平凡な自分から、特別な君へ

暇神

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俺、初めて女友達の家に行く。

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 人間には拠り所が必要である。

 拠り所とは、人間が必要とする、最も重要な物の一つである。家族、友人、恋人、或いは宗教かも知れない。一見して、これらには何の共通点は無いように感じる。
 しかし、何者かの拠り所になっている物に一貫して言える事は、綺麗であるという事だ。家族の絆、友情、恋人と過ごす甘い一時、何かを信仰する事で得られる、気付きや理想。これらは総じて綺麗な物であり、人はこれらを拠り所に生きている。
 人間の自意識を生み出す物は、『思い出』である。思い出を以て自分を確かめるが故に、人間の自意識は、『思い出』に依存する。嫌われた思い出があれば『自分は嫌われ者だ』という自己認識が生じ、他人に好かれた思い出があれば『自分は人気者だ』という自己認識が生じる。
 人は、未来を拠り所にできない。過去の思い出に依存する事も、現在付き合いのある友人を頼る事もできるが、頼りない未来を拠り所にはできない。いくら『明日は良い日になるかも』と考えても、その希望が頼りない願いであればある程、その人間の精神は不安定になってしまう。
 だが、人間の脳はそこまで上手く出来ていない。人間は、悪い思い出は覚えていられても、良い思い出は結構忘れてしまう。過去の経験から、危機を脱する方法を模索する為らしいが、悪い思い出だけ覚えてしまっていては、その人間は追い詰められる。
 ならば、悪い思い出が埋もれる程の、良い思い出を作るべきである。本来、親に叱られるかもみたいな不安を押し退けて、何か行動を起こした方が、その人間にとって良い影響が出る筈なのだ。家出、遊び、小旅行。何でも良い。可能な限り、自分が『楽しそう』と思える方が好ましい。
 結果は大して重要ではない。『親に黙って何かをした』と言う実感が大事なのだ。これによって、その人間は自信を持てる。この経験を若い内にしておく事で、その人間は自分自身を拠り所にできる。そういう人間は強い。
 俺のこの日常も、いつか拠り所になるのだろう。その時、可能な限り強くなれるように、俺は今を楽しもうと思う。
 ならば、俺は笑っていよう。そうしていると、いくらか気分がマシだ。

 お盆の数日間、奏多は俺の家に居た。俺がバイトの時は放って置いてしまったが、基本は一緒に遊んだ。
 そして、楽しい時はすぐに過ぎ去る。お盆も終わり、奏多が実家に帰る日が来た。
 と言う事で、俺は奏多の激励兼お別れ会として、共に外食に行く事にした。
「で、サイゼと」
「不甲斐無い兄貴でごめんよ。好きなの頼んで良いから許してくれ」
 俺達は、昼をサイゼで食べる事にした。ここを選んだ理由は、『そこそこ安くて旨いから』である。千葉への遠出の直後に奏多が来る事になった結果、俺の懐は大分寂しくなった。しかし、それでも兄貴面をしたかった俺は、少ない金を使ってここに来たのだ。
 結果、俺は少なくて安い奴、奏多はそこそこ沢山の品を頼んだ。俺の言葉に甘えてくれたようで嬉しいよ。
 俺達は昼飯を食べながら、少し話した。まあ基本的には、俺が勝手に奏多を心配する内容の話ばかりだった。
「なあ、あの母親は今どうしてる?」
「兄貴が出て、少し荒れてるよ。俺に当たる事もあるけど、前とそんなに変わらないかな。男を家に連れ込む事もあるし、朝帰りなんていつもの事だ」
「そうか」
 変わってないようで安心したよ。これで俺も、帰る気が無い状態を保てそうだ。
 それから、俺達は昼を食べて、駅で奏多を見送る事にした。また暫くの別れを惜しむ気持ちもあったので、俺は泣きそうになってしまった。我慢したが、それでも目頭が熱い事に変わりは無かった。
「じゃあ、またな兄貴」
「元気でな。お前も早くあの家出ろよ」
「ああ。来年の春には出るよ」
 俺が涙声でその言葉を言うと、奏多は改札を通り過ぎた。俺は改札の向こうに進んで行く、奏多の背中を見ている。その背中を見ていると、少し悲しくなった。別れ際だからかも知れない。

 その背中が他の人間に埋もれた辺りで、俺は少し涙を流した。

 俺はいつもの喫茶店に来ていた。奏多が帰った悲しみがあったのも確かだが、一人のアパートは、嫌になる程退屈だった。暇潰しがてら、マスターに手品を習いに来たのだ。
 俺は変わらず不器用だった。奏多が居た時は、少しでも見栄を張ろうとしていたのか、今日よりかはできていた気すらする。奏多が居るだけで、俺は少し強くなれていたという事らしい。
 それでも、マスターと過ごす時間は、少なくとも退屈ではなかった。失敗する度いじられて、少し苛ついたが、それでも別に良かった。
 手品の練習をしていると、不意にマスターが話しかけて来た。
「ねえ。君の実家には何があるの?」
「質問の意図がわかりませんね」
 マスターは「言いたくないなら、そう言ってくれて構わないよ」と言ったが、その後に続けて、マスター自身が、俺の実家に何かがあると考えた理由を話し始めた。
「まず、根拠から話そう。お盆に実家を出るなんて、とんでもない話だ。実家の連中と喧嘩をする事だってあるだろうが、ここがまずおかしい。それに加えて、そこそこ真面目な亮太くんまで、実家へは帰省しないと言っている。これは、何か事情があるんだろう?」
 おいそこそこって何だ。俺は結構真面目だろうが。
 だが、合っている。ここまでの話で、何一つとして間違った事は言っていない。お察しの通り、俺の家には事情がある。まあ、大した事ではないのだが。それが原因で、俺は実家に帰りたくないと考えている。
 黙秘する俺に向かって、マスター更に続けた。
「次に、何があるかの考察に移ろう。正直、実家に帰省したくない理由なんて、親同士の仲が険悪か、親が再婚しているかだと思うんだが、合っているかい?」
「黙秘権を行使します」
 そう答えると、マスターは少し困ったような顔をして、この話を止めた。そうだ。それで良い。俺も、ここには暇潰し兼練習に来ただけなのだ。こういう、プライベートな所に踏み込む話は避けたい。
 それから暫くすると、七海さんが店に入って来た。遊びに行った帰りらしく、両手には紙袋が握られている。
「お、七海ちゃんいらっしゃい」
「お邪魔します。亮太さんは練習ですか?」
「ああ。全く上手くいかねえよ」
「それは君の不器用さのせい……」
「分かってるから黙っててくださいよ」
 正直、七海さんが居ると楽しい。話も楽しいし、退屈しない。何度七海さんを退屈凌ぎに利用した事か。
 七海さんは俺の隣に座り、俺の練習風景を眺めている。見てて楽しい物でもないだろうに。
 俺は、一回成功してはその次失敗してを繰り返し、その度マスターに笑われ、七海さんに励まされた。次第にやる気も無くなってきた俺は、一旦休憩し、少し休んでから、続きをやる事にした。
「は~うまく行かん」
「ドンマイです」
「失敗する度に笑う僕に言われたくないかもだけど、最初に比べると上達した方だよ。成功率も上がってるし、頑張れば後一年で、僕ができる奴はマスターできるかもね」
 おお、少し希望が見えてきた。ずっと失敗してばかりのように思っていたが、外から見ると上達しているらしい。褒めてもらえるのは嬉しいな。
 その後、やる気を出したは良いものの、それだけで手先が器用になる訳ではなく、俺はその後も失敗を続けた。マスターには笑われ、七海さんには励まされる状態が続いたが、俺はそれでも楽しかった。
 日も傾き、そろそろ夜かなといった所で、俺はアパートに帰る事にした。
 一人のアパートは、想像していた通り、静かで寂しくて退屈だった。この数日間、家でも外でも奏多が居て、結構騒がしくて楽しかったから、この状態の部屋が、いつもの数倍退屈に思えた。
 今日も、楽しかった。

 翌日。久しぶりに東京に戻って来た陽太と、少し会う事にした。金欠なので大した事はできないが、それでもまあ楽しい事はできるだろう。
 たった数日振りに会うだけの筈の陽太は、何故か数日振りに会ったように感じた。服も見慣れない物を着ている。
「おっす陽太!何か久しぶりに感じるわ」
「おお亮太!元気してたか?」
「ああ。そっちは?実家どうだった?」
「しっかり居心地良かったよ。やっぱ料理の腕は母さんに敵わねえわ」
 どうやら陽太の母は、けっこう料理が上手いらしい。以前、一度だけ陽太の料理を食った事があったが、そこそこ旨かった。そんな陽太が「敵わない」なんて言う相手なのだし、余程凄い人なのだろう。
 俺はそのまま、陽太の部屋に少しお邪魔する事になった。
「じゃ、何やる?トランプ?」
「そうだな。タイマンでババ抜きでもやろうぜ」
 そして、俺達は暫く遊んだ。ババ抜きから始まり、ジジ抜き、大富豪、神経衰弱など、トランプ一つで、結構な時間暇を潰せるのが分かった一時だった。ルールが多彩すぎる。
 トランプをやっている間、俺達はお盆の間にあった話をした。
「そっちは実家で何やってたの?」
「特段何も。手伝うって言ったんだけど、「一応にも客だから」だって。楽だったけど、少し申し訳無かったよ」
「陽太は律儀だなあ」
「何だよ」
「褒めてんだよ」
 陽太は納得していない感じの顔で頷き、俺はどうだったのかと聞いて来た。
「実はな、弟が来た」
「は?この時期に?ていうかお前弟なんて居たん?」」
「母親に家を追い出されたらしい。喧嘩だと」
 俺は一部誤魔化しながら、弟を東京観光に連れて行った事、マスターと手品の修行を始めた事を、基本正直に話した。陽太は、「お盆に家を追い出すとか、とんでもねえ親だな」と言いながら、俺達の話をしっかり聞いてくれた。聞き上手な友達を持てて、俺は幸せだなあ。
「なあなあ。できるようになった手品見せてくれよ」
「良かろう。とくとご照覧あれ。タネも仕掛けもございません……」
 そんなこんなで、俺はつっかえだらけの手品を披露し、見事陽太に笑われた。まあ、これでも二つだけはできるのだ。簡単な奴らしいが、できないよりかはマシな筈。
「いや~お前結構不器用なんだな」
「くっ。コンプレックスです」
「あら素直」
 こんな感じで、俺達は一頻り遊んで、日も沈んだ辺りで、俺はマンションに帰った。
「あ~明日大学か~」
「いっそ休めば良いだろうよ。お前頭良いんだから」
「亮太よ。その言葉は嬉しいが、正直頭良い奴は俺みたいな成績取らねえんだわ」
 おっと悪い事を言ったかな?しかし、陽太は結構細かい心遣いができる奴だ。頭悪い奴は、大抵そんな事ができない。それができる陽太は、そこそこ頭が良いと思うんだがなあ。
「じゃ、また明日な。いっそなんて言っておいてアレだが、大学来いよ」
「わかってるわかってる。じゃあな」
 帰り道、俺は自販機の下に百円玉を見つけた。少しラッキーだと思うが、正直持って帰るのも気が引けるので、ここは放っておこう。たった百円だけの筈なのに、普通に稼いだ百円を失うより、ここで見つけた百円を置いておくほうが名残惜しいのは何故だろう。
 さあて。明日は何があるのかな。

「えっ!一緒に出掛けられないんですか!?」
「スマン金欠でな」
 七海さんが驚愕の表情を浮かべる。それは当然である。俺は今まで一度も、七海さんの誘いを断った事が無かった。だから、七海さんは驚いているのだろう。
 七海さんと千葉に行き、奏多と色々な所に遊びに行ったあの数日から、早一か月が経とうとしていた。辺りも少し涼しくなり、秋とまでは行かないが、残暑程度には落ち着いた。
 しかし、俺はあの数日で使った金を、未だ取り返せずにいる。毎日もやし生活だ。模索してみると、案外旨い食べ方も見つけられる。米と合う食べ方を見つけた時は沸いた。
「まさか断られるとは思ってもみませんでしたよ」
「元から余裕がある方でもなかったからな。貯金も、一月前ので殆ど消し飛んだ。今は金を使う遊びができる程、俺は金が無いんだ。奢ってもらったりするのも悪いし、今回は断らせてくれ」
 七海さんは少し悩むように顎に手を添えて、少し黙り込んだ。二十秒位すると、一つ妙案が浮かんだようで、俺にそのプランを提案してきた。
「じゃあ、お金を使わない遊びでもしましょう。今度、私が住んでるマンションに来てください。そこで適当な事をして遊びましょう」
「おお。それなら行けるわ。だが、七海さん家で遊べるような物あるんですか?」
「いくつかのボードゲームとUNOが」
 ほほう。久しぶりにボードゲームができるかも知れない。ならば、行く他選択肢は無いだろう。俺はその提案に頷き、今度の休日、俺が七海さんのマンションに行く事が確定した。
 そして少し話を飛ばして、土曜日。俺は言われた通りの住所に来ていた。
「いや、でかくね?」
 想像していたよりも、十階位高い。いや結構良い所に住んでいるのだろうなとは考えてはいたが、まさかここまでデカいとは思わなかったのだ。うん。驚いた。
「あ!亮太さ~ん!こっちです!」
「おお。こんなでけえ所に住んでたんかアンタ」
「へへへ。羨ましいでしょう?」
 別に羨ましくなんかねーし。俺がやっすいアパートに住んでるのに、七海さんがこんなでかいマンションに住んでる事に劣等感なんて抱いてねーし。
 まあ、答えに詰まった一瞬が、七海さんにとっての答えには足りたらしい。七海さんは少し誇らしげに笑って、「ささ。私の部屋は十階です」と言って、少ない荷物を持った俺の手を引いた。
 エレベーターで十階まで上がると、七海さんは慣れた足取りで、自身の部屋に向かった。
「さあ。ここが私の部屋です」
「わざわざありがとうございます。ではお邪魔します」
 俺は意味もなく敬語を使ってから、促されるまま、七海さんの部屋に入った。中は七海さんの趣味で埋め尽くされており、壁にはポスターや本棚があり、その中には七海さんのお気に入りの漫画達が鎮座している。
「七海さんって結構なオタク気質だったんだな」
「『没頭できる趣味がある』と胸を張って言えるのは、素晴らしい事でしょう?」
「全くの同感だ」
 俺は小さい机の前に座り、七海さんは俺の向かいに座った。
「じゃ、何をやります?」
「オセロはあるかな?」
「分かりました!」
 俺がルールを覚えている、数少ないボードゲームの一つであるオセロ。定石も何も分からない俺だが、それでも少し面白かった覚えがある。ボードゲームをやるなら、最初にこれをやりたいのだ。
 七海さんは部屋のタンスから、板が二つ折りになっているタイプのオセロを取り出した。やる相手が居なかったのか、取り出されたオセロには薄く埃が掛かっている。七海さんはそれを払い、中からオセロの石が入った、二つの箱を取り出してから、板を開いた。
「ルール分かります?」
「舐めてるなら叩くぞ」
 オセロでよく言われている事は、角を取った方が強いという事だ。角に置かれた石はルール上、ひっくり返す事はできない。取られない石が一つあるだけで、まだ少し希望があるらしい。ゲームにはそういうのが必要だと思う。
 それから、俺達は雑談しながらオセロをやった。
「あ!角取られました!」「まずいこっちの方が少ない」「そう言えば、亮太さんってアニメ見ないんですか?」「見よう見ようと思ってずっと見てねえな」「角二つ目取った!」「どうしようこのままでは負けてしまいます」
 久しぶりに誰かとやるオセロは、結構楽しかった。ここ最近はトランプしかしていなかったし、何か新鮮に感じた。
 全てのマスが埋まり、結果が出た。俺の方が二個多く取っていたので、僅差で俺の勝ちとなった。角を二つ取れていたので、そこを上手く使えた気がする。
「あ~負けちゃいました!もう一回お願いします!」
「良いだろうトコトン付き合ってやる」
 それからも、ゲームやルールを変えたりして、ボードゲームを楽しんだ。昼は近所のコンビニで済ませ、すぐにゲームに戻った。
 そろそろゲームもやり尽くしたという辺りで、七海さんはアニメ鑑賞をやらないかと誘ってきた。
「やっぱり創作物初心者には、ベタな名作ですよね」
「俺の場合はアニメだけだがな。まあ同感だ。で、何を見る?」
「泣ける名作と言えば、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』ですよ」
 そうして七海さんがチョイスしたアニメは、実際名作だった。大して詳しい訳でもない俺でも分かる程、作画が良かった。話も良いので、時間の関係で途中までしか見れなかったのが悔やまれる。
 帰り際、俺は七海さんに、また七海さんの家に来る事があったら、最後まで見たいと言った。七海さんはアニメについて語り合える人間ができた事が嬉しかったのか、笑いながら「良いよ」と答えた。
 俺は自転車に跨り、自分が住んでいる、安いアパートに帰った。正直、あんな広くて綺麗な所に居ると、何故だか落ち着かなくなってしまう。いつも居るような、こういう安い場所の方が慣れているのだろう。
 結構、いやかなり楽しかった。陽太達と遊んだ時とは、また違った楽しみがあった。
 今日は良い日だった。友人とボードゲームをして、アニメも見れた。間違い無く、楽しかった。

 月曜日。俺はバイトをしていた。近所のコンビニで、大して高くもない賃金で働いている。
 別に金が欲しいとかそういう理由じゃない。いや、金が要らないという話ではないが、金よりも、一回やってみたいという気持ちの方が強いのだ。あの喫茶店でのバイトも掛け持ちしておいて何を言うかと思うだろうが、一度接客業をやってみたいと言う気持ちはあるのだ。バイトと言えばコンビニ。謎のイメージもあって、俺はここでバイトをしている。
 都心に限らず、コンビニはよく使われる。飲食店のような賑わいを見せる事は無いが、余程の深夜でもない限り、客が居ないなんて事は少ない。二十四時間三百六十五日無休で動き続けるこの系統の店は、どこでも人々に必要とされる。何かが急に必要になった時、小腹が空いた時など、コンビニが近くにあったと言うだけで解決できる事が、この世にはありふれていると考えている。
 しかし、必要とされるから忙しいとも限らない。都心はコンビニも多いので、その分人が分散する。人口密度は高いが、その分店舗も多いのだ。お陰で、俺は多くはない仕事で賃金を貰える。楽と言う訳ではないが、あまり苦でもない。
「お疲れ亮太クン」
「伸二さんもお疲れ様です。上がりですか?」
「ああ。君はもう少しだろう?頑張ってな」
「ありがとうございます」
 伸二さんは面倒見が良いので、バイトの人達に好かれている。人脈は広く人望も厚い上、結構フランクな性格をしているので、何かあった時はよく頼っている。
 今日も、大した仕事が無いままバイトは終わるのだろうなと思っていたが、ここでハプニングが起こった。
「あれ?彼女、前言ってた七海さんじゃない?」
「え?あ、本当ですね。何で来たんだろう」
 七海さんの家はこの辺りではない。なので、わざわざここに来た理由がある筈だが、それが分からない。手荷物も無いので、どこかからの帰りと言う事も無いし、この店舗だけでやってるイベントも無い。つまり、七海さんがここに来る理由なんて無い筈だが、実際来ているので分からない。
「まあ、特に理由なんて要らないんじゃない?カレシに会いに行くのになんてさ」
「は!?」
 慌てて俺は口を押さえる。声をデカくし過ぎた。ご年配のマダムがぎょっとしている。
 俺は意識して声を小さくして、伸二さんに怒った。
「俺達そういう関係じゃないですよ?変な事言わないでください」
「いやいや。泊りがけで二人っきりの旅行したんでしょ?付き合ってない人とそんな事する。陽太くん達でさえ添い寝がまだなのに、それで付き合ってないは無理があるよ」
 マジか。アイツらあんなラブラブな癖して、まだそこまで行ってなかったんか。正直引くわ。
 しかし、それでも俺達は付き合っていない。アレも単なる『お礼』に過ぎないのだし、そういう意味が込められた物ではないのだ。
「それに彼女、建物に入る前に、君の方見てたよ。もしそういう関係じゃなかったとしても、脈アリだと、俺は踏んでるよ」
「いやいやいや無いですって。七海さんに限ってそんな事、無いと思いますよ」
 俺は否定していたが、伸二さんはその考えを曲げる事も無いまま、店を出て行ってしまった。何で俺の周りには、こうも頭がピンク色の人が多いのだろうか。そんなの一人で十分だ。
 しかし、『嫌なのか』と聞かれたら、反応に困ってしまう。七海さんとは友人であり、共に居て楽しい人間であると認識しているし、七海さんに抱いている感情は、恋愛とかではなく、友情でしかない。しかし、共に居て楽しい人間と付き合って、上手く行かないとも思えない。半面、そんな事を言ってしまえば、今のただ心地良いだけの時間が無くなってしまいそうで、俺はそれが恐ろしい。正直、どう答えるべきなのか分からない。
 いや、こんな事を考えるのはやめにしよう。俺と七海さんは友人でしかない。今はそれだけで良い。
「あの、大丈夫ですか?」
「あっ、はい。お会計ですね」
 そんな事を考えていると、先程のぎょっとしていたマダムがレジに来ていた。考え事をしていたので、気付かなかったようだ。俺はレジを打ち、合計金額を出してから、代金を貰い、お釣りとレシートを渡す。
「ありがとうございました」
「ありがとうねえ」
 その女性はペコリと頭を下げてから、店の外へゆっくり歩いて行った。レジを去る直前に、「ありがとう」と感謝の言葉を言われたのは、結構嬉しい事だった。
 また少しすると、七海さんがレジに来た。軽食らしき物を買って行くつもりのようだ。
「亮太さん、先程の人と何を話してたんですか」
「ニシローランドゴリラの学名が『ゴリラ=ゴリラ=ゴリラ』なのが面白いっていう話ですよ。急に下ネタ入れて来たので、驚いてデカい声が出たんです」
「ふ~ん……亮太さんが敬語使うのって違和感ありますね」
「今はバイトとお客様ですからね」
 俺は何で伸二さんとした話を誤魔化したのだろう。『事実と異なる話をされた。困った人だ』で済む事を、何故嘘を吐いてまで誤魔化そうとしたのだろう。自分でも意味が分からない。咄嗟に口から出たのが、嘘だった。
 会計を終えると、七海さんは店を出た。そう言えば、何故ここまで来たのかを聞き忘れていた。いや、聞こうとしなかった。今日は何だか様子がおかしい。自分の行動が自分で説明できない。一体どうしたと言うのだろう。
 俺はずっとその事を考えた。レジを打っている時も、商品の補充をした時も、ずっと考えていた。だが、答えは見つからなかった。
 ただ、分かった事が一つあった。

 七海さんと初めて会った時には無かった、『何か』が有った。
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