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其の百四十七 あの世の九坂志乃
しおりを挟む人の一生なんてじつに儚いものです。
明日どころか一寸先のこともわかりません。朝露のごとしです。
ええ、ええ、それはもうあっさり、簡単に、ぽっくり逝きます。
かくいう私こと九坂志乃もそうでした。
ちなみに死因は季節外れの風邪をこじらせて、でした。享年についてはご容赦下さい。
いざ、おさらば! 突然の旅立ち。
無念とまでは思いませんが、まったく心残りがなかったかといえば嘘になります。
家のこと、残されたひとり息子のこと、孫どころか嫁の顔も見れなかったこと、丹精込めて育ててきた裏庭の畑や糠床のこと、こつこつ貯めていた箪笥のへそくりなどなど。
とても気になります。
でも覆水盆に返らずと申しますし、逝ってしまったものはしようがない。
だから私はとっとと地獄に行くことにしました。
あら? でも勘違いしないでください。べつに生前にやましいことをしていたとかではありません。これにはちゃんとした理由があるのです。
◇
夫の名前は九坂平蔵(くさかへいぞう)といいます。
私より先立つこと三月ほど。これまた流行り病にてぽっくり。
背は高い方でしたがそれ以外はとくに、人柄だけが取り柄……こほんこほん、じゃなくて気立てのいい男でした。剣の腕は悪くなかったと思います。けれども世渡りがあまり上手ではありませんでした。せっかくいい品を持っていても、それを売り捌く才覚がなければ商売にはなりません。自分を売り込むのがたいそう下手な人でした。そのくせ貧乏くじを「えいや」と引き当てる才能には恵まれておりまして。
結局、生きているうちに仕官は叶わず。抱えている道場はおんぼろのまま。いろんな手仕事をこなして糊口をしのぐ日々。
そんな平蔵がなんの因果か、閻魔さまに気に入られたとかで、あの世で官吏につくことになりました。生涯無役にてしがない貧乏道場の主であったことを考えれば、これは異例の出世でしょう。とてもめでたいことです。
「まぁ、そんなわけだからこちらのことは心配せずともよい。おまえたちはいく久しく、健やかに過ごせよ」
わざわざ夢枕に立ち、家族そろっての席を設けた律義者の夫。柄にもなくしゃちほこばっており、慣れぬ官衣姿は孫にも衣装といったところでしょうか。
就任の報告を受けて、息子の藤士郎とわたしはそろって手をつき「「祝着至極に存じます」」と夫の立身を喜びましたとも。
この時は、よもや数か月後には自分も夫の後を追うことになろうとは、夢にも思いませんでしたけれどもね。
死後、夫の赴任先へと向かった私。
とはいえそこは地獄なのですから、噂に聞く血の池やら針山やらにて阿鼻叫喚、きっとおどろおどろしい場所であろうと、内心ではびくびくしていたのですけれども、いざ行ってみたらひょうし抜けでした。
なんというか、ごくごく普通の街でした。
それもそのはず。ここは夫の同僚たち、地獄の役所に勤めている者らの暮らす街であったからです。もっとも金棒を持った大きな鬼さんが、そこいらをのしのし練り歩いていましたけど……。
あの世の街で私の第二の人生が始まりました。
が、すぐに飽きました。
夫婦再会の喜び、ひさしぶりに水入らず。新婚時代を思いだしてしっぽりと。なんぞと甘い生活を夢見ていたのですが、無理でした。
とにかく夫の身が忙しい。
朝も早くに出仕しては夜の遅くまで帰ってこない。帰ってきたと思ったら、そのまま寝床に倒れ伏しての高いびき。朝になったらむくりと起きて、ふらふらと役所に向かう。ひたすらこれの繰り返し。
夫によれば「毎日毎日、山のように悪人があっちから送られてくるんだよ。現世は悪鬼羅刹の巣窟か? ちっとも減らない書類の山、片付けても片付けてもきりがない!」そうです。
一方で家にいるわたしは、特にすることがありません。
なぜなら、上げ膳据え膳の暮らしだからです。
知りませんでした。うちの夫、じつはけっこうな石高で雇われており、屋敷は大きく立派にて、専属の女中やら小間使いまで揃っており、身のまわりのことはすべてやってくれます。
でも、染み付いた貧乏暮らしの身の上としては、これはどうにも居心地が悪くて、落ち着かない。
そこで「何か手伝いましょうか」と申し出るも、「いえいえ、奥方さまにそのようなことはさせられません」とやんわり断わられ、お茶の一杯も自由に淹れられやしない。
満ち足りた贅沢な暮らしゆえに、かえって安穏とできない。
我ながら損な性分です。
あんまりにも退屈を持て余したわたしは、散歩がてら近くの河原に行っては、そこかしこに積み上げられている石の山に向かって、拾った小石を「えいっ、えいっ」と投げつけては鬱憤を晴らす。
するとある日のことでした。
たまさかその場に通りがかったのが、越後のちりめん問屋のご隠居みたいな格好をした長い白髭のお爺さん。
お爺さんはわたしに言いました。
「これこれ、そう闇雲に投げては肘を痛めるぞ。これ、このように腕をしならせ、放つ直前に手首をくいっと利かせるが良い」
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