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第八十二話 雷牛
しおりを挟む「うにゃーん」
浜辺にて両の前足を突き出し、お尻をもちあげる格好にて、大きく背伸びをしたのは茶トラの小梅。
いかに大好きなご主人様の懐の中だとて、ずっと入ったままでは、猫の身がもたない。ようやく表に出られて穏やかな夜の海風を受けながら、解放感に浸り、足下の感触を楽しむかのようにして、「にゃんにゃん」浜辺で戯れだした。
その平和な姿を尻目に、すっかり草臥れ果てていたみんなは、おもいおもいの格好にて浜に腰をおろしていた。
「……どうにかなったねぇ」
やや放心状態にてへたり込んでいる七菜がつぶやけば、一同こくんとうなづく。
つい先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っている一ノ谷の浜。
まぁ、辺りは激しい争いの爪痕だらけにて、酷いありさまなのだが、すっかり感覚が麻痺しているのか、かつて信長の首の糠漬けでひっくり返っていた小夜ですらもが、平然とこの状況を受け入れてしまっている。
よく見知ったはずの幼馴染みの変わりよう。いざとなれば女は強いとよく聞くけれども、本当なのだなぁと鈍牛密かにしみじみ。
そのとき「かぁ」と鳴いたのは巫女忍の輝の相棒。馬橇の荷台でぐったりしている主人を守るかのようして、その枕元に控えていた鴉。
いきなりにて、みなの視線がそちらに集まる中、はっと鴉の合図のことを思い出したのは鈍牛。確か明石からこちらへと逃げる際に、先駆けの斥候として働いてくれていた彼が鳴くのは、敵の存在を報せるときだったはず……。
気づいたときには少しばかり遅かった。
「にゃっ!」
悲鳴にも似た声をあげたのは小梅。
見れば暗闇より姿をあらわしたのは入道頭の大男に率いられた一団。大男の手にした投網の中には囚われている愛猫の姿が。
入道頭は鬼童丸と名乗るなり、「信長の首を寄越せ」と言ってきた。
この男、かつてはさる忍びの一族の末席にいたのだが、あまりの乱暴狼藉ぶりが目にあまり、ついに放逐の憂き目にあう。
だが野に放たれた男は自分と似たような境遇の者たちを集め徒党を組むと、忍びの技を用いて野盗まがいのやりたい放題。
盗品を売りさばくのにつき合いのあった好事家より依頼を受けて、ずっと信長の首を狙っていたのだ。
で、情報を聞きつけて駆けつけたはいいものの、現場は騒然となっておりすっかり修羅場。さすがにこの中に押し入っていくのは躊躇われていたところに、あれよあれよと群がっていた忍びたちが姿を消したものだから、これさいわいと出てきた次第。
まさかの猫を人質にとっての要求。
ふつうであれば失笑もの。
事実、大男の間抜けな姿に「ぷぷぷ」と七菜が吹き出したのを皮切りに、みな肩をふるわせ、お腹を抱えだす。味方ばかりか敵の中にも笑いをこらえている姿があった。
これには鬼童丸もやや顔を赤らめて、苦々し気な表情を浮かべる。
ただし鈍牛にとっては笑いごとでもなんでもない。彼にとっては、小梅もまた大切な仲間、守るべき存在であったのである。
だから素直に要求に応じて「わかった」とこたえると、これには甚内らの方がおどろかされることに。
いかに可愛がろうとも、たかが猫の首と信長の首を天秤にかけて、あっさりと猫を選んだ若者の考えに、頭がまったくついていけなかったのである。
こうして周囲が呆気に取られている内に、人質ならぬ猫質と、首の糠漬けが入った壺が交換されることになったのだが、ここでおもわぬ事態が起こる。
網の中で暴れていた小梅が、ジタバタするあまり、たまさか伸びた爪の先が、網の表へと飛び出て、これによって鬼童丸の腕をがっつり引っ掻いた。
「痛っ! 何しやがる、くそがっ」
雌猫に手傷を負わされた入道頭が怒りで朱に染まる。そしてあろうことか激情のままに、網ごと小梅の身を足下に投げつけると、これをひと息に踏みつぶそうとした。
砂浜に叩きつけられ、ぐったりしてぴくりとも動かない茶トラの猫。
その身にいままさに振り下ろされんとしている大男の足。
どんっ! と轟音が鳴り、大地どころか大気もが震えた。
雷が落ちたかのような衝撃にて、おもわず「きゃっ」と頭を抱えたのは七菜と小夜。
だが甚内、段蔵、白巴蛇、お良たちはしかと目撃する。
音とともに鈍牛を中心にして地面が窪み抉れて、べこりと盃のようになったかとおもったら、六尺越えのざんばら髪の青年の姿が消えた。
次にその姿があらわれたのは、鬼童丸が立っていた場所。
まるで鈍牛と鬼童丸が瞬時に入れ替わったかのよう。
では鬼童丸はどこへ?
入道頭の行方はすぐに知れた。砂浜のずっと向こうへと真っ直ぐにのびた線が引かれており、その先端に巨体が転がっていたから。白目をむいて泡を吹いている、その胸元にはくっきりと大きな手の平の跡。
なんてことはない、夢中になって駆けた鈍牛が勢いのままに張り手を一発、見舞っただけのこと。
だがこれを目撃した一同は、あまりのことにしばし息をするのも忘れた。
「おいおいおいおい、なんなのだ、いまの動きは……。甚内どの? おぬし見えたか」
段蔵にたずねられて白髭の老爺は首をふる。
「仁胡が踏み込んだところまでは見えた。だがあとの動きまではまるで見えなんだ。白巴蛇どのはどうじゃ?」
「わからん。だが尋常ではないことだけはわかる。何せちょいと駆けただけで旦那さまの姿が、ほれ、あのように」
見ればしゃがみ込んで網の中から小梅を助けている青年の姿が目に入るものの、その着物はあちこちが裂けてずたぼろになっていた。
小梅の身は無事にて「にゃあ」と鳴き、これをひしと抱きしめて「よかった、よかった」と鈍牛、半べそをかいている。
「いったいどんな動きをすれば、あんな格好になるんだよ。どこのどいつだい? 間が悪いから鈍牛だなんていうあだ名をつけたのは? あれじゃあまるで雷牛じゃないか」
呆れた調子にてお良が言えば、そういえばとこたえたのは田所甚内。
「そういえば天神信仰でも牛は神の使い扱いじゃったか。しかもあれは火雷神でもあるし、なにやら言い得て妙のような」
これにはちがいないと一同が納得。
そしてひとしきり笑ってから「さて」と重い腰をあげた。
なにせ猫とはいえども仲間に酷いことをされたのだから、悪さを企んだ連中にはそれ相応の報いは受けてもらわないといけないので。
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