ごしてしまう。ここは起こさなければ。
「七海さん、起きろ。東京駅に戻って来たぞ」
「う……ん。あれ?もう東京ですか?」
「そうだぞ。降りるからさっさと起きな」
七海さんは目を擦りながら、体を起こした。どうやらまだ眠いらしく、目がぼんやりとしている。
東京駅に降りた俺達は、少し人が居なくなるのを待ってから、帰りの電車が出るホームに向かった。電車が出て数分で次の電車が来るのは、都会の良い所だとつくづく思う。
俺は自宅の最寄り駅で降りて、七海さんを見送った。段々遠くなる電車の中で、七海さんが小さく手を振っている。ああいうのが見えると、少しばかり嬉しくなる。何だか自分が肯定されている気分になれるのだ。
うん。今日も多少のハプニングはあったが、楽しかった。明日弟が来るのも決定したし、頑張ろう。
「やあ兄貴!来たよ!」
「お前は朝っぱらからうるせえな」
コイツの名前は海田奏多。俺の弟で、高校生の癖に、俺より上手く金を稼いでいる。俺の数十倍出来が良い。
翌日、朝の支度をした俺の部屋に、突如コイツが到着した。駅に着いたとか、どこに住んでるのかとか、一切の連絡をしてこなかったので、俺はまだ寝間着姿だ。
「連絡くれれば迎えに位行ったぞ」
「大丈夫さ。一応、住所だけは前に聞いといたろ?」
「そうだっけ?」
まあ、奏多が言うならそうなのだろう。コイツなら、他人の住所特定位訳ないとは思うが、流石に身内にそんな事はしない程度の倫理は持っている。筈だ。
しかし、コイツが来たという事は、約束していた七海さんにも連絡を入れないといけない。朝早くから連絡とか、結構迷惑じゃないか?まあ、来てしまったのだから仕方無い。言い出したのは向こうだ。気にする事は無い。俺はLINEを開き、以前交換しておいた七海さんの連絡先に、『弟が来た。いつもの喫茶店集合』と、連絡を入れた。秒で既読が付いた。怖っ。
「お!兄貴にも春かい?」
「違う。お前を紹介しろとかいう人が居るから、集合の連絡をかけただけ」
奏多は口を尖らせながら「なーんだ。つまんね」と言っている。自分の兄が誰かと恋愛している事に期待するなよ。ラブコメじゃねえぞ。
それから、俺はいつもの喫茶店に向かった。
「なあ兄貴、ここは?」
「さっき言った人との集合場所」
俺は喫茶店の扉を開け、七海さんの姿を探そうとした。
しかし、その必要は無かった。何と、七海さんが仁王立ちで、店の真ん中に立っていたのだ。
「おはようございます亮太さん!そちらが弟さんですか!?」
「そうだ。弟の奏多。奏多。こちら俺の友人の七海さん」
奏太は七海さんを見て、何故か口をあんぐりと開けて、七海さんを指差した。
「おい奏多。人に指を差すのは……」
「兄貴に春が来たあああああああ!」
ああまたか。朝もやったぞこの遣り取り。いい加減にしてくれ頼むから。
「七海さんと言いましたね?私の兄と、どういう関係なんですか?」
「亮太さん、彼は何を言っているんですか?」
「あ~まあ、コイツは結構早とちりしちまうんだ」
実際コイツは、話を聞いてから行動までが早い。それが良い方に作用する事はあるが、悪い方に作用する事も多い。
昔、コイツはどうにも手が早かった。誰かがイジメを受けていると言われると、その元凶の方を叩きのめそうとした。その度、俺がコイツを止めた。この正義感は美徳だと考えているが、この行動を止めるのは結構辛かった。教師に証拠を持って話に行けと言うと、そうしてくれるのが救いだった。
まあ、良い事もあった。どうやらひったくりとかを見かけると、そいつを自慢の健脚で捕まえる事が多々あったらしい。小学生では捕まえられなかったらしいが、中学二年生にもなる頃には、殆ど捕まえられたらしい。その度に褒められた結果、コイツは何時も笑顔だった。あの生活の数少ない救いだった。
しかしながら、今はそれが完全に裏目に出てる。どうやら、七海さんという、そこそこ見目麗しい女性を見た結果、その人間の連絡先を持っていると言う事実から、七海さんと俺が恋人関係だと勘違いしたらしい。どうなってんだその思考回路。
「兄貴よ!何故俺に七海さんを紹介してくれなかったんだ!?」
「だから、ただの友人でしかないんだし、わざわざ紹介する事も無いだろうと考えてたからだ」
「そんな訳無いだろ!こんな美人と付き合ってんだろ!?」
「だからよお……」
ここから奏太を落ち着かせ、誤解を解くまでに、俺は実に一時間を浪費した。
「早とちりしてすみませんでした」
「友人だって二回言ったろ、俺」
「はい。仰る通りでございます」
いやあ疲れた。人の思い込み以上に面倒臭い物は無いと考えている。理由がこれだ。思い込みは、その人間の思考の根底に染み付く物なので、いくら説明しようにも、適格な言葉を使わない限り、その誤解は拭えない。それでも、一回染み付いた思い込みは、その人間に『でも実際は』という考え方を与える。ある程度の不可逆的な影響を残すから、面倒臭いのだ。
しかし、今回は一旦否定できた。これで何とかなりそうだ。
さて、弟の紹介は済んだ。今週は昨日の他に、七海さんからの誘いとかも無かったし、今日はこれで帰るかな。
「じゃ、今日どこ行きます?」
「待て待て待て」
「え、やっぱりそういう」
また面倒臭い事になりそうだ。
因みに、この後俺達が一緒に外出する事になった原因を説明した。奏多は「それもう殆ど付き合ってるじゃん」と言っていた。違う断じて違う。いやまあ正直そういう勘違いされても仕方無い事をしている自覚も芽生えたが、実際は違うのだ。
「で、どこで遊びます?」
「お任せしますよ」
「あ、じゃあ俺東京観光したい!」
「なら適当な所で遊ぶか。七海さんも、それでお願いできる?」
「良いですよ」
そんな事を話していると、店の奥からマスターが出て来た。俺の弟と言う新顔に、少し驚いていた。
「あら新顔。二人の知り合い?」
「俺の弟です」
「奏多と言います!」
「これはご丁寧に。じゃあ何か作るから待ってて。どうせ朝飯まだでしょ?」
あ、そう言えば忘れていた。朝から外食とか、金欠なのに金を使ってしまうが、ここは甘えておこう。正直奏多の方が俺より余裕あるし、アイツの分は自分で払わせよう。
そして出て来たのは、いつも通りのサンドウィッチプレートだった。奏多はそれを食べると、「お、旨い」と目を輝かせた。うん。奏多のこの顔を見てると、少し嬉しくなる。奏多はそういう魅力を持った奴だ。
それを食べ終えた俺達は、早速出掛ける事にした。休日の混んだ電車は、今でもキツイ。電車の中は冷房が効いているとは言え、この人込みもあるので、正直クソ暑い。
「兄貴、これに毎日乗ってんの?」
「これが嫌だから自転車買った」
自転車は素晴らしい。移動に使う金が節約できるし、電車よりも細かい場所への移動もできる。移動速度は電車に遠く及ばないが、体力さえあれば、かなり便利な物である。
一度は経験したであろう奏多も、一日に二度はキツイらしく、電車を降りる頃にはぐっだりしていた。
「おい大丈夫か奏多。お望み通りの原宿だ」
「ここが……憧れの竹下通り……もう悔いは……」
おい来ただけで満足すんな。体験するまでは来てないのと同じだぞ。
「さあさあどこから回ります?」
「じゃ、適当なスイーツでも食べながら行くか」
「スイーツ!?」
あ、起きた。そう言えば、奏多は大の甘党だったな。昔父さんに連れて行ってもらった先でアイスクリームを食べた時も、目を輝かせて喜んでたっけ。
奏多も復帰した所で、俺達は竹下通りを進む事にした。かの有名な竹下通りには、いつ来ても人がごった返している。この人の壁は、進むのにも一苦労する。
「先ずクレープ!」
「これがクレープ……輝いて見えるぜ」
「奏多さんいつの人ですか?」
七海さん、言ってやるな。コイツはあの母親が結構キツイ事ばっかやってるから、中々こういうのを食う機会が無いだけなんだ。ただの無垢な美少年なんだ。
それから、無限に湧いて来る奏多の腹の虫を無くす為、俺達は食べ物屋や服屋を巡った。楽しかったし、奏多の笑顔を見るのは久しぶりだったので、少し心が洗われた。
それから、財布の中身が厳しくなってきた俺達は、ここで帰る事になった。ていうかコイツ、まさか東京観光を全力で楽しむ為だけに、あの財布をパンパンにして来たのか?やはり金持ちはすげえ。
「じゃ、また今度会いましょう!」
「ああ、また今度」
「七海さんバイバイ!」
七海さんと別れ、アパートに戻った俺達は、飯の準備と同時に、それぞれの近況を話す事にした。
「兄貴は最近どーよ?友達できた?」
「安心しろ。家に行く程度には仲が良い奴は居る」
「そっか。ちょっと安心したな」
「待ってろ。昼に食った物程じゃないが、旨い物作ってやるぞ」
そう言うと、奏多は少し笑った。そして、何故かクローゼットの中を漁り始めた。へそくりは無いぞ。あったとしても、お前には渡さん。
野菜炒めが出来上がったので、俺はそれを皿に盛りつけ、本来一人用の、狭いテーブルにそれを置いた。
「おい、何時までそこ漁ってんだ。飯だぞ飯」
「分かった。お、野菜炒め」
俺達は米を茶碗に盛り、「いただきます」と言った。いつもなら言わない事なのに、何故か今日は自然に出て来た。奏多が居るからだろうか。
「なあ、何で家追い出されたんだ?あの母親と喧嘩でもしたか?」
「『ニートはウチに居るな。恥だ』、だと。俺も家に金入れてんだけどなあ」
あの母親は、どこかの会社に勤めている訳でも公務員でもないイコールニートみたいな思考らしい。フリーランスという選択肢が無いのだ。
奏多は家にある自分の部屋で、様々な外貨やNFTの売買、ネット上の取引やSNSへの動画等の投稿をして、そこらのサラリーマンよりも少し多く金を稼ぐ。高校生程度の年でありながら、奏多は俺より多くの金を稼いでいる。出来の良い弟を持って、俺は誇らしいよ。
しかし、あの母親はそれを認識していない。家を出ずに金を稼ぐ方法もあると言う奏多を、『ただのヒキニート』と考えているらしい。俺も実家に居た頃は、そういう話を延々と聞かされた。
「どの位居るんだ?」
「お盆の間は帰るつもりは無いよ。親戚が多いお盆に、俺が行ったら大発狂だろうね」
「お~こわ」
飯も食い終わり、風呂に入ってもらう事にした。奏多の次に、俺だ。奏多にはゆっくりと風呂に浸かって、ここまで来た疲れを癒してほしい。
ああしかし、俺も今日は疲れた。今日は風呂に入ったらさっさと寝よう。良い一日であった事は確かだが、それはそれとして疲れるのだ。これは人間に限らず、生物であれば逃れる事のできない、自然の摂理である。仕方が無い。
奏多を入れ替わるようにして、俺は風呂に入った。温かい風呂には、入った人間の疲れを癒す効果があると、俺は考えている。疲れというのはどうしても溜まる物だが、風呂に入ると幾分マシになる。良い事だ。
風呂から上がった俺は、さっさと布団を敷いて寝ようと思ったが、これでは奏多が寝る場所が無い事に気が付いた。
「あ~……奏多、どうする?」
「昨日の今日で押しかけた俺も悪いし、昨日と同じように、ネカフェに泊まるよ」
「ごめんな。折角来てくれたのにネカフェでなんて。せめて案内させてくれ」
「良いよ。グーグルマップで行くから。湯冷めしたら悪いだろ?」
奏多はそのまま、俺の部屋を出て行った。その背中は、俺が実家に居た時よりも少し、大きくなって見えた。
翌日、俺はやる事が無い事に気が付いた。大学からの課題も終わっている上、七海さん以外の仲が良い面子は、全員実家に帰っている。遊ぶ相手も居なければ、やるべき事も無いのだ。折角奏多も居るのに、これでは勿体無い。如何した物か。
これから何をやるか。俺は奏多と朝食を食べている間、ずっとぞれを考えていた。終いには、奏多本人にやりたい事を聞いた。
「あ~そうだな……兄貴、予算は?」
「最近使っちまって、かなり少ねえ」
「じゃあ本当に困った……」
いや、お前と七海さんが金持ってるだけだから。世の大学生、多分俺と同じ位の筈だから。俺おかしくないから。
特にやる事も無い俺達は、取り敢えずあの喫茶店に行く事にした。マスターと話しているだけで、結構な暇潰しにはなるのだ。やる事も無い時は、コーヒー一杯だけを頼んで、あそこに居座るに限る。
「で、ここに来たと。奏多君も結構凄いねえ。流石は兄弟だ」
「良いでしょ?一応コーヒーは頼むんですし」
「あ、俺角砂糖一個入れてください!」
少し待つと、コーヒーが来た。俺に繊細な味の違いなど分からんから、いつも一番安いのを頼んでいるが、奏多は味の違いが多少分かるらしい。コーヒーを一口飲むと、「あ、美味しいですね」と言った。
「へえ。最近の若者は、亮太くんみたいなのだけだと思ってたよ」
「仕事の関係上、偶に飲む機会があるんです」
おいマスター、今すぐそのにやけ面を止めろ。弟が俺と違って、コーヒーの味が分かるだけじゃねえか。別に俺の舌がバカとかじゃないんだぞ。だからその顔を止めろ。
「そう言えば、マスターは帰省とかしないんですね」
「僕は家の連中と反りが合わなくてね。どうにも上手くいかないんだ。だから、帰省はしないかな」
へえ意外。マスターは何でもできるイメージがあったが、身内付き合いは苦手らしい。
「おお、僕ってそんなイメージだったんだ。なら、マジックはできるから見るかい?」
「それは楽しみ。お願いします」
「じゃ、先ずは小手調べ……」
そんなこんなで、俺達は無事、午前中の時間を潰す事に成功した。やったぜ。
「あ、もうすぐ午後だね。亮太くん、今日ウチのシフトだったよね」
「そうですね。じゃ奏多、俺少し着替えて来るわ」
「兄貴ここのバイトなんすか?」
「そうだよ。亮太くんが戻って来るまで暇だし、適当な話でもしますか」
俺は着替えが早い訳でもないので、この店の制服に着替えるまで、五分程かかる。この制服があまり複雑なつくりではないのは、マスターの手作りだかららしい。あの人本当に何でもできるな。
「お、着替え終わったようだね」
「兄貴中々サマになってるぞ」
「ありがとよ」
まあ、着替えた所で、やる事はあまり変わらない。俺は自分が飲んだコーヒーのカップを片付け、洗い、さっさと先程座っていた席に戻る。
「仕事しないか亮太くん」
「今やる事あります?」
「いや無いけどさあ……」
マスターは少し悩むような顔をして見せた。どうやら、俺に何をやらせるかを考えているらしい。俺は何もせんぞ。断る理由が無い物を出してみろ。出せる物ならな。
「じゃあ亮太くんには、いくつかのマジックをマスターしてもらうよ。客の暇潰しに付き合えるようにしないとね」
「まいりました」
俺は両手を上に挙げ、降伏のポーズを取った。先程まで俺がやっていた事を突かれては、俺は何も言えない。従うしかない。負けた。
それから、俺はマスターに教えてもらいながら、トランプを使ったマジックを学んだ。まあ、最初から上手く行く訳が無い。俺は何回も失敗し、その度、観客役をしていた奏多に笑われた。結構キツイ。
そして、その日一日で覚えられたのは、何と捲られたトランプを当てるというだけの、まあスタンダードな奴一つだけだった。
「まさか、亮太くんがここまで不器用だとは思わなかったよ」
「兄貴って昔っから不器用だよな」
「くっ、不甲斐無い」
俺は昔から、手先が不器用だった。細かい作業が苦手だったので、小中学校のクラスの仲で、俺は力仕事や、使いっ走り担当だった。体を動かすのが苦手だった訳でもないので、さして苦に感じなかったが、それでもこれはコンプレックスだった。
そんな俺がマジックをやろうとした今日だったが、まあ酷い物だった。タネが露呈したり、マジックが上手くいかなかったり、トランプがシャッフル途中で弾けたりなど、兎に角多種多様なミスをした。俺も途中から、「できるようになるまで、後何年掛かるんだろう」とか考えてしまった。
帰り道、俺は奏多に慰められていた。
「そんな落ち込むなよ兄貴。練習すれば、できるようになるさ」
「そうだな……うん。これから毎日少しずつ練習しよう。マスターのあのにやけ面引っぺがしてやる」
奏多は「その意気その意気!」と励ましてくれた。優しい弟を持てた俺はとても幸運なのだろうな。
「うん!今日は銭湯でも行くか!」
「お!やったね!」
そう言って、俺は笑った。笑った顔のまま、俺は銭湯に向かった。
折角奏多が居るのだ。可能な限り、楽しい事をしよう。その内、今日と言う一日を思い出した時、少しでも良い気分になれるように。
今日は良い一日だった。無理矢理にでも、俺はそう考える。
これは生まれた瞬間からの決まりであり、肉親だけでなく、自身の出産に立ち会った者、或いはその場に居た者、発想を飛躍させれば、人はこの世に生まれ落ちた瞬間、世界中の人間と、大小様々な糸で繋がった事になる。
これに例外は存在せず、いくら少なく見積もっても、どんなに自身の両親が浮世から離れた存在であっても、片手では収まり切らない量の人間との関係を持つ。
この糸が切れる事は、その人間の死を意味するが、それ以上に多くの糸で、人と人は繋がりを増やし続ける。
逆に、書類上の家族や親戚との関わりを、可能な限り絶ちたいと言う人間も居るだろう。その要因は、一時的な喧嘩や癇癪かも知れないし、相手を思いやっての行動かも知れない。ただ一つ言える事は、それで書類上の関係を絶ったとしても、人としての糸は切れないという事だ。
血の繋がりとは、この世で最も強い繋がりでもある。血が繋がっているというだけで、親の立場を受け継ぐ事も、自分自身は何もせずにテレビに出る事だってある。
しかし、俺はそれが忌まわしい。可能なら、血の繋がりでさえ切ってしまいたいと考えている。
実際の所、そんな願いが叶う筈も無い。正直な所、俺は願っていると同時に、諦めているのだ。諦めた状態で叶う願いなど、実際の所存在しない。根性論とかではなく、諦めたなら行動しなくなるので、願いを叶える術を失ってしまう。だから叶わない。
アレと血が繋がっている事に感謝した日など、覚えている限り一度も無い。何をするにも、アレとの関係が付き纏う。うっとおしいったらありゃしない。
ならば、可能な限り遠ざけよう。『臭い物には蓋をしろ』とは言うが、蓋ができないような物だったなら、遠ざける以外の対処法は存在しない。
だから、俺はここに居る。
千葉へ行った帰り、俺は七海さんに、延々と問い詰められていた。理由は勿論、俺に弟が居る事を言っていなかったからである。
「亮太さん!何で弟さんが居る事を、私に黙っていたんですか!?」
「いや聞かれなかったし……」
「紹介の一つでもしてくださいよ!『友達だよ』って誰かに言われるの、少し憧れてたんですよ!」
いや初耳だが。しかし、まさか弟の存在を知らせていなかっただけで、ここまで絞られるとは思わなかった。たかが弟だぞ?身内なのは確かだが、それだけで紹介する理由になるとは、正直考えていなかったのだ。
「分かった分かった。じゃ、明日アイツが来るらしいから、そん時紹介してやるよ」
「本当ですか!?やったあ!」
おお飛び上がった。そんなに嬉しいのか。誰かに『友達だ』と紹介されるのが、そんなに嬉しいのか。やはり七海さんの考え方は独特だな。
そんなこんなで、七海さんの機嫌を取る事に成功した俺は、夕方も近くなってきたので、そろそろ駅に戻る事を提案した。機嫌が良い七海さんは、それを承諾した。
帰りの電車。俺達は二人共疲れていたらしく、席に座り、目を瞑ると、直ぐに寝てしまった。
『間も無く東京駅です』という車内アナウンスで起きると、隣で七海さんが寝ていた。気持ちよさそうに寝ているが、ここで起こさないと七海さんだけ乗り過ごしてしまう。ここは起こさなければ。
「七海さん、起きろ。東京駅に戻って来たぞ」
「う……ん。あれ?もう東京ですか?」
「そうだぞ。降りるからさっさと起きな」
七海さんは目を擦りながら、体を起こした。どうやらまだ眠いらしく、目がぼんやりとしている。
東京駅に降りた俺達は、少し人が居なくなるのを待ってから、帰りの電車が出るホームに向かった。電車が出て数分で次の電車が来るのは、都会の良い所だとつくづく思う。
俺は自宅の最寄り駅で降りて、七海さんを見送った。段々遠くなる電車の中で、七海さんが小さく手を振っている。ああいうのが見えると、少しばかり嬉しくなる。何だか自分が肯定されている気分になれるのだ。
うん。今日も多少のハプニングはあったが、楽しかった。明日弟が来るのも決定したし、頑張ろう。
「やあ兄貴!来たよ!」
「お前は朝っぱらからうるせえな」
コイツの名前は海田奏多。俺の弟で、高校生の癖に、俺より上手く金を稼いでいる。俺の数十倍出来が良い。
翌日、朝の支度をした俺の部屋に、突如コイツが到着した。駅に着いたとか、どこに住んでるのかとか、一切の連絡をしてこなかったので、俺はまだ寝間着姿だ。
「連絡くれれば迎えに位行ったぞ」
「大丈夫さ。一応、住所だけは前に聞いといたろ?」
「そうだっけ?」
まあ、奏多が言うならそうなのだろう。コイツなら、他人の住所特定位訳ないとは思うが、流石に身内にそんな事はしない程度の倫理は持っている。筈だ。
しかし、コイツが来たという事は、約束していた七海さんにも連絡を入れないといけない。朝早くから連絡とか、結構迷惑じゃないか?まあ、来てしまったのだから仕方無い。言い出したのは向こうだ。気にする事は無い。俺はLINEを開き、以前交換しておいた七海さんの連絡先に、『弟が来た。いつもの喫茶店集合』と、連絡を入れた。秒で既読が付いた。怖っ。
「お!兄貴にも春かい?」
「違う。お前を紹介しろとかいう人が居るから、集合の連絡をかけただけ」
奏多は口を尖らせながら「なーんだ。つまんね」と言っている。自分の兄が誰かと恋愛している事に期待するなよ。ラブコメじゃねえぞ。
それから、俺はいつもの喫茶店に向かった。
「なあ兄貴、ここは?」
「さっき言った人との集合場所」
俺は喫茶店の扉を開け、七海さんの姿を探そうとした。
しかし、その必要は無かった。何と、七海さんが仁王立ちで、店の真ん中に立っていたのだ。
「おはようございます亮太さん!そちらが弟さんですか!?」
「そうだ。弟の奏多。奏多。こちら俺の友人の七海さん」
奏太は七海さんを見て、何故か口をあんぐりと開けて、七海さんを指差した。
「おい奏多。人に指を差すのは……」
「兄貴に春が来たあああああああ!」
ああまたか。朝もやったぞこの遣り取り。いい加減にしてくれ頼むから。
「七海さんと言いましたね?私の兄と、どういう関係なんですか?」
「亮太さん、彼は何を言っているんですか?」
「あ~まあ、コイツは結構早とちりしちまうんだ」
実際コイツは、話を聞いてから行動までが早い。それが良い方に作用する事はあるが、悪い方に作用する事も多い。
昔、コイツはどうにも手が早かった。誰かがイジメを受けていると言われると、その元凶の方を叩きのめそうとした。その度、俺がコイツを止めた。この正義感は美徳だと考えているが、この行動を止めるのは結構辛かった。教師に証拠を持って話に行けと言うと、そうしてくれるのが救いだった。
まあ、良い事もあった。どうやらひったくりとかを見かけると、そいつを自慢の健脚で捕まえる事が多々あったらしい。小学生では捕まえられなかったらしいが、中学二年生にもなる頃には、殆ど捕まえられたらしい。その度に褒められた結果、コイツは何時も笑顔だった。あの生活の数少ない救いだった。
しかしながら、今はそれが完全に裏目に出てる。どうやら、七海さんという、そこそこ見目麗しい女性を見た結果、その人間の連絡先を持っていると言う事実から、七海さんと俺が恋人関係だと勘違いしたらしい。どうなってんだその思考回路。
「兄貴よ!何故俺に七海さんを紹介してくれなかったんだ!?」
「だから、ただの友人でしかないんだし、わざわざ紹介する事も無いだろうと考えてたからだ」
「そんな訳無いだろ!こんな美人と付き合ってんだろ!?」
「だからよお……」
ここから奏太を落ち着かせ、誤解を解くまでに、俺は実に一時間を浪費した。
「早とちりしてすみませんでした」
「友人だって二回言ったろ、俺」
「はい。仰る通りでございます」
いやあ疲れた。人の思い込み以上に面倒臭い物は無いと考えている。理由がこれだ。思い込みは、その人間の思考の根底に染み付く物なので、いくら説明しようにも、適格な言葉を使わない限り、その誤解は拭えない。それでも、一回染み付いた思い込みは、その人間に『でも実際は』という考え方を与える。ある程度の不可逆的な影響を残すから、面倒臭いのだ。
しかし、今回は一旦否定できた。これで何とかなりそうだ。
さて、弟の紹介は済んだ。今週は昨日の他に、七海さんからの誘いとかも無かったし、今日はこれで帰るかな。
「じゃ、今日どこ行きます?」
「待て待て待て」
「え、やっぱりそういう」
また面倒臭い事になりそうだ。
因みに、この後俺達が一緒に外出する事になった原因を説明した。奏多は「それもう殆ど付き合ってるじゃん」と言っていた。違う断じて違う。いやまあ正直そういう勘違いされても仕方無い事をしている自覚も芽生えたが、実際は違うのだ。
「で、どこで遊びます?」
「お任せしますよ」
「あ、じゃあ俺東京観光したい!」
「なら適当な所で遊ぶか。七海さんも、それでお願いできる?」
「良いですよ」
そんな事を話していると、店の奥からマスターが出て来た。俺の弟と言う新顔に、少し驚いていた。
「あら新顔。二人の知り合い?」
「俺の弟です」
「奏多と言います!」
「これはご丁寧に。じゃあ何か作るから待ってて。どうせ朝飯まだでしょ?」
あ、そう言えば忘れていた。朝から外食とか、金欠なのに金を使ってしまうが、ここは甘えておこう。正直奏多の方が俺より余裕あるし、アイツの分は自分で払わせよう。
そして出て来たのは、いつも通りのサンドウィッチプレートだった。奏多はそれを食べると、「お、旨い」と目を輝かせた。うん。奏多のこの顔を見てると、少し嬉しくなる。奏多はそういう魅力を持った奴だ。
それを食べ終えた俺達は、早速出掛ける事にした。休日の混んだ電車は、今でもキツイ。電車の中は冷房が効いているとは言え、この人込みもあるので、正直クソ暑い。
「兄貴、これに毎日乗ってんの?」
「これが嫌だから自転車買った」
自転車は素晴らしい。移動に使う金が節約できるし、電車よりも細かい場所への移動もできる。移動速度は電車に遠く及ばないが、体力さえあれば、かなり便利な物である。
一度は経験したであろう奏多も、一日に二度はキツイらしく、電車を降りる頃にはぐっだりしていた。
「おい大丈夫か奏多。お望み通りの原宿だ」
「ここが……憧れの竹下通り……もう悔いは……」
おい来ただけで満足すんな。体験するまでは来てないのと同じだぞ。
「さあさあどこから回ります?」
「じゃ、適当なスイーツでも食べながら行くか」
「スイーツ!?」
あ、起きた。そう言えば、奏多は大の甘党だったな。昔父さんに連れて行ってもらった先でアイスクリームを食べた時も、目を輝かせて喜んでたっけ。
奏多も復帰した所で、俺達は竹下通りを進む事にした。かの有名な竹下通りには、いつ来ても人がごった返している。この人の壁は、進むのにも一苦労する。
「先ずクレープ!」
「これがクレープ……輝いて見えるぜ」
「奏多さんいつの人ですか?」
七海さん、言ってやるな。コイツはあの母親が結構キツイ事ばっかやってるから、中々こういうのを食う機会が無いだけなんだ。ただの無垢な美少年なんだ。
それから、無限に湧いて来る奏多の腹の虫を無くす為、俺達は食べ物屋や服屋を巡った。楽しかったし、奏多の笑顔を見るのは久しぶりだったので、少し心が洗われた。
それから、財布の中身が厳しくなってきた俺達は、ここで帰る事になった。ていうかコイツ、まさか東京観光を全力で楽しむ為だけに、あの財布をパンパンにして来たのか?やはり金持ちはすげえ。
「じゃ、また今度会いましょう!」
「ああ、また今度」
「七海さんバイバイ!」
七海さんと別れ、アパートに戻った俺達は、飯の準備と同時に、それぞれの近況を話す事にした。
「兄貴は最近どーよ?友達できた?」
「安心しろ。家に行く程度には仲が良い奴は居る」
「そっか。ちょっと安心したな」
「待ってろ。昼に食った物程じゃないが、旨い物作ってやるぞ」
そう言うと、奏多は少し笑った。そして、何故かクローゼットの中を漁り始めた。へそくりは無いぞ。あったとしても、お前には渡さん。
野菜炒めが出来上がったので、俺はそれを皿に盛りつけ、本来一人用の、狭いテーブルにそれを置いた。
「おい、何時までそこ漁ってんだ。飯だぞ飯」
「分かった。お、野菜炒め」
俺達は米を茶碗に盛り、「いただきます」と言った。いつもなら言わない事なのに、何故か今日は自然に出て来た。奏多が居るからだろうか。
「なあ、何で家追い出されたんだ?あの母親と喧嘩でもしたか?」
「『ニートはウチに居るな。恥だ』、だと。俺も家に金入れてんだけどなあ」
あの母親は、どこかの会社に勤めている訳でも公務員でもないイコールニートみたいな思考らしい。フリーランスという選択肢が無いのだ。
奏多は家にある自分の部屋で、様々な外貨やNFTの売買、ネット上の取引やSNSへの動画等の投稿をして、そこらのサラリーマンよりも少し多く金を稼ぐ。高校生程度の年でありながら、奏多は俺より多くの金を稼いでいる。出来の良い弟を持って、俺は誇らしいよ。
しかし、あの母親はそれを認識していない。家を出ずに金を稼ぐ方法もあると言う奏多を、『ただのヒキニート』と考えているらしい。俺も実家に居た頃は、そういう話を延々と聞かされた。
「どの位居るんだ?」
「お盆の間は帰るつもりは無いよ。親戚が多いお盆に、俺が行ったら大発狂だろうね」
「お~こわ」
飯も食い終わり、風呂に入ってもらう事にした。奏多の次に、俺だ。奏多にはゆっくりと風呂に浸かって、ここまで来た疲れを癒してほしい。
ああしかし、俺も今日は疲れた。今日は風呂に入ったらさっさと寝よう。良い一日であった事は確かだが、それはそれとして疲れるのだ。これは人間に限らず、生物であれば逃れる事のできない、自然の摂理である。仕方が無い。
奏多を入れ替わるようにして、俺は風呂に入った。温かい風呂には、入った人間の疲れを癒す効果があると、俺は考えている。疲れというのはどうしても溜まる物だが、風呂に入ると幾分マシになる。良い事だ。
風呂から上がった俺は、さっさと布団を敷いて寝ようと思ったが、これでは奏多が寝る場所が無い事に気が付いた。
「あ~……奏多、どうする?」
「昨日の今日で押しかけた俺も悪いし、昨日と同じように、ネカフェに泊まるよ」
「ごめんな。折角来てくれたのにネカフェでなんて。せめて案内させてくれ」
「良いよ。グーグルマップで行くから。湯冷めしたら悪いだろ?」
奏多はそのまま、俺の部屋を出て行った。その背中は、俺が実家に居た時よりも少し、大きくなって見えた。
翌日、俺はやる事が無い事に気が付いた。大学からの課題も終わっている上、七海さん以外の仲が良い面子は、全員実家に帰っている。遊ぶ相手も居なければ、やるべき事も無いのだ。折角奏多も居るのに、これでは勿体無い。如何した物か。
これから何をやるか。俺は奏多と朝食を食べている間、ずっとぞれを考えていた。終いには、奏多本人にやりたい事を聞いた。
「あ~そうだな……兄貴、予算は?」
「最近使っちまって、かなり少ねえ」
「じゃあ本当に困った……」
いや、お前と七海さんが金持ってるだけだから。世の大学生、多分俺と同じ位の筈だから。俺おかしくないから。
特にやる事も無い俺達は、取り敢えずあの喫茶店に行く事にした。マスターと話しているだけで、結構な暇潰しにはなるのだ。やる事も無い時は、コーヒー一杯だけを頼んで、あそこに居座るに限る。
「で、ここに来たと。奏多君も結構凄いねえ。流石は兄弟だ」
「良いでしょ?一応コーヒーは頼むんですし」
「あ、俺角砂糖一個入れてください!」
少し待つと、コーヒーが来た。俺に繊細な味の違いなど分からんから、いつも一番安いのを頼んでいるが、奏多は味の違いが多少分かるらしい。コーヒーを一口飲むと、「あ、美味しいですね」と言った。
「へえ。最近の若者は、亮太くんみたいなのだけだと思ってたよ」
「仕事の関係上、偶に飲む機会があるんです」
おいマスター、今すぐそのにやけ面を止めろ。弟が俺と違って、コーヒーの味が分かるだけじゃねえか。別に俺の舌がバカとかじゃないんだぞ。だからその顔を止めろ。
「そう言えば、マスターは帰省とかしないんですね」
「僕は家の連中と反りが合わなくてね。どうにも上手くいかないんだ。だから、帰省はしないかな」
へえ意外。マスターは何でもできるイメージがあったが、身内付き合いは苦手らしい。
「おお、僕ってそんなイメージだったんだ。なら、マジックはできるから見るかい?」
「それは楽しみ。お願いします」
「じゃ、先ずは小手調べ……」
そんなこんなで、俺達は無事、午前中の時間を潰す事に成功した。やったぜ。
「あ、もうすぐ午後だね。亮太くん、今日ウチのシフトだったよね」
「そうですね。じゃ奏多、俺少し着替えて来るわ」
「兄貴ここのバイトなんすか?」
「そうだよ。亮太くんが戻って来るまで暇だし、適当な話でもしますか」
俺は着替えが早い訳でもないので、この店の制服に着替えるまで、五分程かかる。この制服があまり複雑なつくりではないのは、マスターの手作りだかららしい。あの人本当に何でもできるな。
「お、着替え終わったようだね」
「兄貴中々サマになってるぞ」
「ありがとよ」
まあ、着替えた所で、やる事はあまり変わらない。俺は自分が飲んだコーヒーのカップを片付け、洗い、さっさと先程座っていた席に戻る。
「仕事しないか亮太くん」
「今やる事あります?」
「いや無いけどさあ……」
マスターは少し悩むような顔をして見せた。どうやら、俺に何をやらせるかを考えているらしい。俺は何もせんぞ。断る理由が無い物を出してみろ。出せる物ならな。
「じゃあ亮太くんには、いくつかのマジックをマスターしてもらうよ。客の暇潰しに付き合えるようにしないとね」
「まいりました」
俺は両手を上に挙げ、降伏のポーズを取った。先程まで俺がやっていた事を突かれては、俺は何も言えない。従うしかない。負けた。
それから、俺はマスターに教えてもらいながら、トランプを使ったマジックを学んだ。まあ、最初から上手く行く訳が無い。俺は何回も失敗し、その度、観客役をしていた奏多に笑われた。結構キツイ。
そして、その日一日で覚えられたのは、何と捲られたトランプを当てるというだけの、まあスタンダードな奴一つだけだった。
「まさか、亮太くんがここまで不器用だとは思わなかったよ」
「兄貴って昔っから不器用だよな」
「くっ、不甲斐無い」
俺は昔から、手先が不器用だった。細かい作業が苦手だったので、小中学校のクラスの仲で、俺は力仕事や、使いっ走り担当だった。体を動かすのが苦手だった訳でもないので、さして苦に感じなかったが、それでもこれはコンプレックスだった。
そんな俺がマジックをやろうとした今日だったが、まあ酷い物だった。タネが露呈したり、マジックが上手くいかなかったり、トランプがシャッフル途中で弾けたりなど、兎に角多種多様なミスをした。俺も途中から、「できるようになるまで、後何年掛かるんだろう」とか考えてしまった。
帰り道、俺は奏多に慰められていた。
「そんな落ち込むなよ兄貴。練習すれば、できるようになるさ」
「そうだな……うん。これから毎日少しずつ練習しよう。マスターのあのにやけ面引っぺがしてやる」
奏多は「その意気その意気!」と励ましてくれた。優しい弟を持てた俺はとても幸運なのだろうな。
「うん!今日は銭湯でも行くか!」
「お!やったね!」
そう言って、俺は笑った。笑った顔のまま、俺は銭湯に向かった。
折角奏多が居るのだ。可能な限り、楽しい事をしよう。その内、今日と言う一日を思い出した時、少しでも良い気分になれるように。
今日は良い一日だった。無理矢理にでも、俺はそう考える。
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