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賢王の裏側1
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(……それからアレシュ様は、数日のうちにブレイハの領地を去って、王宮に戻られたのだったわ……)
心身共に健全となったアレシュは、自分の改革に賛成する者達を集め、手際良く素早く王宮内の改革に乗り出したと聞いている。
その手腕は見事で『幼き少年王』と囁かれていた異名から『賢王』と変わり、王宮内だけでなく、国中からも讃えられるようになった。
とはいえ、すぐに内政が改善された訳ではない。
やはり、古い貴族の思考に沿ったしきたりや政治は、全てを取り除くことは難しく、民と貴族達の意見を擦り合わせながら今の『国と全ての民のための政治』を築いていった。
――そして今、二十歳の若き王は、ようやく安定を始めた王宮に、共に住まう伴侶を探しているという。
その噂を聞いたエステルは、安堵感と、そして言い様のない寂しさが襲った。
八年前のあのプロポーズは、彼にとって思い出に変わり、あの口付けは彼の胸中に封印される。
(それで良いんだわ。彼を支えていけるだけの、若く美しい女性が世の中には沢山いる)
――私は、行き遅れの、しがない家庭教師
少しは、ほんの少しだけ自分のことを思い出して、懐かしんでくれればそれで良い。
そう言い訳しても寂しさに苛まされるのは、あれから手紙一つも寄越してくれないアレシュに対して、
「やはり子供の一時的な熱情で、王宮に戻ったら忘れてしまったのだろう」
という虚しさからだろうか?
エステルは独り身の自分が、酷く惨めだった。
――あの口付けから、私の人生は変わってしまった。
そんな過去を追懐していたエステルに、まさか王宮から迎えにくるとは思わずにいて……
きちがいじみた歓喜に包まれた家族に、迎えの馬車に押し込められ見送られ、エステルは茫然自失のままに王宮に向かう。
徐々に冴えていく頭は事の重大さに、心と身体に、覚悟か拒否か逃避かを選択させようと迫る。
だが、エステル自身で決着がつかないままに、リベラ城に到着してしまった。
――そして
エステルは今、王宮内の一室にいる。
形式に沿った挨拶を交わし――これも事前に、しっかりと叩き込まれた謁見の挨拶だ。
それからエステルは旅の疲れを癒すため、今日一日はゆっくりと休むことを言い渡された。
正式な「王妃教育」は早速明日から始まると伝えられ、与えられた部屋に一人になる。
ぐるりと部屋を見渡せば、目眩を起こしそうなほど、素晴らしく豪奢な内装。
そして室内着も最上の布で仕立てられた、着心地もデザインも素晴らしいティーガウン。
手の甲にかかる半透明のレースには、細やかな刺繍が縫われていた。その図柄の何て素晴らしいことか。
畏まって部屋の隅に控えている侍女に、何て声をかけたら良いのかさえも分からない。生活に余裕のなかったエステルの家庭には、侍女などいたことがなかったからだ。
(せめて迎えにきた侍女頭の方だったら、少しは気安いのに……)
そう思いながら頬に手をあて、息を吐いた。
とはいえ、グダグタしているわけにもいかない。もう、用事はないのだから、侍女には下がってもらおう。
「――あの、あな……」
思い切って声をかけたら、扉からノック音が届く。侍女は、足音も立てず滑るように扉に向かい、開けた。
夜半の訪問者の顔を見てよほど驚いたのか、「あっ……!」と悲鳴のように小さく声をあげ、慌てて大きく扉を開ける。
入ってきた相手にエステルも驚いて長椅子から立ち上がり、略式のお辞儀をした。
突然の訪問者――アレシュは、口元だけ笑みを作り頷くと、侍女を下がらせる。
閉まる扉の音がやけにエステルの耳に響く。徹底的に躾られた侍女の動作だ。実際は大きな音など、たてるはずもないのに。
「エステル?」
アレシュに話しかけられて、我を取り戻したエステルは悩んだ。
何を話して良いか、分からなかったからだ。
昼間に謁見時に交わしたような挨拶で良いのか、それとも、くだけた感じで良いのか――そもそも、どのくらい、くだけていいのか。
(情けない……田舎の家庭教師なんて、この程度だわ)
自分を卑下し落ち込みそうだ。
顔ごと視線をそらし、目を合わせようとしないエステルを見て、アレシュは、
「そんなに緊張しないで。僕は外観は変わったけど、中身はそう変わってはいないよ?」
と微笑んで見せる。
「……変わりました。貴方はもう、あの小さな少年ではありません」
そう言いながらエステルは、反らしていた顔をアレシュに向けて上げた。
なんて眩しいんだろう、彼は。その微笑みはとても甘くて、自分を溶かしてしまいそうだ。
謁見時には整髪剤でまとめていた髪も今は下ろし、額や耳にかかる髪が微かな動きにも揺れ、室内の灯りを取り込み輝く。
自分より背丈も伸び、自分同様に楽な、薄めの生地の服装に着替たせいだろうか? 首筋から肩にかけての男らしいラインがよく分かる。
途端、自分の姿が気になる。
八年の間、彼は子供から大人になり、こうも素晴らしい青年へと変貌を遂げた。
(――私は?)
自分は、婚期を逃した二十代後半の女。若さも張りも絶頂期から過ぎて、後は衰えていくだけ。
そう自分の今を改めてみると、急激に恥ずかしくなった。
その老いた自分の姿をアレシュは、瞳を輝かせて見つめているのだから。
恥ずかしく、また腹立たしい。
アレシュに腹を立てることではないのは理解しているのに、この今の憐れな自分の姿を見せなくてはならない状況に、エステルは憤りを感じていた。
「……まさか、あの時の・・・・約束を覚えていらっしゃるとは思いませんでした」
怒りを抑えて絞り出した言葉も、恨み言だ。
「忘れたことなど一度もない。僕はあの約束があったから、こうしてやってこれたのだから」
無邪気な応えにエステルはまた俯き、そっと唇を噛み締める。
「エステル?」
「私を……笑い者にしたいの?」
「……何故?」
「私は世間からしたら行き遅れ。しかも、婚約者に捨てられケチがついて、まともな結婚話も来ない女。――そんな女を何故『妃候補』として私を呼ぶのです?」
――不幸は八年前。
アレシュが王宮に戻ってから、まもなくのことだった。
オルクが首都にある図書館に、所員として推薦されたのだ。そこは王族の縁の施設であるが民にも解放されている場所で、働いている所員も半数は一般からの推薦だった。
とはいえ、ある程度の学を修めた者達の働き先として羨望の場所である。
その図書館に推薦されたオルクは、嬉々として働きに出た。
『約束通り、一年後に式を挙げて首都で夫婦として住もう』
そのオルクの言葉を信じ、エステルは彼を見送った。
最初は頻繁に手紙のやり取りをしていたが、次第に減っていき、半年後には一通も来なくなった。
エステルから出し続けても、返事は帰ってこない。
不安な日々を過ごし、半年が経ち、エステルは思い切って彼を訪ねに行こうとした矢先――オルクが帰ってきた。
エステルに、別れを告げるために。
首都で彼の上司から、とある女性を紹介され、付き合っていた。
相手は貴族の身分ではないが、羽振りの良い商家の次女で――既に腹に子が宿っているという。
『身の丈に合った家柄の女性の方が、僕にはあっていた』
そう言い残して、恐らく相手の女性の家から積まれた金を置いていった。
『身体を許さなくて良かった』と母は憤慨しながらも、娘の身の固さに安堵していたようだったが、エステルにはかなり堪えた。
二人の間にあった愛は、どこへ消えたのか?
身体を許していれば、違う今があったのか?
悲しみに打ちひしがれている間にも、時は流れる。
アレンカの家庭教師はエステルの結婚まで一年という契約で、ダリナの意見で延期されることはなかった。
それはそうだろう。花嫁教育の一貫なのに、教えを乞う教師が婚約破棄されては、信用して任せられない。
それでも、ブレイハ領主の伝で民間の教室に教師として教壇にたてたのは、幸運だった。
その間にも、幾つか見合いの話がきて幾人かと会ったが、いつの間にか立ち消えた。
そんなことが続き八年。
もう結婚は諦めて、自ら教室を開き子供達に勉強を教えて過ごそうかと、真剣に考えていたのだ。
――そう覚悟を決めた矢先の、王宮からの迎え。
戸惑うのも当然だろう。
「本当は僕が直接、迎えに行きたかったんだよ。ここに来るまでの間、不安だっただろう? すまなかった」
「……本気なのですか? まさか本気で、私を王妃として迎えるつもりなのですか?」
「本気だよ。この想いは八年前から変わっていない」
「こんな……! 行き遅れの……、もう二十代の後半の女など……! お考え直して下さい。私を側においても、王には何も利益もありません!」
アレシュに向かって、きつい表情と声を上げるエステルの瞳には涙が浮かび、今でも溢れ落ちそうだった。
惨めだ。こんな惨めな今の自分を見せることになるなんて。
(どうして、思い出にしておいてくれなかったの!)
そう叫びたかった。
「エステル……何故、そんなに自分を見下すんだ? 貴女は変わっていない。今も美しく知性に溢れているよ。」
「――冗談を……!」
頬に近付くアレシュの大きな手に、エステルは息を飲む。
触れようとする手の何て熱いことか。
「君を妃として迎え入れたいと家臣達に伝えた時、君が言ったことと似たような意味を告げて、反対した者もいた。――でも、僕は根気よく説得を繰り返した。今は君との結婚に反対するものはいない」
「……それは、嘘です……」
エステルは、アレシュの熱い手から逃れるように首を振る。
「恐らくね、表面だけの賛成の者達もいるだろうよ」
そう言いながら、後ろに下がっていくエステルの腰を掴むと、強引に引き寄せた。服の上から触れられても、アレシュの熱が伝わる。
エステルにはこの熱さが怖い。遠い過去に感じたことのある、欲を孕んだものだ。
オルクだったか
幼き王だったか
だが――それを身に受けたことのない彼女には、恐怖でしかなかった。
「……賛同の裏の顔で、僕と君の結婚を無いものにしようと動く者達が、現れるかもしれない。そんな者達が恥ずかしくなるほどに、僕達の仲睦まじい様子を見せないとならない」
「そんな必要はありません……!」
アレシュの身体の熱さから逃れようと、無理矢理彼から離れる。それでも迫ってくる彼からエステルは、よろめきながらも後退した。
「何故?」
逃げるエステルに、絶えず微笑み迫るアレシュは、何度も彼女にそう問いた。
「私は、この結婚も王妃になることも、承諾はできないからです……!」
「――そう言うと思っていたよ」
長椅子に躓き、倒れるようにそこにしゃがんだエステルに、アレシュは覆い被さるように手を付いた。
「僕の意思は変わらない。君を妃に迎え入れる。大丈夫、その為に明日から王妃教育が始まるのだから。保証する、君は立派な素晴らしい王妃になれる」
どこから、そんな確信が生まれるのか?
――真っ直ぐに自分を見つめる、アレシュの笑顔が怖い。
どうして自分がこうして理由があって拒否をしているのに、それをかわして無視をして勝手に話を進めているのか。
「なれるはずがないのです……! 私は王妃として相応しい女ではありません! お考え直して! 幼い頃の恋心が妄想に膨らんだだけです!」
不意にアレシュの指がエステルの唇に触れ、なぞる。
「妄想かどうか、これからすぐに分かる。僕の思うエステルと同じ熱さを持つのか……分からせてあげよう、皆に」
「……アレシュさ……!」
アレシュの顔が近付き、あっという間に唇を塞がれた。湿った唇に、自分の熱よりずっと高い体温を感じる。押し付けられる身体は、重くも逞しい。
「い……や! ……お、う……!」
角度を変えて唇をずらされる度にエステルの口から、呼吸と共に拒絶の言葉が吐き出される。
どうにかして逃れようと自由のきく腕で、アレシュの肩を必死に引き離そうとするが、びくともしない。
そのうちにアレシュの手が胸に触れはじめ、エステルは短い悲鳴を上げて身体を固くした。
「まだ男と身体を添わしたことはないようだ、と報告があったけど事実なようだね。――良かった」
安堵のような息を吐かれ、呟かれた言葉にエステルは、顔を真っ赤にするほどに動揺する。
「――なっ……! わ、わるうございました! 行き遅れですから! だから……! こんな女、人から見ればきっと、どこか問題があるのです! 諦めてください!」
顔を赤くして怒りを見せたエステルだったが、アレシュの言葉に、今度は真っ白に顔色を変える。
「エステルに問題など無い。君の結婚を潰したのは僕だから」
心身共に健全となったアレシュは、自分の改革に賛成する者達を集め、手際良く素早く王宮内の改革に乗り出したと聞いている。
その手腕は見事で『幼き少年王』と囁かれていた異名から『賢王』と変わり、王宮内だけでなく、国中からも讃えられるようになった。
とはいえ、すぐに内政が改善された訳ではない。
やはり、古い貴族の思考に沿ったしきたりや政治は、全てを取り除くことは難しく、民と貴族達の意見を擦り合わせながら今の『国と全ての民のための政治』を築いていった。
――そして今、二十歳の若き王は、ようやく安定を始めた王宮に、共に住まう伴侶を探しているという。
その噂を聞いたエステルは、安堵感と、そして言い様のない寂しさが襲った。
八年前のあのプロポーズは、彼にとって思い出に変わり、あの口付けは彼の胸中に封印される。
(それで良いんだわ。彼を支えていけるだけの、若く美しい女性が世の中には沢山いる)
――私は、行き遅れの、しがない家庭教師
少しは、ほんの少しだけ自分のことを思い出して、懐かしんでくれればそれで良い。
そう言い訳しても寂しさに苛まされるのは、あれから手紙一つも寄越してくれないアレシュに対して、
「やはり子供の一時的な熱情で、王宮に戻ったら忘れてしまったのだろう」
という虚しさからだろうか?
エステルは独り身の自分が、酷く惨めだった。
――あの口付けから、私の人生は変わってしまった。
そんな過去を追懐していたエステルに、まさか王宮から迎えにくるとは思わずにいて……
きちがいじみた歓喜に包まれた家族に、迎えの馬車に押し込められ見送られ、エステルは茫然自失のままに王宮に向かう。
徐々に冴えていく頭は事の重大さに、心と身体に、覚悟か拒否か逃避かを選択させようと迫る。
だが、エステル自身で決着がつかないままに、リベラ城に到着してしまった。
――そして
エステルは今、王宮内の一室にいる。
形式に沿った挨拶を交わし――これも事前に、しっかりと叩き込まれた謁見の挨拶だ。
それからエステルは旅の疲れを癒すため、今日一日はゆっくりと休むことを言い渡された。
正式な「王妃教育」は早速明日から始まると伝えられ、与えられた部屋に一人になる。
ぐるりと部屋を見渡せば、目眩を起こしそうなほど、素晴らしく豪奢な内装。
そして室内着も最上の布で仕立てられた、着心地もデザインも素晴らしいティーガウン。
手の甲にかかる半透明のレースには、細やかな刺繍が縫われていた。その図柄の何て素晴らしいことか。
畏まって部屋の隅に控えている侍女に、何て声をかけたら良いのかさえも分からない。生活に余裕のなかったエステルの家庭には、侍女などいたことがなかったからだ。
(せめて迎えにきた侍女頭の方だったら、少しは気安いのに……)
そう思いながら頬に手をあて、息を吐いた。
とはいえ、グダグタしているわけにもいかない。もう、用事はないのだから、侍女には下がってもらおう。
「――あの、あな……」
思い切って声をかけたら、扉からノック音が届く。侍女は、足音も立てず滑るように扉に向かい、開けた。
夜半の訪問者の顔を見てよほど驚いたのか、「あっ……!」と悲鳴のように小さく声をあげ、慌てて大きく扉を開ける。
入ってきた相手にエステルも驚いて長椅子から立ち上がり、略式のお辞儀をした。
突然の訪問者――アレシュは、口元だけ笑みを作り頷くと、侍女を下がらせる。
閉まる扉の音がやけにエステルの耳に響く。徹底的に躾られた侍女の動作だ。実際は大きな音など、たてるはずもないのに。
「エステル?」
アレシュに話しかけられて、我を取り戻したエステルは悩んだ。
何を話して良いか、分からなかったからだ。
昼間に謁見時に交わしたような挨拶で良いのか、それとも、くだけた感じで良いのか――そもそも、どのくらい、くだけていいのか。
(情けない……田舎の家庭教師なんて、この程度だわ)
自分を卑下し落ち込みそうだ。
顔ごと視線をそらし、目を合わせようとしないエステルを見て、アレシュは、
「そんなに緊張しないで。僕は外観は変わったけど、中身はそう変わってはいないよ?」
と微笑んで見せる。
「……変わりました。貴方はもう、あの小さな少年ではありません」
そう言いながらエステルは、反らしていた顔をアレシュに向けて上げた。
なんて眩しいんだろう、彼は。その微笑みはとても甘くて、自分を溶かしてしまいそうだ。
謁見時には整髪剤でまとめていた髪も今は下ろし、額や耳にかかる髪が微かな動きにも揺れ、室内の灯りを取り込み輝く。
自分より背丈も伸び、自分同様に楽な、薄めの生地の服装に着替たせいだろうか? 首筋から肩にかけての男らしいラインがよく分かる。
途端、自分の姿が気になる。
八年の間、彼は子供から大人になり、こうも素晴らしい青年へと変貌を遂げた。
(――私は?)
自分は、婚期を逃した二十代後半の女。若さも張りも絶頂期から過ぎて、後は衰えていくだけ。
そう自分の今を改めてみると、急激に恥ずかしくなった。
その老いた自分の姿をアレシュは、瞳を輝かせて見つめているのだから。
恥ずかしく、また腹立たしい。
アレシュに腹を立てることではないのは理解しているのに、この今の憐れな自分の姿を見せなくてはならない状況に、エステルは憤りを感じていた。
「……まさか、あの時の・・・・約束を覚えていらっしゃるとは思いませんでした」
怒りを抑えて絞り出した言葉も、恨み言だ。
「忘れたことなど一度もない。僕はあの約束があったから、こうしてやってこれたのだから」
無邪気な応えにエステルはまた俯き、そっと唇を噛み締める。
「エステル?」
「私を……笑い者にしたいの?」
「……何故?」
「私は世間からしたら行き遅れ。しかも、婚約者に捨てられケチがついて、まともな結婚話も来ない女。――そんな女を何故『妃候補』として私を呼ぶのです?」
――不幸は八年前。
アレシュが王宮に戻ってから、まもなくのことだった。
オルクが首都にある図書館に、所員として推薦されたのだ。そこは王族の縁の施設であるが民にも解放されている場所で、働いている所員も半数は一般からの推薦だった。
とはいえ、ある程度の学を修めた者達の働き先として羨望の場所である。
その図書館に推薦されたオルクは、嬉々として働きに出た。
『約束通り、一年後に式を挙げて首都で夫婦として住もう』
そのオルクの言葉を信じ、エステルは彼を見送った。
最初は頻繁に手紙のやり取りをしていたが、次第に減っていき、半年後には一通も来なくなった。
エステルから出し続けても、返事は帰ってこない。
不安な日々を過ごし、半年が経ち、エステルは思い切って彼を訪ねに行こうとした矢先――オルクが帰ってきた。
エステルに、別れを告げるために。
首都で彼の上司から、とある女性を紹介され、付き合っていた。
相手は貴族の身分ではないが、羽振りの良い商家の次女で――既に腹に子が宿っているという。
『身の丈に合った家柄の女性の方が、僕にはあっていた』
そう言い残して、恐らく相手の女性の家から積まれた金を置いていった。
『身体を許さなくて良かった』と母は憤慨しながらも、娘の身の固さに安堵していたようだったが、エステルにはかなり堪えた。
二人の間にあった愛は、どこへ消えたのか?
身体を許していれば、違う今があったのか?
悲しみに打ちひしがれている間にも、時は流れる。
アレンカの家庭教師はエステルの結婚まで一年という契約で、ダリナの意見で延期されることはなかった。
それはそうだろう。花嫁教育の一貫なのに、教えを乞う教師が婚約破棄されては、信用して任せられない。
それでも、ブレイハ領主の伝で民間の教室に教師として教壇にたてたのは、幸運だった。
その間にも、幾つか見合いの話がきて幾人かと会ったが、いつの間にか立ち消えた。
そんなことが続き八年。
もう結婚は諦めて、自ら教室を開き子供達に勉強を教えて過ごそうかと、真剣に考えていたのだ。
――そう覚悟を決めた矢先の、王宮からの迎え。
戸惑うのも当然だろう。
「本当は僕が直接、迎えに行きたかったんだよ。ここに来るまでの間、不安だっただろう? すまなかった」
「……本気なのですか? まさか本気で、私を王妃として迎えるつもりなのですか?」
「本気だよ。この想いは八年前から変わっていない」
「こんな……! 行き遅れの……、もう二十代の後半の女など……! お考え直して下さい。私を側においても、王には何も利益もありません!」
アレシュに向かって、きつい表情と声を上げるエステルの瞳には涙が浮かび、今でも溢れ落ちそうだった。
惨めだ。こんな惨めな今の自分を見せることになるなんて。
(どうして、思い出にしておいてくれなかったの!)
そう叫びたかった。
「エステル……何故、そんなに自分を見下すんだ? 貴女は変わっていない。今も美しく知性に溢れているよ。」
「――冗談を……!」
頬に近付くアレシュの大きな手に、エステルは息を飲む。
触れようとする手の何て熱いことか。
「君を妃として迎え入れたいと家臣達に伝えた時、君が言ったことと似たような意味を告げて、反対した者もいた。――でも、僕は根気よく説得を繰り返した。今は君との結婚に反対するものはいない」
「……それは、嘘です……」
エステルは、アレシュの熱い手から逃れるように首を振る。
「恐らくね、表面だけの賛成の者達もいるだろうよ」
そう言いながら、後ろに下がっていくエステルの腰を掴むと、強引に引き寄せた。服の上から触れられても、アレシュの熱が伝わる。
エステルにはこの熱さが怖い。遠い過去に感じたことのある、欲を孕んだものだ。
オルクだったか
幼き王だったか
だが――それを身に受けたことのない彼女には、恐怖でしかなかった。
「……賛同の裏の顔で、僕と君の結婚を無いものにしようと動く者達が、現れるかもしれない。そんな者達が恥ずかしくなるほどに、僕達の仲睦まじい様子を見せないとならない」
「そんな必要はありません……!」
アレシュの身体の熱さから逃れようと、無理矢理彼から離れる。それでも迫ってくる彼からエステルは、よろめきながらも後退した。
「何故?」
逃げるエステルに、絶えず微笑み迫るアレシュは、何度も彼女にそう問いた。
「私は、この結婚も王妃になることも、承諾はできないからです……!」
「――そう言うと思っていたよ」
長椅子に躓き、倒れるようにそこにしゃがんだエステルに、アレシュは覆い被さるように手を付いた。
「僕の意思は変わらない。君を妃に迎え入れる。大丈夫、その為に明日から王妃教育が始まるのだから。保証する、君は立派な素晴らしい王妃になれる」
どこから、そんな確信が生まれるのか?
――真っ直ぐに自分を見つめる、アレシュの笑顔が怖い。
どうして自分がこうして理由があって拒否をしているのに、それをかわして無視をして勝手に話を進めているのか。
「なれるはずがないのです……! 私は王妃として相応しい女ではありません! お考え直して! 幼い頃の恋心が妄想に膨らんだだけです!」
不意にアレシュの指がエステルの唇に触れ、なぞる。
「妄想かどうか、これからすぐに分かる。僕の思うエステルと同じ熱さを持つのか……分からせてあげよう、皆に」
「……アレシュさ……!」
アレシュの顔が近付き、あっという間に唇を塞がれた。湿った唇に、自分の熱よりずっと高い体温を感じる。押し付けられる身体は、重くも逞しい。
「い……や! ……お、う……!」
角度を変えて唇をずらされる度にエステルの口から、呼吸と共に拒絶の言葉が吐き出される。
どうにかして逃れようと自由のきく腕で、アレシュの肩を必死に引き離そうとするが、びくともしない。
そのうちにアレシュの手が胸に触れはじめ、エステルは短い悲鳴を上げて身体を固くした。
「まだ男と身体を添わしたことはないようだ、と報告があったけど事実なようだね。――良かった」
安堵のような息を吐かれ、呟かれた言葉にエステルは、顔を真っ赤にするほどに動揺する。
「――なっ……! わ、わるうございました! 行き遅れですから! だから……! こんな女、人から見ればきっと、どこか問題があるのです! 諦めてください!」
顔を赤くして怒りを見せたエステルだったが、アレシュの言葉に、今度は真っ白に顔色を変える。
「エステルに問題など無い。君の結婚を潰したのは僕だから」
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