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第五十六話 女怪
しおりを挟む急ぐといっても石がごろごろしている足場のうえに、降り出した雨のせいで視界も足下もおぼつかない。人に追われるのとはちがう獣による追尾にて、体力と気力ばかりがすり切れるようにして摩耗していく。
横から聞こえる川の音が、一段と強まり轟々と鳴る。それが追われている者たちの神経を逆なでし、よけいに苛立たせる。
ときおり風向きが変わると、ぷんと鼻につくのは強い獣の体臭。
雨に濡れた獣の毛が放つ独特の匂い。
なのに周囲のどこを探して見ても、その姿は欠片も見られない。
こちらからは感知できないぎりぎりの位置を守りつつ、十二頭の狼の群れはぴったりと追尾してきているのだ。
あえて存在を匂わせ、示威行為による無言の圧力。そのくせ仕掛けてはこずに、獲物の疲弊を待ちながら、まるで追い込み漁のように包囲網を狭めていく。
その動きは徹底しており、一度、じれた加藤段蔵が脅威の身体能力でもって、手近な木へと駆けあがり、枝から枝へと飛んで狼を迎え討とうとするも、素早く察知した連中は潮が引くかのようにして遠ざかる。
いかに人知を越えた忍びであろうとも、二十四の瞳はふり切れない。ましてやそれが狼の眼とあらばなおのこと。
そして段蔵が諦めて戻ると、またぞろ同じように網を張る。
紀ノ国は木の国とも言われるほど豊富な森林を誇る。
周囲の環境のすべてが森で生きる狼たちの味方をしているので、川沿いの細い道を行く鈍牛たちにとっては、圧倒的に不利な状況が続いていた。
「やはりぴったりと張りついてきやがる。完全に捕捉されちまっている。これではせっかくの雨でニオイが流されたとて意味がない。このまま昼夜を問わずに脅しをかけて、オレたちが疲労困憊のところで、うっかりウトウトしたら、とたんにガブリだ。どうする? やはりオレは川を渡るべきだとおもうが。それに連中が追ってきて水の中に入ったところを迎撃する手もある」
「うむ、しかしなぁ……」
段蔵の提案にどこか煮え切らない態度の甚内。
どうにも彼は紀ノ川を超えることに、えらく消極的だ。それは鈍牛ですらも感じるほどのあからさまな態度にて、段蔵が気づかないわけもなく。
「ええい! さっきからいったいなんなのだ、ぐじぐじぐじ、その態度は! 乗り気でないのならば、ちゃんと理由を説明せよ。でないと、いい加減にこっちの堪忍袋の尾が切れるぞ。いっそ、川に蹴落とせば、そのぼけた爺の頭も冷えて冴えるのか!」
肉体的には元気でも心労がそれなりにて、やや短気になりつつあった段蔵が切れた。
それこそ本当にやりかねない剣幕にて、鈍牛が「まあまあ」となだめて、猫の小梅も彼の着物の懐から顔だけだして「にゃあ」とたしなめるも、段蔵は目を怒らせて鼻息は荒いまま。
これを受けて、甚内、ようやく観念して自分が乗り気ではない理由を語りはじめた。
「紀ノ川の向こうにはのう、女怪が住んでおるのよ。アレは気まぐれゆえに、どう動くかまるで予想がつかん。正直言って、アレとことを構えるぐらいならば、このまま狼どもと鬼ごっこを続けているほうがマシやもしれん」
果心居士こと田所甚内が懸念するほどの相手。
アレとはいったい? 二人の問いかけに彼は「白巴蛇(しろはだ)」という女の名前を口にした。
白巴蛇とは年齢出身不詳にて、どこの組織にも所属していない、はぐれクノイチ。
主に御坊の辺りを根城としており、その縄張りの範囲は紀ノ川より紀南全域へと及ぶ。
縄張りといっても、何かをするわけでなし、この辺りにてたまにうろついているだけのこと。
とにかく気まぐれな性質にて、泣いている幼子を助けたとおもえば、里へと押し入って血の雨を降らせたり、街道にて修行僧らを誘惑しては揶揄ったり……。
山の天気のごとくコロコロと気分を変える。天女にもなれば鬼女にもなる。
遭遇したが災難、歩く災厄のような存在。そしてそんな無体を押し通すだけの実力がある者。
「しかし、ワシとヌシがおるのじゃぞ。それに鈍牛もいる。そのようなはぐれクノイチ、なにするものぞ」
天下に名高き忍び果心居士と飛び加藤、たかが女一人に遅れはとらぬと意気込む段蔵だが、甚内は首をふる。
「ことはそういう話ではない。強い弱いではないのだ。アレが女で、我らが男というのが問題なのだ」
「それはどういうことだ?」
「アレは類まれなる幻惑と房中術の使い手。そしてそれはこと男相手では無類の強さを発揮する」
「はぁ? そんなもん色香に誑かされねばよいだけではないか。なにを大袈裟な」
「その色香こそが大問題よ。鼻を塞ごうが、耳を塞ごうが、目を閉じようが駄目なのだ。アレの術からは決して逃れられぬ」
幻術の達人である果心居士こと田所甚内ですらも恐れる術の持ち主、白巴蛇。
その真価は生まれ持った特別な体臭にあるという。文字通り甘い色香が脳髄をもとろかす。意志や肉体なんぞを飛び越えて、芯を狙い撃つそのチカラは、肌から直接に侵入してくるので、どうしようもないという。
かつて対峙した時、甚内は一瞬にて意識と理性を持っていかれそうになり、尻尾をまいて逃げるので精一杯であったという。
男が男であるがゆえに勝てない相手。
加えて武芸も達者ときては、どうにも分が悪い。
前門のうわばみ、後門の狼。
大蛇の口に飛び込むべきか、狼の口に飛び込むべきか。
紀ノ川の水かさが増す中、選択の時間はあまり残されていない。
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