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其の二百四十五 大橋の欄干
しおりを挟むそれは九坂藤士郎が書物問屋の銀花堂から頼まれていた、写本仕事を納品した帰りのことであった。
じつは身分は明かせぬが、どこぞのご贔屓筋が藤士郎の筆遣いをえらく気に入ったとかで、ちょくちょく指名依頼が入るようになっていたのである。
相手はよほどの上客らしく、銀花堂の若だんなの林蔵さんから、「藤士郎さんのおかげでうちも潤っておりまして。またお願いしますね」と言われるほど。
源氏物語に始まり、竹取物語、枕草子、更級日記、万葉集などの写本仕事からして、おそらく藤士郎の手筆を気に入ってくれたのは若い女人とおもわれる。
「いやはや、ありがたい。おかげで失くした鍋の変わりを買えたけど、いったいどこのどなたなのかしらん?」
歩きながら藤士郎が小首を傾げた。
そうなのである!
竜胆と不動、七星と呼ばれる賭博師らの代打ち勝負の夜。
勝守の分社に潜入するのに邪魔になるからと隠しておいた鍋、そのことを藤士郎が思い出したのは一両日が過ぎてから。
「しまった! いろいろあってすっかり忘れてた」
家を飛び出し、急いで隠し場所に向かってみれば、すでに鍋は跡形もなく消え失せていた。誰かに持っていかれてしまったのである。中途半端な大きさゆえに日常使いには適さない品ゆえに、いまごろはくず屋にでも持ち込まれて、とっくに鋳潰されてしまっていることであろう。
破落戸どもに追いかけ回されるわ、せっかく蚤の市で手に入れた鍋は失くすわ、大一番の立会人をやらされるわ、町方の手入れとの乱闘に巻き込まれるわ、それがばれて近藤左馬之助からくどくどと説教されるわ……と、本当に散々であった。
「ろくなことがない。やはり博徒や賭け事なんぞにかかわるもんじゃないね」
すっかり懲りた藤士郎が「くわばら、くわばら」とつぶやきながら大橋を渡ろうとしていたときのことである。
大橋は上流の両国橋、下流の永代橋に挟まれた橋だ。
深川と日本橋方面を繋ぐ橋ゆえに、人の往来は盛んである。
そんな橋の中ほどまで進んだところで藤士郎は「おや?」
右前方の欄干を半円に囲むようにして黒山の人だかり。集まる野次馬たちを町方の者らが、「下がれ」と押しとどめている。
場所が場所なので、またぞろ身投げでもあったのかもしれない。
藤士郎は眉をひそめつつ、さっさと通り過ぎようとした。
けれども、横目にちらり。現場を目にしてぎょっとなった。
江戸の生命線ともいえる隅田川、そこをまたいでいるだけあって、大橋は立派な橋だ。ゆえに頑強に組まれている。万が一があってはならぬと、使われている木材ひとつとっても厳選されたもの。
だというのにである。
その太い欄干がごっそり失せていた。
何か大きなものが欄干にぶつかって、突き破って外に飛び出したかのようなありさま。
尋常ではない破壊の痕跡に、藤士郎はおもわず足を止める。
するとそんな藤士郎へ声をかけたのが、現場に駆けつけていた役人のうちのひとり。
定廻り同心をしている近藤左馬之助であった。
「ったく、おまえはどこにいても、すぐにわかるなぁ」
長身痩躯のひょろ長、柳のような容姿の友人に左馬之助が軽口を叩く。
「ふん、よけいなお世話だよ。にしても、これはいったいどうしたことだい? 欄干がひしゃげてしまっているじゃないか」
「あー、こいつか……。じつはよくわからんのだ」
「?」
「いやな、じつは……」
◇
昨晩のことである。
その夜は妙に生ぬるい風が吹き、客足もさっぱり。
だから大橋のたもとで商売をしていた夜鳴き蕎麦の屋台も、早々に店仕舞いをしようとしていたところに、突如として聞こえてきたのが激しく争う声である。
それもひとりやふたりじゃない。少なく見積もっても五人以上はいたであろう。
どたどたと足音を立てながら大橋を渡ってくるではないか。
「げっ、浪人同士の喧嘩か? 巻き込まれたら面倒だ。とっとと逃げなきゃ」
夜鳴き蕎麦の主人は片付けもそこそこに、すぐに屋台を引きあげようとする。
その矢先であった。
「ばきっ!」と派手な破砕音が響き、続いて「どぼん!」ときたもんだ。
これに主人は固まった。
誰かが橋から落ちたらしい。
えらいこっちゃと、主人が慌てたのは言うまでもない。
だが、その直後に主人はきょとんとなる。
なぜなら、あれほど聞こえていた喧騒がはたと消え、橋の上には誰の姿もなく、すっかり静まり返っていたからである。
だというのに橋の上には土のついた草履による足跡がいくつもあって、欄干はたしかに壊されているではないか。
まるで狐につままれたような状況に、夜鳴き蕎麦の主人はしばし呆然と立ち尽くしたという。
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