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第六十五話 紀伊水道
しおりを挟む御坊の浜より、勝手に動き出した舟にゆられて、鈍牛こと芝生仁胡と愛猫の小梅が乗り出しのは紀伊水道。
四国の阿波、淡路、紀伊によって囲まれており、四方十三里(約五十キロメートル)にも及ぶ海域。
瀬戸内ほどは穏やかではなく、さりとて紀伊の半島から先に広がる大洋ほど荒れてもいない。そのくせ潮目が時刻によって右に左にかわっては、全体がぐるりぐるりと回るのだとか。この水の流れが淡路と四国の間にある鳴門の渦潮を産んでいるらしいが、真偽のほどははたして?
海のことなんぞちんぷんかんぷん。
岸の近くならばともかく、はるか沖合にまで出てしまっては、櫂の操作ではどうにもならぬ。帆を操れればよかったのだが、あいにくとやったことがない。
素人がちょいと試すには、海の風は気まぐれにて、波もそこそこ高い。
一見すると穏やかそうに見えて、けっこう揺れている。こんな場所にて考えなしに帆を広げたらたちまち転覆してしまう。
いかに無知とてそれぐらいは鈍牛にも理解できた。
どのみち舟は独りで進んでいる。その理由もすでに判明している。
舳先に結ばれた綱が海中へとのびており、どうやら海の大きな魚が六匹ばかしでこれをくわえて引いているよう。
自分の身の丈かそれ以上に大きく、鱗はまるでなくって、表面がのっぺりとし、竈にて燃え尽きた白灰のような色、なにやらてらてらしており、触れたら手にしっとりきそうな見栄え。目は円らにて「きゅいきゅい」鳴く姿は愛らしいが、海の舟を引っ張るなんぞ、見た目に反して相当に力が強いとおもわれる。
しかも頭も相当いいらしく「どこへ連れていくつもりだ?」と声をかけたら「きゅきゅい」と鳴いて返事をした。だがあいにくと魚の言葉はわからないので、どうにも首をひねるしかない。
どのみち、どうしようもない状況にて、鈍牛、ついに諦めてごろりと舟底に寝転がった。
ここのところ怒涛の展開続きにて、おちおち眠れていなかったので、潮の香りを感じながら、これさいわいと休むことにする。
一方その頃、御坊の浜では……。
鬼女が地団太を踏んで激怒していた。
ただし怒る相手は置いてけぼりを喰らわせた鈍牛ではなくて、彼をみすみす行かせてしまった加藤段蔵である。
「なぁにが『ここは任せる。オレは鈍牛のところへ』じゃ。キメ顔にて先へ行けば、旦那さまは海の上とは、いったい貴様は何を遊んでおったのか!」
「いや、まて、それは誤解だ。遊んでなんぞおらんぞ。浜へと迫っておった連中をきちんと始末したし」
「言い訳無用じゃ! それで肝心の旦那さまを海原に投げ出すとは何事ぞ? 紀伊の海は外海にも通じておるのじゃぞ。下手をするとそのまま流されて、三日後には日干しとなっておるわ。あぁ、おいたわしや」
怒っていたとおもったら、想い人の不憫な境遇にヨヨヨと涙する。
ころころ変わる小面の能面女の様子に、段蔵は困惑を隠せない。だからこっそり田所甚内にたずねた。
「おい、甚内どの。これはいったいどうなっておる? こやつは本当にあの白巴蛇なのか? 紀ノ川のときとはまるで違うではないか」
「あー、どうやら鈍牛の瞳に当てられたらしい」
「まことか……、それでいまでは旦那さまとは。にしても次々と、まぁ、そのなんだな。ひょっとして破眸ってやつは、女たらしの力もあるのかな」
「わからん。というかワシも頭が痛い。よもやアレを釣りあげるとは、豪気にもほどがある。この分だと芝生の庄にもどったら、またぞろひと悶着あるぞ」
「おぅ、それはかなわん。もしそうなったらオレは逃げるからな」
「ワシだって逃げるぞ。そのときは抜け駆けするなよ」
男どもがこそこそと話をしていたら「なんの話か?」と白巴蛇。
とたんに「なんでもない」とそろって首をふった段蔵と甚内。
と、ここで急に真剣な表情となった甚内老人。
「にしても、帆も張ってない舟が勝手に動きだすか。段蔵が見た出航の様子から察するに、これは何者かの手によるものだろうな」
「うーむ。海中にて舟をあやつるなんぞ人の身には無理だろう。そういえば伊勢志摩の方には海豚を使う者がいると聞いたことがあるが」と段蔵。
「いや、アレに出来るのは追い込み漁とか、海底に沈んだ船から荷を引き上げる手伝いぐらいじゃぞ」とは白巴蛇。
「鳥や狼なんぞを使う者は知っているが、海の獣を使う忍びの話はまるで聞いたことがないのぉ」しばし考え込んだ甚内「そういえば大きな鳥の姿も見かけたと、言っていたか……」
「おおよ、鈍牛を乗せた舟の真上をぐるぐるとな。どうにも不自然な動きにて気になったのだ」
「ううむ、海の獣だけでなく鳥までも使役するか。これは先日の狼の獣使いとは比べものにならぬ難敵かもしれぬ。とはいえわざわざ連れ出したということは、当面の危険はないやもしれぬな。となると気になるのは舟の向かった先……、考えられるは淡路か阿波か」
甚内の言葉を受けて「ならば淡路じゃ」と即座に断じたのは白巴蛇。
男たちから理由をたずねられたら「女の勘」のひと言で片づける。
これには段蔵たちも苦笑い。しかしよくよく考えると、その勘もあながち外れておらぬともおもえた。
なぜならなんら準備をすることなく海原へと乗り出した舟。
水も食糧もない状態にて、厳しい海の陽射しの中を、とても四国の阿波まで行けるとはおもえない。わざわざ招待したことを考えるに、白巴蛇の意見が正しいようにおもわれる。
となればすぐにでも追いかけたいところだが、あいにくとここから淡路島へと渡る船便はない。粋な泉州侍どもが元気だった頃には河内辺りからバンバン船が出ていたものだが、織田の台頭によって海路が抑えられ、瀬戸内の船の往来も様変わりして、こちらもあまり期待はできない。
これらを考慮して田所甚内が下した判断は、いったん高槻の芝生の庄に戻り、体勢を整えてから陸路にて播磨の国を目指し、明石辺りから島を目指すというもの。
一見すると遠回りにおもえるが、足の速い忍び三人。風を頼り天候や波に左右されがちな船旅よりもこちらの方が、確実に距離と時間が稼げる。それに明石からであれば淡路島はもう目と鼻の先、船での移動も最小限ですむ。
方針が決まったとたんに動き出す甚内、段蔵、白巴蛇の三人。
条件次第では一日四十里(約百六十キロメートル)をも駆けるといわれる忍びの足。その中でも飛びっきりの忍びである彼らの本気の走り。
人目も憚らずに街道を駆けるその姿は多くの者に目撃され、その様はまるで宇治拾遺物語に登場する、燃え盛る火の車に罪人をのせて冥途へと連れ去る地獄の獄卒「火車」のようであったという。
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