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第五十八話 紀ノ川越え 後編
しおりを挟む獣使いの忍びの首を一刀でもって刎ね飛ばした白巴蛇。
とたんに術がとけたのか狼たちが身を翻して「きゃん」と鳴きながら蜘蛛の子を散らす。
能面が鈍牛たちの方を向き、まだなんとか自我を保っている段蔵と甚内らの耐える姿を見て、「ほほほ」と愉快そうな声をあげた。
だがその視線が立ち尽くしているばかりの鈍牛へと向くと、おや? と首をかしげる。
四歳の頃に男を惑わす匂いを放つ特異な体質が発現してより、親に売られてさる忍びの一族のもとへと引き取られた幼女。
十数年の修行を経て、白巴蛇の名を冠するクノイチへと成長した。
己の力を十全とするための幻惑と房中術を極め、彼女がまず最初にしたことは自分をこんな化け物へと育ててくれた一族への恩返し。郎党どもをみな狂わし、操っては同士討ちをさせて、あと腐れのないように根絶やしにする。
次に行ったのは自分を産んでくれた両親への恩返し。
ほら、こんなに立派に育ったよと、その姿を見せつけてのちに、こちらも親族一同乳飲み子にいたるまで根絶やしにした。でないと、またぞろ自分のような化け物なんぞを産み落とされてはたまらぬので。
それから先は野放図に生きてきた。
男を誑かし、その精気を吸うことで、いっかな肉体の老いはやってこず、術はますます冴えわたる。
いつしか自分が元はどんな名前であったのか、どれほど年を取ったのかも忘れてしまった。
無為で無聊なる日々。そんな中にあって、ずっと心の奥底にて燻り続けていたのは男という生き物に対する幻滅と憎悪。
訳知り顔にて知をひけらかす学問に長けた男を破滅させた。
祈れば衆生が救われるとのたまった敬虔な仏教徒である高僧を破滅させた。
剣とともに生き、剣とともに死すと言っていた武芸者を破滅させた。
民の喜びこそが我が喜びと公言していた地頭を破滅させた。
孝行者として近隣にしれていた若者を破滅させた。
みな態度や言葉こそは立派ながらも、一皮むけば浅ましい獣よ。猛り狂っては我が身に溺れるばかり。ひょっとしたら彼らに何かを期待していたのかもしれない。自分の光明足りえることを。だが結果はご覧のありさまにて、心の内に失望だけが降り積もる。
なのに、このざんばら髪の青年ときたら、いささか反応がおかしい。
自身の体質のこともあるし、ひょっとしたら生まれながらに耐性を持つ肉体やもしれぬ。そう考えた白巴蛇は、帯を解き、はらりと着物を脱いだ。
一糸まとわぬ裸体が暗闇に白い。
とたんに周囲に強まるは甘い芳香。
これにはさしもの鈍牛も狂うたか、六尺越えの体がふらりと鬼女のもとへ。懐に入っている愛猫の小梅がてしてし腹を叩くも、その歩みがとまらない。
その姿にようやく堕ちたかと白巴蛇、能面越しに「手間をかける」とつぶやく。
が、鈍牛が目の前にまできたときに、彼女はようやくおかしなことに気がついた。
なんと、鈍牛、瞼を固く閉じているではないか。もちろんそんな程度では白巴蛇の術は破れやしない。肌から淫の毒が直接染みては、相手を狂わせるのだから。
なのに呼吸や心の臓の音が乱れている様子が微塵もない。
青年の手がのびてきて、とっさに身構えた白巴蛇。だが鈍牛の手が掴んだのはその白い肌ではなくて、彼女が脱いだ衣の方。
それを拾うと、鈍牛は白巴蛇の体にやさしくかけてから、ようやく瞼を開いて真面目な顔にて「女の人が、男の前で、そうぽんぽん肌を晒すもんでねえ」と説教を垂れたものだから、希代のクノイチも唖然。
男の人からそんなことを面と向かって言われたことなんぞ、初めてのこと。
みな欲情にまみれた視線を向けるばかりであったというのに、この青年はなんだ? いったい何者なのだ?
困惑と同時に俄然、興味がわいてきた白巴蛇。
とりあえず言われるままに楚々として着物をつけると、鈍牛に茶をすすめた。
かつて安土の城にて千利休から茶をふるまわれたことがある彼は、そのときの苦い味を思い出して、口をつけることを躊躇。
「この緑の苦いやつはちょっと」
控えめに遠慮をすると、すかさず女は「これを入れれば甘おうなる」と言って、何やら白い粉末をさらさら。
砂糖との説明だが、絶対に嘘だろう! と一連のやりとりを見ていた段蔵は思った。
だが自分のことで手一杯にて、声を出すこともままならない。
そうこうしているうちに、グイっと茶を飲んでしまった鈍牛。
「あれ、本当だ、ちっとも苦くない。これなら飲め……る……や」
言葉を最後まで発することなく、ゴロンと倒れて、そのままグーグーいびきをかき始めてしまう。
いかに神秘の瞳を宿す身とて、まだまだ未熟とあっては、すべての災厄を退けることはかなわぬか。
一方、それどころではなかったのが段蔵と甚内。
白巴蛇が裸身を晒したことによって、これまでの比ではない匂いが満ち、ついに段蔵、白目をむいて「がぁ」と獣のごとき咆哮をあげる。
それを見た甚内「いかん。しっかりせぬか。ぐぬぬ、こうなってはやむなし」
言うなり段蔵の腰に手を回すと、残りの気力を振り絞り、二人して紀ノ川の流れにドブンと身を投げた。
紀ノ川の濁流にのまれて消えた二人は放っておいて、鈍牛の身を撫でまわすは白巴蛇の指先。懐にある愛猫の小梅は身をいっそう丸めて縮まり潜んでいる。
それにはとうに気がついているものの、猫の子一匹ぐらい女は気にもとめない。すでにすべての意識は鈍牛へと向けられていたから。
「この男ならばもしや……、いいや、これまでとて何度、それで期待を裏切られたことか。まずは連れ帰り、とっくりと検分してやろう」
赤い日傘や敷かれていた畳や茶の道具類がドロンと消えて、かわりに姿をあらわしたのは一艘の小舟。
自分よりも二回りほども大きな青年を前に抱きかかえた女が乗り込むと、櫂をあやつる手とてないのに勝手に動き出す舟。
荒れる夜の紀ノ川をものともせずに、するする横断していく。
その姿はこの地に伝わる安珍清姫伝説に登場する大蛇を思わせるものであった。
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