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第五十五話 群狼
しおりを挟む霧の中でもふしぎと迷わず進むことが出来て、ようやく霧が晴れたと思ったら、唐突に耳に飛び込んできたのは水の音。
そこはもう緑の濃い水が流れる紀ノ川のほとりであった。
大和の国は吉野より始まるこの流れは、畿内でも屈指の水量を誇り、雨が多い地域性とも相まって、ときおり暴れ竜のごとく荒れる。その勢いはすさまじく見上げるほどの巨岩をも、がらんごろんと転がすほどではあるものの、下流域にておおむね恵みと豊穣をもたらしてくれている。
青々とした山河の雄大な景色は、古来より数多の歌人や絵師らの心をとらえて、多くの作品へと反映されている。
川沿いに細々と続く道を、流れる水の音を尻目に歩く鈍牛一行。
川の流れと同様に道もまた右へ左へとうねっており、時間のかかるわりにはあまり歩みが進んだ気がしない。
遅々とした道行きに、やや鈍牛がげんなりしていると、段蔵が言った。
「なんなら丸太を浮かべて急流下りとしゃれこむか? それならあっという間だぞ」
これにはあわてて首をふる鈍牛。
伝説の果心居士である田所甚内や、脅威の身体能力を持つ加藤段蔵のような名だたる忍びならばともかく、へっぽこ忍びの芝生一族の中でもさらにへっぽこな仁胡には、一本イカダなんて絶対に無理な芸当。
鈍牛青年の反応ににやりと笑った段蔵。どうやら若い者を揶揄っただけのようだ。
そんな二人のやりとりを見ていた甚内も笑みを浮かべていたが、内心では少し別のことを考えていた。
それは仁胡の持つ破眸のチカラについて。
これまで独自の伝手や、あちこちにて古い文献なんぞを漁り、調べたところでは、それこそすべての忍術を見破り、武芸を見極め、これを見よう見まねであっさりモノにするというとんでもない話であった。
だが仁胡の場合、どうやらそこまで凄まじいものではないように思える。
せいぜい術を見破る、もしくは対応してみせるだけで、その術をとり込んで自身のものとしたという話は、いまのところ出ていない。己の能力を自覚して、それを磨けばあるいは初代の域にまで達するのかもしれないが、そもそも鍛え方さえ不明にて。
芝生の庄でも残っている蔵書に目を通して見たが、有益な情報は見当たらなかった。
下手に刺激するとどのような作用が発生するのかもわからぬから、あくまで経過観察に留めておく。
それが甚内のいまのところの考えであった。
田所甚内の思考が急に途切れ、意識が現実へと戻される。
忍びとしての超感覚が、はるか後方から迫る何かの気配を察知したからだ。
足をとめてその場に素早く伏せた甚内。
片耳を地面に押し当て音を探る。
「十、十一……、全部で十二か。こちらに接近する者がおる、しかし速い。これは……、もしや獣か?」
高野山の夜行が誇る石兵八陣なる遁甲術。
なみなみならぬ秘術にて、通常ではとても破ることかなわず、囚われれば白い霧の中を延々と彷徨うことになる。なにせ段蔵たちとて見破れなかったぐらいだ。
だが鼻の利く獣ならば話がかわってくる。
おそらくは鈍牛たちの臭いを追うことで、あの術を抜けてきたのであろう。
甚内の口よりもれた言葉に、段蔵も表情を険しくする。
「獣使いか……、おそらくは犬か狼の類だろう。だとしたらマズいな。連中、おそろしくしつこい。それこそどこまでも追いかけてくるぞ。しっかりニオイを辿られているようだし、こうなれば紀ノ川を超えるしかあるまい」
いったん水を挟んでニオイを断つ。
獣相手の常套手段ではあるが、この段蔵の意見にいまいち乗り気でない甚内。
あんまり迷っている時間もないというのに。
そうこうしているうちに、早や、ずっと後ろの方から遠吠えがかすかに耳に届く。
おそらくこちらを見つけた合図を仲間に伝えているのだろう。
それを聞いた段蔵「ちっ、よりにもよって狼のほうかよ」と舌打ち。
「狼だと駄目なの?」と鈍牛。
あいにくと高槻に狼はいない。それどころか痩せた犬すらもあまり見かけない。そんな土地で育ったがゆえに、彼の認識では狼とは犬の延長みたいなもの。
だがそれはおおきな間違いだと段蔵に言われる。
「犬ってのはわりと直情な性質でな。獲物を見つけたら頭にすぐ血がのぼって牙をむく。真っ直ぐに向かってくるもんだから、対処も来た端からぶん殴ればいい。でも狼はちがう。まず群れ単位での連携がえぐい。そして絶対に無理をせずに、こちらを肉体的にも精神的にも追い込んで疲弊させてから、ようやく動き出す」
「それで犬よりもしつこいの?」
「そうだ。体力も犬の比じゃねえぞ。山どころか国の一つや二つまたいでもまだついて来る。くそっ、それにしても獣使いなんて珍しいもの、どこから引っ張ってきやがった。四国の犬神どもはさすがにないだろうから、とすれば関東の風魔あたりの子飼いか。ええい、面倒な。とりあえず鈍牛は小梅を懐にしまって、絶対に表に出すな。アレは弱い者から狙うからな」
「うん、わかった。ほら、小梅」
着物の前をはだけると、素直に従った茶トラの愛猫。するりと中へと潜り込み、ちょこんと首だけ出す。
なんとも言えない愛らしい姿に、おもわず頬も緩みがちになるが、そのときまたしても遠吠えが。
しかもさっきよりもグンと近くに聞こえたものだから、一行はやや駆け足にて動き出した。
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