高槻鈍牛

月芝

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第五十九話 道成寺釣り鐘地獄

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 旅の僧に恋をして、情炎に身をこがし、ついには蛇身と成り果て、相手を殺してしまった娘。
 旅の美僧を安珍、娘を清姫といった。
 この話は女の情念のおそろしさ、浅ましさを訴える説話として、広く知られている。
 が、はぐれクノイチである白巴蛇はこの話が大嫌いであった。
 さも女がとち狂ったかのように物語られているが、それは違う。
 清姫に「あれがおぬしの将来つれそう相手」だとたわむれたのは、娘の父親である真砂の庄司。
 清姫に「帰りに必ず寄るから」と気を持たせて誤魔化したのは安珍。
 嘘をついた挙句に、約束を破り、追いすがる娘を捨てて、ひたすら逃げたのもまた安珍。
 必死になってすがる女を待つこともなく、なぜに逃げた? 添い遂げられないのであるのならば、どうしてそれを面と向かって説かない。恋に迷う女一人救えずして、なんのための法悦か! 乙女ひとりの想いを踏みにじっての何が修行か! 
 安珍は臆することなく清姫のもとへと立ち戻り、きちんと筋を通してから去るべきであったのだ。それを蛇身になって紀ノ川を渡らせるほどまでにしたのは誰か!
 ことの発端も、ことを悪化させたのも、すべては男の身勝手さ。
 これが仏門に帰依した者のすることか!
 あげくに最後に男恋しさに大蛇となった清姫が、道成寺へと逃げ込んで釣り鐘の中に隠れていた卑怯者を焼き殺したとて、それがどうした?
 すべては己が身から出た錆び。
 それをすべて女が悪いだなんぞと、ちゃんちゃらおかしい。

 この物語の舞台として名高いのが、御坊の道成寺。
 まっすぐに伸びた参道から見上げた石段の先には、朱色の柱の立派な山門があり、これを潜ると境内の右手には三重の塔が鎮座。
 塔の手前に生えてる木は蛇のような形にて「蛇榁(へびむろ)」の木と呼ばれているが、なんてことはない、ただのどこにでもある枯れ木の類。
 本堂はありふれた造りにて、かつては参拝客で賑わっていたのだが、それも白巴蛇が住みつくまえのこと。
 いまでは荒れ寺同然にて、彼女が寝起きしているところ以外は、朽ちるに任せてある。
 坊主らはとっくに逃げ出しており、妖魔調伏とかほざいてやってきた僧侶や侍たちは、みなことごとく殺して裏の竹林の肥やしとした。おかげで青々と育っており、美味い筍もとれる。
 いまでは地元の人間らとて、鬼女が住むと恐れて近寄ることもなし。
 わざわざここに白巴蛇が居座っているのは、単なる嫌がらせ。
 彼女としては、とにかく安珍清姫伝説が気に喰わない。
 なにもかも女のせいにして、これを見せ物同然に扱い、賽銭をちびちび稼いでいる僧たちのほうが、よっぽど浅ましいと思っている。

 道成寺の境内の中央に、ドンと置かれた釣り鐘。
 これこそが、彼の軽薄坊主が生きながらに焼かれたという品。
 縁起が悪いと長らく裏の竹林に埋められてあったのを、白巴蛇が掘り出したのだ。
 いまその鐘の中にいるのは、二人の男女と猫一匹。
 暗闇の中、狭い空間にて、互いの息が感じられ、胸の鼓動までもが聞えてきそうな距離。
 逃げ場はなく、内部の空気は淀むばかり。むせ返るように満ちるは白巴蛇の肉体が放つ蠱惑の芳香。
 嗅げばたちまち男の気が狂うというそれが支配する空間。
 これぞ釣り鐘地獄の術。
 全身の穴という穴から体内へと侵入しては、劣情を駆り立てる。いかなる賢者でも抗うことはかなわない。それこそ悟りを開いた仏すらも魔性へと誘うやもしれぬ。
 これに加えて幻惑と房中術が鈍牛の理性を脅かす。
 六尺越えの青年、意外にも引き締まったその肉体を這うように遊ぶ白巴蛇の指先。
 その腕が首にまきつき、逞しい背を存分にまさぐり、顔につけたままの小面の能面越しに届く吐息がじょじょに熱を帯びてくる。
 ついには女の手が懐へとのびたところで、これをピシャリとしたのは、ずっと鈍牛の着物の腹にてじっとしていた愛猫の小梅。
 暗闇でも光る猫の瞳にて、シャーッと威嚇。
 だが女はそんなもの意にもかいさない。
 ただのひとにらみにて、逆立つ毛をもしゅんと萎えさせる殺気をぶつけられて、小梅の身が縮こまる。
 そんな猫の姿を小馬鹿にしつつ、ふたたび行為をつづけようとした白巴蛇。
 その手が男の下半身へとのびたところで、むんずと手首をつかまれた。
 掴んだのはもちろん鈍牛こと芝生仁胡。紀ノ川のほとりにて茶に一服を盛られて、眠り込んでいたのが、ここにきてようやく目覚めたのだ。
 だがすでにここは白巴蛇の巣の中。すべての準備は整っており、いかに耐性があろうとも、生粋の朴念仁であろうとも、抗えるわけがない。
 手を握られて、てっきり男がその気になったかと女は思った。
 しかしそれ以上、男はピクリとも動こうとはしない。
 まるで石にでもなったかのよう。
 怪訝に感じ見上げた先にて白巴蛇は見た、視てしまった。ざんばら髪にて隠されていた鈍牛の素顔を、その瞳を間近にてまじまじと観てしまった。
 そこに映る自身の姿を見て、白巴蛇は悲鳴をあげた。
 彼女が何を視たのかはわからない。
 だがその尋常ではない様子に、鈍牛は大弱り。
 なにせここは狭い釣り鐘の中。女の金切り声は幾重にも反響し、とんでもない音量となり、四方八方から襲い掛かってきて、頭がくらくらする。
 なにより目の前で女が泣き喚いているのが、どうにも放っておけなくて、鈍牛は彼女の身をぎゅっと抱きしめた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とあやされるうちに、悲鳴は次第におさまり、こんどはグズグズと鈍牛の胸にて白巴蛇は泣き始める。
 落ち着くまで彼女の背をやさしく撫で続ける鈍牛。
 いつの間にか白巴蛇が顔につけていた能面は割れて外れていた。


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