高槻鈍牛

月芝

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第六十八話 伊弉諾の姫守

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 月の明るい夜をひた歩く。
 ふしぎと島民とは誰も会わない。いくら夜とてこれだけ外が明るければ、浮かれて出歩いている者の一人や二人、いてもおかしくはないというのに。
 しかし民草が暮らしているのは間違いあるまい。
 なにせ少ない土地を上手に使って耕した段々の田畑は点在しているし、道もそれなりに整っている。なによりあの大岩を祀っているということは、それを世話している人がいるということ。周辺には落ち葉などなくきれいに掃き清められていたことからして、こまめに掃除をしているのだろう。
 なのに集落はなく、一軒のあばら家すらも見当たらない。
 ひょっとして自分は狸か狐にでも誑かされているのだろうか?
 そんなことを鈍牛が真剣に考えはじめた頃、ようやく辿り着いたのは大鳥居のまえ。
 これまた先ほどの岩神さまと負けず劣らずの大きさにて、よくもまあ固い石を削ってこんなものを拵えたものだと、感心するやら呆れるやら。
 鳥居の向こうにはずらりと石灯篭が並んでおり、その全てに灯りが燈されてある。
 一直線にのびた参道をずっと進んだ先の闇の中にて、ぼんやりと浮かんで見える建物。あれがこの神社の表神門、その向こうに見える屋根が社殿か。
 とにかく広い境内だ。ここだけで高槻は芝生の庄がすっぽり収まるほどもある。
 鳥居の脇には石碑が置かれており、そこには「伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)」と太く彫りの深い文字が刻まれてあった。だが漢字が難しすぎて鈍牛には読めない。

「い……、えーと、じんぐうってことは、やっぱり神社なのかな。それにしても立派なところだなぁ。それに都にあるのとはちがって、なんだかゴテゴテしてないから、こっちの方が雰囲気が好きかも」
「にゃ」

 鈍牛の言葉に小梅も「自分も」と言いたげな声をあげる。
 あまりにも立派にてちょっと気後れしてしまった鈍牛。しかしこのままでは埒があかないので意を決して境内へと足を踏み入れた。
 足下一面にびっしりと玉砂利が敷き詰められており、歩くたびにじゃっじゃっと音が鳴る。
 その音がやたらと響いて、彼は大きな背をいっそう丸めてできるかぎり縮こまった。
 神域特有の静謐とした空気にびくびくしながら進むと、表神門のところで一人の女性が立っている。
 年の頃は鈍牛より少し上ぐらいか。
 麻色をした男物の直垂姿ながらも、目鼻立ちを見ればひと目で女性とわかる。けれどもその肌の白さや唇の可憐さよりも、まず印象的であったのは、その眼。
 わずかとて逸らすことなく、カッと見開かれた黒い瞳の力強さよ。一切隠すことなき意志の強さがいまにも溢れでるかのようにて、それが恐ろしくもあり、また美しくもある。一度見たら忘れられぬ、そんな眼をした娘であった。
 直垂姿の彼女の肩には大きな鴉がとまっており、黒い目にてじっと鈍牛たちを見ていた。

「お待ちしておりました、芝生仁胡さま。姫守さまがお待ちです。どうぞこちらへ」

 声もまた凛としており、抜き身の刃のごとき鋭さにて、べつに声を荒らげているわけでもないというのに有無を言わさぬ迫力。
 これを前にしては、疑念を差しはさむ暇もなく、鈍牛は唯々諾々と従うばかり。
 案内されるままに通されたのは、境内正面にある本殿の左側に位置する祓殿(はらえどの)。文字通り神社でお祓いをする殿舎。
 ある意味、不浄を抱えまくっている現在の鈍牛には、これ以上にない受け入れ場所。
 丸い鏡が飾られた祭壇の前にて、背筋をしゃんと伸ばして座っていたのは、ここまで案内してくれた娘と同じ格好をした人。
 ただし、こちらはかなり年齢がいっているらしく、髪がすべて灰色になっている老女。しかしその顔にはやわらかい笑みが浮かんでおり、雰囲気までもがやわらかく、なにやらいい香りも。
 公家の女房とか帝に仕える女御とか、会ったことはないけれどもこんな感じなのかもと、鈍牛はおもった。
 なおカラスを肩に乗せた娘は部屋の隅にて控えている。

 老女は自分を「伊弉諾の姫守」であると名乗った。
 この神社の祭事一切を取り仕切るのが宮司であれば、これを裏から支え、ときに世の不浄災厄から守るのが姫守の役目。
 所属する巫女忍たちを束ねる頭領にして、そのお役目は代々が宮司の妻が引き継ぐことになっているという。
 そしてこの巫女忍たちが得意とするのが獣を使役する術。
 おそらくは秘事であろうことまで話してくれた姫守の老女。
 これを聞いて、鈍牛、ようやくもろもろに合点がいった。

「ひょっとして、海のことも?」
「はい、不躾ながらも、いささか強引な手段をとらせてもらいました。もうしわけありません」

 丁寧に両手をついて頭を下げる老女。
 あまりにも洗練されたきれいな仕草にて、かえってあやまられた方が立つ瀬がなくなる。
 田舎者の鈍牛、慇懃さも時に武器になることをはじめて知る。
 そんな相手が次に口にしたのは、あまりにも予想だにしなかったこと。
 それは鈍牛の身の上、その瞳に宿る力、それから彼の遠い祖先の娘の話であった。


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