山狗の血 堕ちた神と地を駆けし獣

月芝

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その三十二 正孝の槍

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 激しく咳き込み息を吹き返した伊瑠がまぶたを開けたとき、すぐ近くに正孝の顔があった。
 どうやら自分が彼に抱きすくめられているらしいと気づき赤面、あわてて押しのけ離れようとするも、「静かにっ」と強くたしなめられて黙らされてしまう。
 正孝の目は海面からのぞいている背びれの行方を追っていた。
 イッカクである。顔に刺さった槍を抜き、二人から十五丈ほども離れたところを右回りにて周遊している。
 これとちょうど対角線上に位置していたのが正孝らが乗ってきた小船。
 船縁に立つ忠吾が火筒を構え、コハクが舳先にて毛を逆立て低く唸っている。
 三者の位置関係は、正孝と伊瑠をちょうど真ん中にした円となっており、現在は二人を挟んで小船とイッカクがぐるりぐるりと回ってはにらみ合っている状況。

 先に伊瑠の放った火筒を喰らったイッカク。海の暴君は我が身でもってその威力を学習した。だからこそ慎重に距離をとり様子をうかがっている。
 一方でイッカクを牽制している忠吾もうかつに引き金はひけない。
 両者を隔てる距離は三十丈にもなり、かつ揺れる小船の上。中型船や囮船よりもずっと波の影響を受けるがゆえに。またイッカクが背びれ以外を完全に海中に隠している。火筒が放たれたら、すぐさま潜り逃げるつもりなのであろう。

 イッカクが輪を狭めて正孝らに近づく素振りをみせれば、忠吾を乗せた小船も同じだけ距離を詰める。
 意識を取り戻した伊瑠を連れて正孝らが小船に乗り込もうとするも、彼らが小船に近づいた分だけイッカクがそろりと這い寄り、隙あらばと狙う。
 小船も足を止めたらいっきに倒されかねないので、どうしても一定以下には速度を落とせない。

 硬直状態……。
 だがこの三者の中で断然有利なのはイッカクである。
 なにせ奴は海の暴君にして、ここは彼の者がもっとも力を発揮する場所。
 もっとも不利なのが正孝たち。目覚めたとはいえ伊瑠は彼の手を借りねばろくに浮かんでもいられないほどに疲労している。波間にて立ち泳ぎを続け顔を出しているので、正孝の体力もずんずんと奪われていくばかり。さらにはいま彼の手には武器がない。
 時間の経過とともに、勝敗の天秤はよりイッカクへと傾いていく。
 おそらくはそのことがイッカクにもわかっているのであろう。だからこそじっくりと獲物たちが疲れ動けなくなるのを待っている。

 では、この状態を忠吾らは指をくわえて見ていたのか?
 いいや、そんなことはなかった。
 いつの間にか小船より山狗の子の姿が消えていた。
 忠吾の指示によりイッカクからは死角となる反対側から、静かに海へと入ったコハク。その口には槍を結んだ綱をくわえていた。
 幼少期より水練を積んできたコハク、ときおり息継ぎのために海面に顔を出しては、すぐさまちゃっぽんと沈んで向かっていたのは、正孝たちのところである。

  ◇

 いきなりぬぼっと海中より頭を出した山狗の子。
 正孝はギョッとし、伊瑠はあやうく悲鳴をあげるところをどうにかこらえた。

「これは投擲用に積み込んだのではなくて、それがしの槍。ありがたい。これさえあれば百人力だ」

 忠吾がコハクに持たせてくれた緒野家伝来の名槍を受け取った正孝。これと引き替えに今度は伊瑠の身に綱をくくりつける。

「ちょ、ちょっと、あんた、いったい何を……」
「いいからおとなしくしていろ。これで船にいる連中に引っ張ってもらえれば、おまえは助かる」
「だったらあんたも一緒に」
「それはダメだ。そんなことをすればすぐにイッカクに追いつかれて、二人まとめて腹の中だ。だからそれがしがここで奴を食い止める」
「無茶だよ。あいつの暴れっぷりは見ただろう!」
「あぁ、だがそれがしは武官だからな。主君に忠義を尽くし、国の安寧に勤め、民を守るのが仕事だ。だからそれを脅かす敵を前にして、背を向けることはけっして許されない」
「でも、でも」
「なぁに、それがしとてむざむざとやられるつもりは毛頭ない。なにせ伊邪王より忠吾殿の補佐役を仰せつかっているからな。こんなところで殺されてたまるかよ」

 言葉とは裏腹に悲壮な決意を浮かべている若き武官。その顔を見た伊瑠が懸命に翻意させようと試みるも無駄であった。

「じゃあな、伊瑠」

 別れを口にし正孝が槍を持つ手を高らかにあげ合図を送る。
 とたんに綱がぐんと引っ張られて、伊瑠の身がずんずん小船の方へと向かい滑り出した。
 異変に気がついたイッカクもすぐさまさせじと猛然と迫ってくる。
 その前に槍を手にした正孝が立ちふさがる。
 若き武官のかたわらには、器用に四肢をばたつかせては浮かんでいるコハクの姿もあった。
 山狗は強靭な四肢にて大地を駆ける獣。いかに幼少期より水練を積んでいるとて、ここではコハクの持ち味は活かせない。
 それでも共に戦うことを選んだ山狗の子に、「ご助力、かたじけない」と正孝は感謝を述べるなり、イッカクへと槍の穂先を向けた。


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