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しおりを挟むその元航海士は、ひび割れた唇を徐に開き、私の目をつぶらで寂しげな瞳で見つめながら、ゆっくりとした口調で語り始めた。
「始めは何もなかったんだ。特に何も、語るべきことは。でも奴らがきた。出し抜けに、何の前触れもない中で。それはまるで嵐みたいだった」
私は彼の言葉を紙に書き記す。私の動かすペンがカッ、コッ、と小気味良く小さな部屋全体へと広がってゆき、やがて染み通って何も聞こえなくなっていく。
元航海士は、百の海を旅したと所属する記者クラブでは言われている。彼がどれだけ長い間海の上で過ごしてきたのかも、その中で何人もの人々と出逢い、別れ、それから喜びを分かち合い、涙を流し合ってきたのかも。
彼の瞳は何もない空中を彷徨っていて、そこにある筈もない何かを必死で探し求めているみたいに見えた。何もないことを彼自身が既に分かっているのにその行動がやめられないかのように。
私は何も言わずにその物言わぬ寂しげな黒い瞳を見つめている。
元航海士は何も言わず、物陰から酒瓶を取り出した。年季の入ったボトルの中で、琥珀色の液体が海のように揺れている。
寂しさを紛らわせるかのように元航海士はそのボトルを名残惜しげに揺らしながら、私の顔に片目で視線を投げかけてきている。
元航海士の男はそのボトルを、ひゅっと弓の弦を引っ張るときのように鳴らすと、そのまま空いていた埃の浮かんだ透明なグラスに注ぎ始めた。琥珀色の液体が躊躇いがちにグラスへと注がれていき、仄かに樽のような香ばしい匂いが漂ってくる。
私の指は微かに記録用紙の上で揺れて、男が何かを語り始めるのを静かに待っている。悲しみが酒の匂いと共にこぼれ出したかのように、部屋の輪郭が立体感を帯び始め、私は急速に覚醒したような感覚を覚えた。
元航海士の男は、雑木林のように深々と蓄えられた濃い髭の間から、呟くように言葉を紡いでいく。
「あいつらは人間ではなかった。だからそれ故に、俺達の理を超越していた」
私は今の言葉を一言一句違えないように慎重に紙に書きつけていった。彼の瞳が、酒を飲みながらでも私の指の一点に向けられているのが伝わってくる。その熱量で指の表面が焦げ付いてしまいそうだった。
酒を飲んでいる彼の表情はとても物憂げで、色々な物に対する諦めのような気配が漂っていた。諦めることで、何か別のものを必死で守ろうとしているかのようにも感じられる。
「お前さんが来たのは何故だ?」
グラスを卓の上に置いて、彼は言った。私のことを疑わしげに見つめながら。
何もない部屋。いや、何もないということはない。ただ、分厚い埃と一緒に、一度も受け止められたことのない悲しみが、部屋全体に、家具や寝具の一つ一つの片隅にまで静かに染み込んで、離れ難くなっている。この老人の醸し出す雰囲気がそのまま、部屋全体の空気を形作り、まるでこの老人と部屋が一体となっているかのように。
私は都心の新聞社から寄越された一介の新米記者に過ぎない。そう型通りに伝えようとすると、「いや」と老人は言い、重たげに手を持ち上げて諌めるように向けてくると、「わかった」と短く言い渡して、ゆっくりと酒を飲んだ。グラスからではなく、今度は瓶から直接飲んでいた。
辺りを包み込む物言わぬ静寂と、老人が放つ物憂げな雰囲気に、私は次第に気詰まりな思いを感じ始めていた。老人はこちらに気を払う様子もなく、ただ先程から酒瓶をあおり続けている。
右上部に貼られた明かり取りのような窓が、風で揺れて、その後に小さな雨粒がパッと張り付き、風に流されて横に広がった。私はその雨と風の一連の動きを見ながら、いや、何も変わらないのかもしれないと思った。
老人は頭を下ろし、何故か酒を飲むのをやめて私の方を見てきた。濁り切った義眼のような淡く黒い眼で。
「奴らはこの海の存在じゃねえ。いや、多分、もっと別の何かだ。俺たちの住んでる世界の、そんなありふれた、スーパーに行けば酒が買えちまうような、そんな単純なーー……あんた、人が喰われる所は見た事があるかい?」
私は首を振った。それから今の言葉を紙に書きつけることを忘れていたと思い、慌ててペンを走らせた。
老人は足を組み、胸の前で腕を組んで、それから天井の方を見ている。そこを見ることで何かを思い出そうとしているのだ。彼の大切な、忘れることのできない、この部屋に充満する悲しみの根源であるような物語を思い出すために。
「あれは確か、とても暑い日だった。太陽の熱で焦げちまうんじゃないかと思うぐらい、日差しがきつい日でね。あれは本当に参った……」
私は今の言葉を忘れないうちにメモをする。それから、帰って自分の日記帳にも書くことを思い始める。理由は分からない。だが彼の話す物語が、その言葉が、自分にとって計り知れないほど重要であるという直観に駆られたのだ。
老人は静かに話し始めた。長い間封じ込められてきた瓶の蓋を開けるように、深い憂鬱を感じながらも、そこから解放されることに対する喜びを抱くようにして。
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