誰もいない城

月芝

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017 落下

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 両脇が断崖絶壁になっている細い螺旋階段。
 そこを慎重に下ってゆく。
 唐突にゴウッと風が吹きあげた。
 右側からあおられ、危うくバランスを崩しそうになる。
 ボクは膝を曲げて腰を落とし安定をはかる。
 おかげでことなきを得たとおもったのもつかの間。
 肩かけカバンがずるり。中身は本やら手帳、割れた鏡にガラスペン、見取り図だけなので、重さはたいしたことがない。動いたといってほんのわずか、背中から腰の横にずれただけのこと。
 でもぐらついている身には、想像以上に影響をおよぼす。
 バランスをとろうとすればするほどに、右へ左へと小刻みに振れる体。どうにか抑えようとしたとき、いまいちど闇の底から風が吹きあげる。
 たまらずボクはしゃがみ、左手を床についた。
 階段の段差は十センチにもみたない。それでもカクンとなり、いくぶん前のめりの姿勢となる。
 一連の動作がおもいのほかに荒く、勢いを殺しきれない。
 手をついたひょうしに視界の隅で何かが宙を舞った。
 左肩に乗っていた白い腕。
 投げ出されてしまったのだ。

「あっ」

 ゆっくりと弧を描き、白い腕が奈落へと吸い込まれようとしている。
 ボクはとっさに身を乗り出し、めいっぱいに腕をのばす。
 指先がぎりぎり白い腕に届く。
 どうにか掴むことに成功。
 けれども態勢を崩したボクの体は大きく傾ぎ、こらえきらずに階段の上から落下した。

 闇の中を落ちていく。
 白い腕を抱き寄せ、開いている方の腕でどうにか落下を留めようとするも、壁に触れたはしからはじかれ、容赦なく拒絶された。
 クッ、いま自分はどこにいる? 高さは? 塔のどのへんだ? 少なくとも半分以上は進んでいたはず。それでもまだまだある。マンションの五階か十階かわからないけど、そんなところから落ちたら、まちがいなく死ぬ。ちくしょう、ここまでか。
 ボクは自分のことも、どうしてこんな目に合っているのかも、何もわからないまま死ぬのか?

 死に際して、周囲の景色がやたらとゆっくり流れるという。
 これまで歩んできた人生が次々と脳裏に浮かんでは消えていく。走馬灯と呼ばれる現象。けれどもボクが思い起こすのは、長い廊下を徘徊する金棒を持った影法師や、巨大イモリに苦労させられたことばかり。
 こんなときでさえ、死ぬ間際でさえ、ろくすっぽ自分のことが思い出せない。
 そんな情けない自分に、不甲斐ない自分に、みじめな自分に、無性に腹が立った。
 ふつふつと湧く怒り。その感情はなんら前触れもなくはじけた。
 絶望や恐怖を怒りが超えたとき、ボクはがむしゃらに足を突き出す。
 どうにか足の裏が壁に届く。
 開いてる方の手を向かい側の壁へとのばす。
 背筋をピンとはり、自身を一本のつっかえ棒と化すことで、どうにか落下をまぬがれようとするも、あとほんの少しだけ届かない!
 ダメかと諦めかけたとき、いっしょに落ちている肩かけカバンが目に入る。
 ボクはそれをひっつかみ壁へと無理矢理押し当てた。

 ガリガリガリガリガリガリガリガリ。

 スニーカーの裏とカバンが壁に触れて激しい音を立てる。
 これにより落下の勢いがいくぶん削がれたような気がした。
 が、完全に止めるにはボクはあまりに非力。
 いや、たぶん強靭な肉体を持っていたとしても、こんな方法で危機的状況から逃れられるのは、きっとアクション映画かゲームの主人公だけ。現実的には不可能。
 貧弱なつっかえ棒は落下の衝撃と自重に耐えかねて、すぐさまぺキリと折れた。

  ◇

 数秒後に来たるべき死。
 これを前にしてボクにできたのは、背中を丸めて白い腕を抱くこと。
 運がよければこの体がクッションになって、彼女だけは助かるかもしれない。
 覚悟なんてものを固める暇もなくやってきた衝撃。
 瞬間、目を閉じる。
 まるで縁日で買った水風船を遊んでいるうちに、つい落して割ってしまったときのような音がした。
 バシャンと鳴ったのはボクの体がはじけた音?
 そういえば人間の体って水分で出来てるんだっけか。てっきり砂袋を落したような感じになるのかと思っていたけれども、ちがったんだ。
 ぼんやりとそんなことを考えているうちに、肺の奥からノドをせり上がってきたのは空気の塊。口から漏れだしゴボリ、泡となった。
 息苦しさに襲われたボクは夢中になってその泡の行方を追う。

 ボクが落ちたのは水の中であった。


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