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其の三百二十五 形稽古
しおりを挟む門下生が絶えてひさしい伯天流の道場にて――。
いつも通り、真剣の小太刀を手に藤士郎は黙々と形稽古に励んでいる。
つねに正確な所作を意識し、頭の中の己と実際の動作にわずかのずれも生じぬように気を配る。呼吸と鼓動を整えつつ、体の部位の連動に注意を払う。闇雲に数だけをこなすのではない。一挙手一投足、歩幅や重心の移動をきちんと把握し、技の上辺だけをなぞるのではなくて、込められた趣旨への理解をより深める。
繰り返し繰り返し、血や肉、骨、体の隅々にまで武を染み込ませるように、丹念に丁寧に。
真剣ゆえに気が抜けない。いやが上にも高まる集中力が、やがて剣身一体の境地へと至らせる。
小太刀を振るうほどに身が上気し、閃く刃に宿る剣気が鋭さを増し、研ぎ澄まされていく。
ぴぃんと道場の空気が張り詰める。
静かな気焔が熱を帯び、藤士郎を中心にしてさざ波となっては周囲に伝播していく。
昨今の剣術道場では形(かた)の稽古はおざなりにして、防具と竹刀による打ち合いに重きを置いているところが多い。
その方が派手で見映えもよく、かつ己の成長が実感しやすい。目の前に倒すべき者、競う相手がいるがゆえに稽古にも自然と熱が入る。防具があるから遠慮はいらない。思い切り打ち込める。ぱしんと攻撃が決まれば、小気味よい音がするのもたいそう気分がいい。
事実、この鍛錬方法でもある程度までは強くなれる。
が、それはあくまで道場という整えられた枠組みの中での話である。外での実戦は別物だ。
しかしそれは形稽古でも同じなのでは?
という疑問は当然ながらも、これは気構え次第と行う内容の質によるとしかいいようがない。
そもそも形とは何ぞや。
形とは偉大なる先人たちの創意工夫、知恵の結晶である。
これを後世に伝えるために文書や絵にしたものが奥義の書や秘伝の巻物、実のある動きとして残したのが形である。
かつては無闇やたらと打ち合うような稽古はさせず。ひたすら形稽古ばかりを積ませていた。
余計なことは一切させない。
ひたすら形稽古をすることで、いらぬ肉を削ぎ落し、必要な部分のみを鍛え、流派の技を忠実に再現できることだけに特化した身体をじっくりと練り上げる。
こうして十分に育ってから、ようやく打ち稽古へと移っていたものであった。
だが、この方法では後継者が満足に育つまでに、とても長い歳月がかかる。
それこそ師がつきっきりにて、教える側も教わる側も双方ともに根気がいる。育てられる弟子の数もごく限られる。とてもではないが一度に大勢を指南できない。
ゆえに多くの弟子をとってはなんぼの道場商いにはちとむかない。
同じことの繰り返しは地味にて退屈、見映えもぱっとしないから肝心の弟子も集まらず。
頑なに時流に逆らったがゆえの現状、伯天流道場の寂れっぷりはなるべくしてなったようなものであった。
◇
身につけた伯天流の形をひとしきりこなし終えた頃には、すっかり汗だくとなっていた。
愛刀の小太刀・烏丸を鞘へと戻す。
とたんに道場に充ちていた緊張感が霧散する。
「ふぅ」
大きく息を吐き、藤士郎が体内にこもった熱を外へと逃がしていると「むぅ」と唸り声が聞こえてきた。
発したのは道場の隅にて鎮座し、じっと藤士郎の稽古姿を見学していた大槻兼山である。
大槻兼山は齢六十を超える老骨ながらも、加賀藩内において並ぶ者なしと云われている槍の名手。忠義一徹にて、殿からは「武仙候」との愛称を与えられるほどに信任厚き人物だ。
かつては江戸留守居役と末子の春姫の守り役を兼任していたが、現在は留守居役の立場を退き守り役のみとなっている。
藤士郎とは猫又騒動のおりに、ゆえあって敵味方に分かれて戦った間柄ながらも、後に共闘し、騒動後には和解している。
御仁の槍の冴えはとにかく凄まじく、勝つには勝ったが辛勝にて、狐侍もずいぶんと肝を冷やしたものであった。
そんな大槻兼山は前々から、是非一度、伯天流の稽古を見学したいと所望しており、それがようやく実現した次第。
「いや、お見事!」
己が膝を打ち鳴らし大槻兼山が賞賛する。
「寸分の狂いもなく、軸が微塵もぶれることもなく同じ動作を繰り返す。一見すると簡単そうで、これがいっとう難しい。それを判で押したかのように続けられる。気力や体力もさることながら、卓越した体の芯の均衡がなければとてもとても。なるほど、この安静さこそが伯天流の強さであったのだな。いやはや恐れ入った」
やれ邪流だ、武士の剣じゃないなんぞと貶されることは多々あれど、こうして面と向かって褒められることがほとんどない。藤士郎はもじもじ照れるばかり。
けれども内心ではちょっとはらはらしていた。
なぜなら刺激を受けた「武仙候」が「どうにも武人の血が騒ぐ。よし、ひと勝負といこうではないか」とか言い出さないとも限らないので。
前回はどうにか勝てたが、あれは状況ゆえのこと。
猫又騒動の終盤に、白毛の大猿なる怪異相手に見せた、大槻兼山の槍の絶技たるや筆舌に尽くしがたく。
大槻兼山が藤士郎と戦った時は、相手が人間ということもあって、無意識のうちに力を押さえていたのだ。それゆえの不覚にて、まともに真正面からやり合ったら、とても敵いそうにない。
しかしながら大槻兼山は勝負うんぬんを言い出すこともなかったもので、藤士郎もほっと安堵するも、そのかわりといってはなんだが「武仙候」はこんなことを口にした。
「いやはや、やはりそれがしの目に狂いはなかった」
じつは藤士郎の腕を見込んで、ひと仕事頼みたいとのこと。
「なぁに、ちょいと物見遊山がてら荷を届けてもらいたいだけだ。貴公ならば安心して任せられる」
なんぞと言われたのだけれども、それがとんでもない話であった。
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