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ー・最終閑話・陰にある村・ー
・
しおりを挟むその村は、地図で言えば、左上の辺りにあるのだろうと思う。
というのは、その村自体が隠されていて、地図に記されていない為だ。
私はとある時期に、その村を訪れたことがあった。
何かのタイミングで、ふとした拍子に。
そして、世界が作る迷路で迷子になっていた私を、誰かが助けたみたいに。
ーーーー
「よくぞいらっしゃいました。
何分作りも古いし、出せるものもお茶ぐらいなものですが。ゆっくりしていってください」
私は右腕を怪我していた。包帯に血が染み出てきている。私がぞんざいに結びつけ、砂と埃で汚れてしまっていた包帯を、村長の指示で新しく付け替えてくれたのだった。
見たこともない作りの柔らかな床の上で、私は何となく落ち着かない気持になる。
村長は、そんな私の気持ちを察したのか、気遣うような口調で言った。
「ああ、これはタタミという、古来の敷物でしてな。いい匂いがするでしょう。きちんと手入れをすれば、何年も保ってくれますし、何よりも夏は涼しく、冬は暖かいのです。
外の人には、慣れないものかも知れませんが……」
だが、私にはその床から仄かに漂ってくる草の香りがとても気持ちよかった。
「いえ。とてもいい匂いです。それに、この床はとても柔らかいですね。他では見たことがありませんが、こちらでずっと作られているのですか?」
私が問いかけると、村長は深い皺の刻まれた優しげな目尻を更に緩め、目を細めて答えた。
「……ええ、とても古くから。
私達の一族は、外との交流を厳重に制限しているので、独自の文化を保つことができているのです。
ですから、外の世界がどうなっているのかは、私たちは殆ど知りません……あなたの跨っていなさった、あの大きな馬のような乗り物も、初めて目にしました。
大変、驚きましたよ。あんな物が外の世界にはあるのですね」
私はここに、目隠しをされて連れてこられたことを思い出す。バイクはその時、私の元を離れたのだが、村長の言い方からすると、悪い扱いは受けていないようだった。その事を伺い知れて、私はほんの少しだけ安堵する。
目の前の敷布の上に置かれた、お茶の入った取手の付いていない陶器のカップと、粉が塗されているらしい、丸い食べ物を見つめる。陶器の皿の上のそれは、何かの練り物のようだ。
老人が私を安心させるように、自分の前にあったカップを両手で持ち上げ、静かな音を立てて啜る。
軽い湯気が上がったそれを、美味しそうに息を吐いて、ゆっくりと下ろし、老人は言った。
「このお茶も、そのお餅も、ここの畑で取れる植物を使った、天然のものです。私達は出来る限り、こうして自分達に必要な分だけの食べ物を作り、自然に感謝しながら、大事に頂いています。
……どうぞ、召し上がってみてください。とても美味しいですよ」
村長は慣れた手つきで、小さな棒をお餅に突き刺して、器用に細かく割った。そしてそのまま口に運び、お茶をまた、音を立てて飲んだ。
ほう、と息を吐いて幸福そうな表情を見て初めて、私は自分の口の中が唾液でいっぱいになっていることに気付いて、少し恥ずかしくなった。
それから、自然とお茶に手を伸ばし、両手で持ち上げ、試みに少しだけ、飲んでみた。
美味しかった。深い、草の香りがする。コーヒーとはまた違う、別種の旨味の世界がそこにはあった。経験したことがない味わいを、そのお茶は持っていた。
続いてお餅を、ぎこちない手つきで棒を突き刺し、細かく切る。
が、意外に難しく、私がなかなか切れないでいると、村長が言った。
「ほほ……。どうぞ、ご自由な所作で、召し上がられてください。
子供らや男衆などは、そのまま手掴みで食べる者もいます。それもまた、お勧めの召し上がり方です」
そう言われて、私は諦めて棒を皿の横に置き、霜の中に緑がさしたようなそのお餅を手に取ってみる。触わってみて、その柔らかさに私は驚いた。
そして、そのまま何も言わずに頬張ってみる。
仄かな甘みと、お茶と同じ草の柔らかな香り。美味しい。
そう言えば、もう何日も、まともな食事も休憩もとっていなかった。
そう気付いてからは、私は体が求めるままに、餅をあっという間に貪り尽くし、それからお茶も一気に飲み干して、息をついた。
村長が私の様子を暫く見てから、ゆっくりと立ち上がって、言った。
「あなたがもし宜しければ、村の中を案内したいと思うのですが。
いかがでしょう?」
私は口を拭いながら、答えた。
「いいんですか? ここは、外部の人間に知られてはいけないのでは……」
村長は柔らかく微笑んでから、言った。
「今、あなたの様子を観ていて、あなたなら大丈夫だろう、と、思いまして。
何、変なことはしませんでしょう?
私達の、自慢の村です。
どうかお寛ぎになって、ごゆるりとご覧になっていってください」
私は、村長が勧めるまま、村の中を見て回ることになった。
子供達の可愛らしい笑い声が聞こえてくる。
非常に大きな瓶が、澄んだ水をなみなみと湛えている。そこに木を割って作った棒が斜めに立てかけられており、水が時折そこから流れ落ち、その度に棒が落ち、カーンと鳴った。
その音と、緩急のある棒の動きに、子供達は喜んでいるようだった。
私達が見ていると、子供達が気付いて、保護者らしき大人の女性を、伺うように見る。女性が優しく微笑み、頷くと、子供達が嬉しそうに駆けてきた。
「お姉さん、どこから来たの? でっかい怖い乗り物、あれ、お姉さんの?」
「お姉さん、幾つ? 俺、七つ! もう竹馬乗れる」
「ここに住むの?」
私は座っていた縁側から立ち上がると、彼等の前でゆっくりとしゃがみ、視線を合わせた。
彼等の顔が大きくなって、私の前で一つの世界が生まれる。
子供達の無垢な瞳を見ながら、私は丁寧に、一人一人に答えていった。
その度に子供達は、時に難しい表情を浮かべたが、質問を止めることはなかった。
私はそこで結構な時間を、子供達と過ごした。
村長が私を呼んだので、私は子供達に別れを言って、離れた。
「子供に好かれるのですね。やはり、私の目に狂いはなかったようです。あんなに懐かれる人は、そう多くない」
「いえ、まあ……子供達と接する事がそこそこあって、多分、そのせいだと思いますが……」
「そうでしょうか。もしそうだとしても、それは素晴らしい事ですよ。子供達と仲良く出来るということは」
「……そうでしょうか」
私の返事に、村長は微笑みを返すと、それから、今度は畑の方に行ってみましょう、と言って、先を歩いていった。
私はその後ろをついて行った。
世界には、こんな場所もあるのだと、私は静かに独り思う。
目の前に広がる、どこまでも続いているかのような、美しい深緑で作られた階段を見て。
深い靄がかかった峡谷の間に、滑らかな輪郭を抱いた畑が、幾つも葛折りに並んで奥へと続いている。
茶畑です、と村長は言った。
「先程、お飲みになりましたでしょう、あのお茶ですよ。この峡谷で作っています。
あのお餅の中にも、練り込まれているのですよ。
とても繊細な植物ですが、しかし、かけた愛情と労力には、必ず報いてくれます。
素晴らしい植物です。
我々は、キカイの持つエネルギーというものを使いません。
その代わり、私たちは己の持っているエネルギーを大切にします。そしてその力で、日々田畑を耕し、生きる糧を自然から、有難く頂戴しています。
生きるということは、誠に不思議なもので、私達は時々、そういう漠然とした物事に頭を巡らせます。
生きるとは、何と複雑な作りをしていて、奥深いものなのだろう、と。
……あなたは、そうは思いませんか? 運び屋のヴェロニカさん。
外の世界は、ここの世界とはどう違うのでしょう? それとも、あまり変わりませんか?
生きるとは、不思議な物ですね」
私は、少し間を置いてから、堪えた。
「私の生きていた世界では、冷徹さだけが真実のような世界でした。
そこには温かみは存在せず、いえ、ある事にはあるのですが、この場所のように、隠さず享受できるような性質のものではありません。常に試されていて、脅かされている……故に、その脅威となるものから自分達の命を守る、そのことから生きるということが派生的に生じる、そんな風に感じます。
私はたまたま、強い体で、比較的自由な身分で生まれ、自分を守ってくれる親切な人達に、偶然出会うことが出来た……。
そして、そのお陰で、こんな素晴らしい所にまで来ることができた……。
何の縁があってか、知りませんが。
……でも、最近は、生きるということがどういう事なのかは、少しだけですが、わかったような気もするのです」
私は、村長に向き直った。
村長は、優しい黒い瞳で、私のことを見返していた。
「それは、一体何でしょう? 非常に興味があります。
……あなたにとっての、生きることというのは」
私は深く息を吸って、それから深い溜めを込めて、言った。
「自分の決断を、決して無にしないことです。そして、己を裏切らない事です。決して。
己の魂に恥じないために」
村長は微笑んだまま、黙って私の言葉を受け止めてくれていた。
辺りは静寂に包まれ、木々が風に揺れる音だけが響いていた。
村長は最後に、私に言った。
「その事を、決してお忘れにならないように。
ご自身の為に」
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