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其の七十二 とや
しおりを挟む米粉の値は多少の上げ下げをするも、いまだ高止まり。
ついに江戸市中から団子が姿を消した。
ただし、まったく手に入らないわけじゃない。
あるところにはある。
それは太い客を持つ大店の菓子屋。羊羹数棹でたちまち小判が溶けるような商いゆえに、米粉が高騰しようとて関係なし。
とはいえそんな大店の菓子、庶民においそれと手が出せるわけもなく、さりとて怖い幽霊星。
そこで自分でごりごり石臼を回しては、自家製の米粉をこさえて団子を作る者もちらほら出始めた矢先のこと。
幽霊星について新たなよみうりが出て、世間が騒然となった。
なんと幽霊星を見た身重の女が死んだという。
◇
死んだ女の名は、とや。享年十七。
九つもの町を預かる町名主である連源右衛門(むらじげんえもん)のひとり娘にて、たいそうな器量よし。両親にとっては手中の珠。それはもう可愛がって育てていた、評判の箱入り小町。
おかげで縁談話にはこと欠かず。大店から旗本の家まで選び放題。
本来ならば婿をとって自分のあとを任せたいところだが、娘の幸せをおもえばいっそ外へ嫁に出すのもいいのかもしれない。家の方は親戚筋から養子でも迎えればすむことだし。
だからじっくり吟味して、ゆくゆくはいいところに縁づければ……。
なんぞと源右衛門も考えていたのだが、そんなある日のこと。
娘の腹がぷくりと膨らんだもので驚いたのなんのって! 気づいたときにはもはや手遅れ。
当然ながら源右衛門は激怒した。
「よくも大切なうちの娘をたぶらかしてくれたな。その腹の子の父親はいったいどこのどいつだ? きっとだたじゃあおかんぞっ!」
けれどもその肝心の父親が誰だかわからない。
とやは口をつぐんだまま。いくら厳しく問い質そうともうつむいたまま、固く拳を握りしめては、けっして白状しようとはしない。
町内で起きたよろず揉め事の采配を行う町名主。
その手練手管をもってしても愛娘の口を割ることはできなかった。
人の口に戸は立てられぬ。
評判の箱入り小町が孕んだという話は、あっというまに周辺に広がった。
とたんに潮が引くようにして縁談話も失せた。
そしてとやが頑なに沈黙を貫いていることから、様々な憶測を呼ぶことになる。
「父御はきっとどこぞの若さまだよ。上野か浅草にでも出かけたおりに見初められて」
「身分違いの恋か、そいつはなんとも悩ましいねえ」
「いやいやいや、それならばそれでやりようはいくらでもある。町娘とていったんどこぞのお武家さまの養子に入って、そこから嫁げばいいだけのこと」
「あぁ、源右衛門さんならば伝手のひとつやふたつあるだろう。その気になれば体裁なんぞはどうとでもなる」
「相手の男のことを言わないってところが、どうにも気になるよ」
「もしや、妻帯者とか!」
「あるいは性質の悪い筋者かもしれないよ。初心な娘ほど、ああいった手合いにころりと騙されちゃうんだから」
「たしかに……。でもよぉ、そんなのとどこで知り合うってんだい? ちょいと隣三軒に出かけるのにも、源右衛門さんは必ず人をつけるほどの箱入りっぷりだったのに」
「……稽古の途中とか、あとは湯屋通いとか」
「それだって同じだろうさ。つねに誰かがそばにいるし、なによりあの子が外で男と逢引なんてしていたら、すぐに噂になりそうなもんだけどねえ」
「ということは、ひょっとして相手は家の中のもんか?」
「うーん、でもあそこの家にそんな野郎いたっけかなぁ」
家では両親から責められ、外では周囲から遠慮のない好奇の目を向けられる。聞こえてくるのはいやな話ばかり。
まるで針の筵に座らされているようなもの。
それでもとやは気丈にも、ひとりじっと耐え忍ぶ。
まるで誰かが迎えに来てくれるのを待っているかのように。
けれども若い娘のことである。ましてやお腹にやや子を抱えているとあっては、とてもとても……。
そしてついに運命の日を迎える。
夕暮れ間近、縁側にて柱に寄りかかりながら、とやは茜色の空をぼんやりと眺めていた。
世話役の女中がほんの少し目を離した隙に、その姿が消えてしまう。
慌てて女中が探すと裏木戸がわずかに開いている。
どうやらとやは裸足で飛び出してしまったらしい。
源右衛門はその報せを受けて、すぐに家の者らに総出で探させるも、見つけたときにはすでに変わり果てた姿になっていた。
とやはみずからお堀に飛び込んだという。
気づいた小舟の船頭や、近くにいた若い衆が飛び込み引きあげるも、息を吹き返すことはなかった。
これだけであれば子を孕んだことを苦にしての身投げですむ話。
だがとやが飛び込む前に、「あぁ、幽霊星が、幽霊星が視える!」と狂ったように叫びながら駆けている姿を多数の者らが目撃していたこともあり、「すわ、幽霊星に祟られたか!」と大騒ぎになった。
◇
ことの真偽はともかく。
ついに死者が出た。
そのせいでどこかあやふやな蜃気楼のような存在であった幽霊星が、より輪郭を確かなものとする。
せっかく下火になりかけていた噂も再燃どころか、以前よりも勢いよくぼうぼうと燃え盛る。
幽霊星を見れば頓死する。これから逃れるには団子を四十七、月に捧げてからその夜のうちに食べなければならない。
なのに肝心の団子がどこにもない。
不安、恐れ、焦り……。いろんな負の感情がないまぜとなり、厭な渦を巻く。
江戸の人心が良からぬ方へと流れている。
そのことを肌でひしひしと感じながら、藤士郎は「まずいね。このままだと父上の危惧が本当になってしまうよ」とつぶやき己の発した言葉にぞくり、怖気に襲われる。
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