元航海士の小さな話

星兎

文字の大きさ
2 / 2

しおりを挟む


 深い眠りのようだった。老人は次のように長々と語り始めたーー自身の生い立ちや、これまでに至るかいつまんだ人生録をーーだが私はこの記録帳に記すに当たって、既に周知の事実である出来事に関しては省略させて頂いている。予めご了承頂きたい。

 老人は語っている間、目を殆ど瞑りかけているような、しょぼついた眼差しでいた。酒は手元に置かれたまま一向に触れられることなく、主人を失った酒は忠実な犬のように項垂れたまま再び触れられるのを待っていた。

 老人は語り始めた……



 あれはセパス暦1600年に入って初めての航海だった。よく憶えているよ。昨晩飲んだ酒場の主人が、軍支給の絵の入ったカレンダーを自慢げに見せてきたからな。あれは五月十五日の暑い昼だった。五月なのにやけに暑くてな。海の様子がいつもと違っていて変だった。奇妙な匂いがしたんだ。打ち上げられた鯨がもう何年も放置されていて、匂いが港に溶け込んでしまったような、そんな妙に生臭い、腐ったような匂いがした。だが俺はまあそんな日もあるだろうぐらいにしか思わなかった。今思えばあの判断はプロの航海士としては間違いだった。本当はほんの僅かな違和感でも、海の情報であれば船長や船乗り達全員に知らせておくべきだった。それが航海士の本来の仕事というものだ。

 だが俺はその時、その報告を怠った。良くある海の変化だと思ったんだ。そんな匂いがする日なんて、今まで一度もなかったというのにな。俺は荷物を持って浜辺まで行って、漕ぎ手の待つ小舟まで行った。漕ぎ手は俺のことを良く知ってたよ。名のある航海士だとな。自慢じゃないが俺はそれまで色々な海を航海士として旅してきたし、その殆どを成功させてきた。俺が出来ないことなんて海の中じゃ何もないんじゃないかと、そう当時の若造の俺はそう思っていたんだ。馬鹿な話だろう。船に乗る人間全員の命を預かる唯一の羅針盤が、驕り高ぶって独りで酒を飲んでやがったんだ。誰とも分かち合うことの出来ない、たった一人で飲む酒をな。美味そうに……。

 小舟が動き出して、俺は船に揺られながら、目的の大型船の方を見ていた。大きな、帆布を何枚も備えた、立派な船だった。余程の馬鹿じゃない限り、あんな船を壊しちまうなんてことは出来ねえよ。だが真新しい、まだ航海し始めて間もない船だということは見てすぐに分かった。木や布がまだ塩でかぶれていなかった。良い船というのは雰囲気がある。馬みてえなもんだ。丁寧に扱われているか、普段から良く走らせてもらっているか、餌は潤沢か……。俺はその船を見た時、すぐに思った。この船ならどんな海だって場所だって連れて行ける。俺とこいつが組んだらこの世界では無敵だってな。それが間違いだったって気づくのは、そんなに先の話じゃなかったがな……。

 俺は小舟を降りる時、少し離れた水面に何か奇妙なものを見たと思った。例えるなら、そうだな……白い布のようなものだ。やけに長い、白い絹みたいな布だ。それが何メートルも、船の近くから海岸の手前まで伸びているように俺には見えたんだ。俺にはな。だが船乗りの中でその白いのについて話している奴らは一人もいなかった。一瞬は魚かとも思ったが、そんな長くて白い魚がいるなんて見たことも聞いたこともなかったから、俺はそこでももう一つ誤った。小舟を寄せてちゃんと見ることを怠ったんだ。いや、お前さんが言いたいことは分かる。俺が見に行ってそこで奴らに食い殺されていたらここで話すこともできなかっただろう、だから結果的には良かったのだろう、とな。いや、お前さんはそんなことは言わんか。まあいい。話を続けるとしようか。

 俺は確認を怠るという二度目の誤りを犯してから、船に乗った。本当に立派な船だった。舷に使われている木材が緩やかに軋んで、耳に心地よかった。いつまでも聴いていたい音だった。だがそういうわけにもいかない。俺には仕事がある。俺は船長に話をする為に船の先頭へと歩いて行った。そこでついでにあの白い布のような物についても話をするつもりだった。船長は船乗りらしい日焼けした浅黒い顔をしたまだ若い青年だった。その当時の俺と殆ど歳が変わらなかったんじゃないかと思っている。実際のところは知らないがな。

 俺は船長にも白い布についての話をした。海の上で、白い布のようなものが海岸に向かって揺れていると。そういう魚でもいるのか、と。船長は首を振った。懐から小さな望遠鏡を取り出しながら、船長は俺にも一緒に見るようにと言った。それから二人で俺が見た白い布があった場所が見える船の縁で、そいつを見ようとした。

 だがその時にはもう何もなかったんだ。その白い布みたいなものは。俺は珍しく動揺したよ。そんな事は一度もなかったんだ。自分が見間違いをしてその報告を船長にするなんてことは。どんな些細な事だって、船長には正確に、間違いなく報告を重ねてきたという自負が俺にはあった。だがその青年の船長は望遠鏡を目から離すと、「見えないな」とだけ冷たい口調で言い放つと、俺に向かって望遠鏡を差し出しながら、言ったんだ。

「じゃあ、お気の済むまでこいつで見ていて下さい。俺は出港の準備をしますんで」

 俺は見間違いをした事なんてそれまでには一度もなかった。あそこには白い布みたいな物が間違いなくあったんだ。それが俺達が船から見ようとした途端に見えなくなりやがった。気配を察知して姿を隠したんだ。今の俺には分かる。俺は……奴らの『橋』のような物を見ていたのに、そのままにしていたんだ。船は出航した。俺は望遠鏡を船長に返し、自分の仕事に戻っていった。海図を開き、自前の羅針盤を前に、計画図を練っていった。その仕事は既に前の日には終わらせていたから、後は船の海図に新しく書き込んでいくだけで良かったんだ。仕事としては楽なものだよ。もう何年もやってきたことだったからな……。

 俺は首尾よく仕事をし終えて、自分の持ち物を片付けながら思っていた。船に乗り込む時に見たあれは何だったのだろう、と。その時にはもう船は港を離れていて、数時間が経過していた。船乗り達は精力的に働いて、目的の港までは一週間程度の短い旅になる筈だった。だが、悪夢が起こった。何事もない航海が地獄絵図に変わるその瞬間。お前さん、そんな経験をしたことがあるかい? 突如として何事もなかった穏やかな日常が終わりを告げ、あらゆる認識や理解を超越した出来事が起きるんだ。全く予想もつかない形で……。酒を飲むぞ。良いだろう。お前さんも飲むかい? いいか。分かった……。

 私は老人の口調や声音、表情の変化などを逐一紙に記録しようとしていたが、やがてやめた。ただ言葉の一部を、抜かさないように気をつけながら、要点だけを理解可能な形で留めておくだけにした。そして記録の他は、自分の日記に書けるように、一言一句聞き逃すまいと強く念じるように思いながら、老人の動く喉仏を見つめていた。瓶に入っていた琥珀色の液体が、毒がーー老人の肉体に新たな活力を与えようとしているように見えた。

 私は文字で一杯になった一枚目の紙を捲り、新しい紙を準備した。老人は続きを話し始めた。

 一枚しかない窓を強さを増した雨が叩き、いつの間にか白い筋を形作っている。白い、何故か透明ではない、筋のようなものが。

しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

BL 男達の性事情

蔵屋
BL
 漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。  漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。  陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。  漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。  漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。  養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。  陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。  漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。  仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。  沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。  日本の漁師の多くがこの形態なのだ。  沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。  遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。  内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。  漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。  出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。  休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。  個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。  漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。  専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。  資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。  漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。  食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。  地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。  この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。  もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。  翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。  この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

まなの秘密日記

到冠
大衆娯楽
胸の大きな〇学生の一日を描いた物語です。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

処理中です...