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014 雪女
しおりを挟む両親の影響もあってか、小西菊代は若い頃から山登りが好きであった。
それが縁で学生時代に大学の登山サークルで知り合ったのが、いまの夫である。
卒業後、二年ほどの社会人生活を経てからふたりは結婚した。
多少の波風はあったものの、結婚生活はおおむね順調であったとおもう。
男の子と女の子、ふたりの子宝にも恵まれ、子どもたちも無事に成長し、家事と育児にもひと段落ついたところで、「ひさしぶりに夫婦水入らずで山に登らないか」と夫から誘われたときは、本当にうれしかった。
向かったのは氷瀑が見れる地にて。
季節は冬、道なき道を進まねばならない上級者ルートゆえに、観光地化していない穴場スポット。
そこはかつて夫が自分にプロポーズをしてくれた記念すべき場所。
ゆえに夫婦にとっても菊代にとっても思い入れのある、特別な場所であった。
例年にない暖冬ぶりにて、もしかしたら氷瀑を見れないかもと危ぶまれたが、それは杞憂であった。
人知れぬ深山の奥は下界から隔絶された銀世界にて、想い出のなかとかわらぬ美しくも荘厳な氷瀑はそのままに……
吐く息が白く、すぐにキラキラと景色に溶け込んでいく。
年甲斐もなく手をつなぎ、氷瀑を並んで見上げるのは少々面映ゆかったものの、菊代は心の底からこの人といっしょになって良かったとおもった。
いまは亡き両親もきっと自分の娘の幸せを喜んでくれているはずと信じていた。
よもやそれが、すべて粉雪のごとく儚く消えてしまうだなんて、このときは夢にもおもわなかった。
〇
氷瀑の景色を堪能した帰り道でのことである。
急に吹雪いてきたもので、ふたりははぐれないように互いの身をロープで結んでは、励まし合いながら帰路を急ぐ。
雪原を進んでいるさなかのことだ。
前を歩いていた夫が急に立ち止まったまま動かなくなってしまった。
訝しんだ菊代が「どうしたの? もしかして道を間違えちゃった?」と声をかけるも応答はない。
なので菊代は雪を踏みしめ踏みしめ、夫のもとへと近づき並び「ねえってば?」とその横顔をのぞいてみれば、夫の頬は異様に紅潮しており、視線は前方をぼんやり見つめたままで、惚けたような表情をしていた。
妻からの呼びかけにろくに応じず、ようやく返事をしたとおもったら「あぁ」とか「うん」との生返事にて。まるで炭酸の抜けたソーダのようである。
不審におもった菊代は夫の視線の行方を目で追い、びくりと固まった。
雪の中にへたり込んでいる女の姿があった。
両の脚を体の横に流すようにして、しゃなりと座っている。
白の上下はいちおう防寒用らしいものの、荷物が少なすぎる。軽装にてハイカーに毛が生えたような装備だ。とてもではないが極寒の雪山へと挑む格好ではない。
だがそれよりもなによりも、菊代の目が強く惹きつけられたのが女の美貌であった。
雪のように白い顔肌、長い黒髪、柳眉、切れ長で涼やかな目元、憂いを湛えた瞳、虹彩がやや青みがかっている。しゅっと通った鼻筋は流麗で、その下にある唇は緋梅の蕾をおもわせるほどに紅く……
若く妖艶な美女が吹雪きになりかけている場所に、ぽつんとひとりきり。
どうしてこんなところにいるのか?
菊代は違和感を覚えずにはいられない。
ありえない状況……女の服装からして熟練した登山者という風でもなし。
とっさに菊代の脳裏に浮かんだのは――自殺の二文字。
昔から死に場所を求めて山へと分け入る者は、男女を問わず存外多い。
この女性もその類であろうか。
なんにせよ遭遇してしまった以上は知らんぷりというわけにもいかない。
ちらと夫の顔を見た。
女に見惚れており、半開きの口からはいまにも涎が垂れてきそう。
やれやれである。これでは百年の恋も醒めるというもの。ともに氷瀑を見たときの感動を返してほしい。
菊代は嘆息する。夫はダメだ、ちっとも頼りになりそうにない
だからここは菊代が率先して動くことにする。腰に結んでいたロープをはずし前へと出た。
「どうしましたか?」
近づき声をかける。
事情を訊ねれば、女は唇を震わせながらこう答えた。
「助けてください。じつは彼に誘われてきたのですが、途中ではぐれてしまって……」
鈴を転がすような声。
美人は声まで美しいらしい。
「それはたいへんでしたねえ」菊代は同情を示し「もう大丈夫ですから安心してください」と女を励ますも、内心では首をひねっていた。
ここは山の中腹に位置しており、晴れていれば一面は雪原にて見晴らしがかなりいいのだ。身を隠すような岩や樹などはなく、はぐれようとてなかなかはぐれられる場所ではない。
それこそ一緒に来た彼とやらが意図的に手を放して、彼女の前から姿をくらませて置き去りにでもしないかぎりは……
あることを思いついて菊代はゾクリとする。
わざわざこんなところにまで男が女を連れてきて、撒いて放置する理由なんてひとつしかないからだ。
(えっ、うそ……事故に見せかけて殺すつもりだった……とか)
保険金目当て、あるいは爛れた関係を清算するのにというのが、お昼に再放送しているサスペンスドラマの定番にて。
と、そこまで考えたところで菊代は首を横に振った。
(いやいや、さすがにそれはドラマの観過ぎよね。それよりもいまは彼女を連れて無事に下山することを考えなきゃ)
余計なことは頭の片隅へと追いやり、いまやるべきことにだけに菊代は考えを巡らせる。
女の連れの男性に関してはいったん除外し、優先すべきは自分たちのことにて。
「天候が本格的に悪化するまえに下山しなきゃね。となれば、まずは……」
菊代はぎゅっぎゅっとおにぎりを握る要領にて、雪玉をひとつこしらえたとおもったら、不意にこれを夫めがけて投げつけた。
いまだに惚けている夫は雪玉を顔面に喰らって「うわっ!」
ようやく桃源郷から意識が戻ってきたところで「ほら、いつまでもボケっとしていないで、手を貸してちょうだい。ぐずぐずしていたら、ここでピバーグするハメになるわよ」
妻から急かされた夫は「す、すまん」と謝り、ようやく再起動する。
夫婦は協力して女を保護し、三人で無事に下山していく。
幸いにも女は自分の足で歩けるだけの体力が残っており、目立った外傷もなかったので、下山するのはさほど難しくはなかった。
けれども彼女の連れという男性がまだ下山しておらず、待てども姿をあらわさない。
携帯電話を持っているはずなのに、いくらかけてもつながらず。
そのうちについに日が暮れてしまった。天候も悪化の一途を辿るばかり。
さすがにマズイと判断した小西夫妻が、地元の消防に連絡した。
捜索隊を派遣してもらえることになったのだけれども、悪条件が重なっており無理をすれば二次被害が出かねないので、夜明けを待ってから捜索に赴くことになった。
そして翌朝、前日の悪天候が嘘のように快晴となり、勇んで出かけた捜索隊が発見したのは、まるで樹氷のように立ったまま凍りついた男の遺体であった。
橇に乗せられて無言の帰還をした男。
それにすがりついては、さめざめと泣く女の姿は、夫を始めとしてその場に居合わせた男たちの涙をも誘い、おおいに同情を集めたものの、菊代ひとりだけはちがった。
なぜなら死んだ男の年恰好が、自分の夫と近かったからである。
親と子ほども歳が離れている。
べつに歳の差のある恋愛が悪いとはいわない。
けれども状況や経緯のせいであろうか、菊代はどうにも胸の奥の辺りがモヤモヤしてしょうがなかった。
それと同時に、自分が連れ帰った若い女に、なにやら薄ら寒いものを感じずにはいられなかった。
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