幕末レクイエム―士魂の城よ、散らざる花よ―

馳月基矢

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終章:Postlude

爽風

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 四年前に旧暦が廃止され、ヨーロッパ渡来の新暦の施行が始まって以来、肌で感じる季節と暦が示す日付に齟《そ》齬《ご》が生じ、何かと不便だ。
 暦だけに留まらない。元号が明治に改まってからというもの、髪を切れだの洋装をせよだのと、政府の指示で次から次へと世の中が移り変わっていく。まったく付いていきかねると、袴《はかま》姿に刀を差した男は思う。
 男は藤田五郎という。今年、数えで三十三歳になった。が、欧米式に言えば年の数え方も違っており、二月に三十二歳の誕生日を迎えたことになる。
 警視庁勤めという仕事柄、日付や年齢を記録に残す機会は多いが、その都度、徳川幕府時代の書き方でよいのか欧米式に従うべきなのか、しようもないことに頭を悩ませる。
 この世を去った人間も、近ごろの墓参りはどうなっているのかと、あの世で戸惑っているに違いない。
 六月初旬である。そろそろ気候は夏めいて、あたりは若葉の青臭い匂いに満ち、梅雨入りの声も聞こえている。今日は偶然、よく晴れた。濃青の空の色が田圃の水に映り込み、凪いだ湖のように輝いている。
 日野の石田村まで、東京の中心にある藤田の自宅からおよそ八里半。朝に家を出て、昼前には目的地に着いた。広々とした田園の只中に建つ石《せき》田《でん》寺《じ》は、土方歳三の生家の菩《ぼ》提《だい》寺《じ》である。
 土方姓は、日野ではさほど珍しくない。幕府から苗字を名乗ることを許された豪農の家系だ。石田寺の墓地には土方姓の墓石が林立しており、土方歳三の墓を見出すまでに少々骨が折れた。たどり着いた墓前には、青々とした芝と咲き初めの花が供えられていた。
「久しぶり、土方さん。会いに行くという約束、なかなか果たせなくて申し訳なかった」
 藤田は位牌に記された字を目で追った。
 歳進院誠山義豊大居士。
 何とも土方歳三らしい戒名だと、藤田は思う。土方は誠義の筋をまっすぐに通し、激震する時の中を駆け抜けるように生きた。
 土方の死から今年で七年になる。旧暦で言うなら、今日が命日の五月十一日だ。新暦の五月十一日は都合がつかず、墓参りを見送った。正しくはどちらの日付を命日とすべきなのか、信心深くない藤田にはわからない。
 否、土方の墓前では警視庁の藤田五郎ではなく、昔の名を呼び起こすのがふさわしかろう。土方と肩を並べて動乱の世に戦ったころ、藤田は、新撰組の斎藤一と名乗っていた。
 墓の下に土方の亡骸《なきがら》はない。旧幕府軍と新政府軍の最終決戦の地、箱館のどこかに埋葬されたと聞いている。
「最後の最後にひどい無茶を仕出かしたらしいな。土方さんが死んだ一本木の関門のあたり、見てきたよ。孤立しかけた弁天台場の島田さんたちの救援のために、銃撃される危険を冒《おか》して、少数で突っ込んでいったそうだが」
 奥羽での戦端が終息した直後、北国は雪に閉ざされ、両軍の決着は翌年に持ち越された。土方たちが拠《よ》った箱館には、旧幕府軍の艦隊を率いた榎本武揚を中心に、小さな政府とも呼ぶべき組織が発足した。箱館の旧幕府軍は冬の間に力を蓄え、巻き返しを図った。
 結局のところ、やはり新政府軍の圧勝に終わった。箱館勢の幹部のうち、討ち死にしたのは土方だけだ。ほかは皆、新政府軍に降伏して一定期間の服役の後に釈放され、今は開き直ったように、新しい時代を生きている。
 ゆえに、土方の真意を疑ってしまう。新政府軍との最終決戦に当たって、土方は自ら死を求めたのではないか。新しい生き方など拒む道を、武士としての己に課したのではないか。
「憶測に過ぎないか。違うなら、そう抗議しに化けて出てくれよ」
 墓石も青空も応えない。
 色白で秀麗な顔があでやかに微笑むところも、涼しい声が得意げに俳句を披露するところも、まるで昨日のことのように斎藤は思い出せる。艶やかな黒髪を乱して刀を振るえば、戦いぶりは存外、泥臭く荒っぽかった。何をしても、土方は格好がよかった。
 ふと、墓地に男が現れた。
 迷いのない大股で歩いてくる姿に、斎藤は息を呑んだ。かつての仲間、新撰組二番隊組長だった永倉新八だ。風の噂で戊《ぼ》辰《しん》の役《えき》を生き延びたとは聞いていたが、連絡を取る手段もなく、それっきりになっていた。
 永倉も、土方の墓前に佇《たたず》む斎藤に気が付いたようだ。とっさに訝《いぶか》しげにしかめられた顔は、すぐに開けっ広げに微笑んだ。手にした大きな酒瓶を振って、永倉は懐かしい大声を上げる。
「斎藤! ようやく会えたな。いや、いつかは会えるんじゃないかと期待して、できる限り皆の命日には墓参りをしようと思い立ったのが去年のことなんだが。京都で島田さんの消息を聞いたぞ」
「元気そうだな、永倉さん。島田さんも生きてたのか。よかった」
「島田さんは京都で剣術道場を開いてるらしい。斎藤と会うのは八年ぶりか? あまり変わってねぇな。髪が短くなったくらいか」
「永倉さんは老けた」
「うるせぇよ。まあ、三十路も終わりが見えてくりゃあ、いくらか白髪も交じってくるさ。おまえはまさに男盛りってところだな。変わっちゃいないが、うん、いい面構えになった。今、東京に住んでるんだろう?」
「ああ、東京だ。警察で働いている」
 永倉は、新撰組では斎藤と比肩する豪剣の使い手として一目置かれていた。体付きや身のこなしを見るに、今も鍛錬を怠《おこた》ってはいないらしい。
 近藤勇の道場、試衛館に集った剣士が新撰組の中核を担《にな》ったが、その九人の仲間のうちで生き残ったのは斎藤と永倉だけだ。たった二人になってしまったと、斎藤は永倉との再会によって改めて痛感した。
 斎藤は同い年だった沖田総司と藤堂平助を置き去りにして年を重ね、原田左之助の年齢を追い越し、山南敬助の享年に並び、もうすぐ近藤勇と土方歳三の享年に追い付く。最年長だった井上源三郎も四十で逝ったから、今思えば、死ぬにはまだ早かった。
 永倉は土方の墓前に酒瓶を供え、斎藤の顔をのぞき込んだ。
「警察に就職とは意外だな。薩長に顎《あご》で使われる仕事だろうに、よく耐えていられるもんだ」
「耐えるさ。本心を隠して働くのは得意だ。永倉さんは今どこに?」
「北海道の小樽だ。会津が戦をしていたころ、こっちは日光街道あたりで暴れていたんだが、察しのとおりさ。にっちもさっちもいかなくなって降伏。謹慎を経て、松前藩士の親父の縁で、さる名家の婿養子に入った。今は悠々自適の剣術師範だよ」
「永倉さんも所帯を持ったのか」
 何気なくうなずいた後、永倉は、はたと身を乗り出した。
「斎藤、その口振り、まさかおまえも所帯を持ったのか?」
「まさかって言い方はないだろう」
「まさかだよ! 驚くよ、あの斎藤一が所帯持ちかよ! いつ祝《しゅう》言《げん》を挙げたんだ? 相手はどこの誰だ?」
「祝言は、二年ほど前。正式に警視庁に採用されてからだ。相手は、会津藩の高木時尾」
「時尾どのか。なるほど納得だが、待たせすぎだぞ、おまえ。京都で出会ってから祝言まで、えぇと、ちょうど十年経ってんじゃねぇか。あんな美人を焦らしまくるとは、何やってんだ、馬鹿野郎」
「永倉さん、誤解だ。最初からそのつもりだったわけじゃない」
「じゃあ、いつからだ? いつ時尾どのに惚れた? おまえ、戊辰の役では最後まで会津に附いていたらしいな。斗南にまで行ったんだろう? それも時尾どのがいたからか? そういやあ、斗南は廃止されてほとんどの藩士が会津に戻ったそうだな。よかったな」
 いちどきにあれこれ言われて返答に窮する斎藤を笑い飛ばし、永倉は土方の墓石に語り掛けた。
「土方さん、聞いたかい。無愛想な朴念仁で危なっかしかった斎藤が、しっかり者の嫁さんをもらったってさ。こりゃあ、酒を開けてやるしかねぇよな」
 永倉は、墓前に供えた酒瓶を取って蓋を開け、土方の墓石の上で引っ繰り返した。芳醇な香りが青空の下に広がる。永倉は、次は自分が酒瓶に口を付けて呷《あお》り、心地よさそうに息を吐いた。
「おら、おまえも飲め」
 突き付けられた酒瓶を受け取ると、まだ半升ほどは残っている。斎藤は喉の渇きを思い出した。朝から歩き詰めだったのだ。酒を喉に流し込めば、さっぱりとして辛い。
「うまい」
「当たり前だ。土方歳三と永倉新八がおまえの祝言を記念して開けた酒だぞ。うまいに決まってるだろうが。斎藤が生き生きして男ぶりが上がったように感じたのは、間違いじゃなかったな。今、幸せなんだろう?」
「どうだろう。会津公からも、つい先日、似たようなことを言っていただいたが」
「懐かしいお名前が出たな。会津公が祝福してくださったのか」
「祝言では上仲人を務めていただいた」
「そりゃあ幸先がいい。果報者だな、おまえ」
 会津藩ゆかりの重鎮たちに見守られての祝言だった。上仲人は松平かた保《もり》が自ら買って出た。下仲人は鬼佐川こと佐川官兵衛、彼岸獅子の奇策で気を吐いた山川おお蔵《くら》、斗南で世話になった倉沢平治右衛門だった。容保の姉、照姫からも祝いの句が贈られた。
 藤田五郎という名も容保から祝福を受けた。もともと深い意味のない、出稼ぎの職を得るために付けた名だった。しかし容保は、藤の字はやはり雅であるし、五郎ならば会津の訛りがあっても呼べるだろうと、時尾に笑い掛けた。
 宴席で仲人たちが暴露したところによると、時尾が藤の字を好いているらしく、また、斎藤の名を「一《はずめ》さま」と訛るのをひどく恥ずかしがっていたという。下の名で呼ばれたことなどないと斎藤が驚いたら、時尾は真っ赤になって黙ってしまった。
 ありふれた夫婦の常で、普段は「旦那さま」と呼ばせている。斎藤も妻の名を口にすることはない。
 ただ時折、無性に愛おしくて、時尾の名を呼ばずにいられなくなる。そんなときは時尾にも、名を呼んでくれと求める。訛っていてもかわいらしいものを、時尾はやはり「一《はずめ》さま」と呼んではくれない。
 だから斎藤は、藤田五郎になった。一でも五郎でも、どちらでもいいのだ。妻の声で呼び掛けてもらえるのなら。
 永倉が斎藤の手から酒瓶をかっさらい、ぐいと呷《あお》って斎藤に投げ返した。
「今日は、奥方は一緒じゃなかったのか?」
「ああ。具合があまりよくない」
「病気か? おまえが気苦労を掛けているんじゃないのか?」
「いや、病気ではなくて……できたらしい。その、赤子が」
 永倉は目を丸くし、斎藤の顔をまじまじと見つめ、満面をくしゃくしゃにして笑った。
「そういうめでたいことは、さっさと言え!」
「でも、まだ産まれてもいない」
「土方さん、聞こえたか? あの斎藤一が今、こんなにひたむきに生きてるよ。空の上で喜んでやってくれよ。元気な子が産まれるように見守ってやってくれ!」
 空に向けて叫んだ永倉につられて、斎藤も空を仰いだ。田園を渡った風が青く香って吹き過ぎていく。どこかで鳥が鳴いた。
 太陽のまぶしさに目を細めながら、永倉の声が届いているなら土方は何と言ってくれるだろうかと、斎藤は思い描いた。
 きっと土方は、小《こ》洒落《じゃれ》た口調で冷やかし交じりに、そのくせ真心をたっぷりと込めた言葉を、掛け値のない微笑とともに贈ってくれる。
「さっさと逝っちまったことを後悔しないでくれよ。オレも生き延びたことを後悔しないから」
 別々の咲き方をして、花を散らすときもまた異なった。どちらが正しいわけでも間違っているわけでもなく、ただ同じ旗印の下、互いを誇りながら咲いた。
 風がまた渡った。
 斎藤は空へ、そっと微笑み返した。
【了】

respect for;
土方歳三(1835-1869)
斎藤一(1844-1915)
新撰組
and
会津藩

BGM;
BUMP OF CHICKEN『メロディーフラッグ』
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