人気俳優と恋に落ちたら

山吹レイ

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眠れない理由と恋の予感

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 為純はまた寝に来ると言ったが、まさか朝出て行ったその日の夜に連絡をしてきてマンションを訪れるとは思わなかった。一緒に寝てくれたら助かる、と真剣な声音で頼まれたら嫌とは言えない。苦しんでいる為純が、少しでも楽になれるなら協力してあげたい、そう思った気持ちに嘘はなかった。
 日付が変わる前の遅い時間ではあったが、現れた為純は嬉しそうに笑って「ただいま」と出迎えた俺を抱き締めてきた。今までとは違った態度に戸惑いながら咄嗟に「お帰り」と言ったものの、慌てて離れる。
 今朝から二人の関係性が変わりつつあるとは感じていた。為純は俺に対して肩ひじを張ることなくリラックスした表情で接するようになっている。今もそうだが、朝起きたとき腰にしがみ付いてきた仕草が、まるで俺に甘えているようにも見えて、それだけ気を許しているのだと思うと嬉しい。
 為純は今日一日仕事をしてきたはずなのに、疲れは見えず晴れやかな顔をしている。よく眠れたからだとすれば、それだけ彼にとって不眠症が深刻だったと思わざるを得ない。
「飯は?」
 靴を脱いで中に入ってくる為純の格好に目を留める。
 朝、ふわふわだった髪はちゃんとしっとり艶々になっていたから、撮影時にでも髪をスタイリングしてもらったのだろう。着ていた服も違っていたから、一度は家に戻って着替えたに違いない。
「食ってきた」
「シャワーは?」
「浴びる」
 何気ないやり取りも構える必要はない。為純をバスルームに促して、今日仕事の合間に高級コスメや美容グッズなどを取り扱っているセレクトショップで買ってきた、シャンプー、リンス、トリートメントを目の前に差し出した。今日来るとは思ってなかったが、買っておいてよかった。
「これ為純用」
「俺用ってなんだ? 別に今まで使っていたものでいい」
 シャンプーのパッケージを見て、為純が首を傾げる。
「もっといいものを買ってきたんだよ」
「……行理と同じ匂いがいいんだが」
 俺の匂いが気に入ったのはわかったが、今の発言は聞いているこっちが恥ずかしい。
「じゃあ俺も次からこれを使うから、今日から使え」
 大人しく浴室に持って行ったが、シャワーを浴び終えた為純から俺と同じ匂いがしていた。「使わなかったのか?」と憤慨すると「次から使うんだろ?」とドライヤーを手渡される。匂いよりも髪を洗った感じとか仕上がり感を楽しみにしていたのに、残念だ。でも俺にはもっといいものがある。いや、俺にというより為純にといったほうが正解だ。
 受け取ったドライヤーを一旦床に置いて、シャンプーの類と一緒に買って来たものをテーブルの上に並べる。
 ヘアオイル、ヘアクリーム、ヘアミルクの三種類だ。値段も用途も様々でどれがいいのかわからなかったので、高そうなものを手あたり次第買って来た。
 真面目な顔でパッケージの裏に書かれた説明を一つ一つ読んでいく俺に、為純は呆れた様子でため息をつく。
「そんなに買ってきてどうするんだよ。もう少しで髪を切るのに」
「いいんだよ」
 どれもうたい文句はいいが、要は髪質に合うかどうかだ。
 小さな小瓶は高級化粧品並みの値段だったが、使ってみなければわからない。濡れた髪をタオルで挟んでしっかりと水滴を拭き取った後、一番よさそうなヘアクリームの蓋を開けて少量手に取り、両手ですり合わせるように馴染ませる。部屋にフルーティーな甘い匂いが広がった。
 それから、毛先から徐々に上に向かって優しく揉みこむように髪につけていく。手ぐしで髪の絡まりを解すように梳いてから、ドライヤーを当てた。
「甘ったるい匂いだな」
「嫌いな匂い?」
「匂いがないほうがいい」
 ドライヤーを切って髪を櫛で梳かすと、緩くウェーブした髪は、しっとりまとまって艶めいている。
 いい感じに見えるが、匂いが嫌なら仕方がない。
「なら椿油とかのほうがいいのかな? 普段何使ってんだ?」
「特別何も」
「使ってないのか?」
 信じられないとばかりに訊くと、為純はどうでもよさそうに軽く肩を竦めた。
「撮影に行けば髪を整えてもらえる」
「だめじゃん。手入れはちゃんとしないと」
 並々ならぬ髪への情熱を滲ませる俺を、為純は苦笑して躱した。
「それなら泊まりに来たときに、行理にやってもらうよ」
 頻繁に泊まりに来るような台詞にどきっとしたが、これは過剰に反応したら絶対に揶揄われるやつだ。まさか毎日来るつもりかよ、とか、忙しいだろ、とか言いたくて唇の端がぴくぴくしたが、反論を飲み込んで無言を貫く。
 為純は自分の髪を何度かかき上げ適当に後ろに流すと、欠伸をかみ殺して立ち上がった。向かった先は寝室だ。
「ベッドを買い換えるつもりは?」
 寝室のドアを開けたまま為純が立ち止まる。
「ない」
「買ってもいいんだぞ」
「これ以上大きいのは無理。部屋が狭くなる」
「なら仕方がない」
 為純は眠そうな顔でベッドに横になると、枕に鼻先を押し付けて匂いを嗅ぐなり気持ちよさそうに目を閉じる。俺の場所を空けておいてくれたのはありがたいが、やっぱり隣には行きにくくて躊躇していると、瞬きした為純がさらに壁のほうに寄った。恋人でもない男二人が同じベッドで眠るという違和感も今更だと、気にしないことにして隣に横になる。
 暗闇の中で目を閉じながら眠気が訪れるのを待っていたが、今日はどうしたことか為純の存在が気になって眠れない。寝返りを打てば、肘や足が触れて余計眠れなくなる。
「なあ」
 思い切って声をかけると、為純はまだ起きていたのか「ん?」と小さな声が返ってきた。
「付き合ってる相手がいないって本当?」
 どうしてこんなことを訊いたのか自分でもわからない。声をかけた手前、何か話さなければならないと焦って、つい口からついて出たのだ。
「嘘だと思ったのか?」
「疑ってるわけじゃなくて……前はあんまいい印象がなかったけど、今はそれほど悪くないっていうか……」
「悪くないか」
 為純の声が笑っている。これじゃただの悪口だと思い、慌てて言いなおした。
「そういう意味じゃなく……いい奴だって気づいたし、なんか誕生日祝ってもらったりとか色々嬉しかったから、恋人がいないって不思議に思ったんだ」
 暗闇の中で為純が身じろぐ。
「俺はそういうのは、あまり得意じゃないかもしれない」
「得意とか……そういう問題? 俺にはまめに連絡をとって、一緒に飯食いに行ってたじゃん? 周りにもそうやって接してたら、恋人なんてすぐできるんじゃないかって思うとさ……」
「行理の両親はいい人たちだな」
「あ、うん?」
 話が急に変わったので戸惑いつつ頷く。
「俺の両親は仲が悪くて、一緒にいるところをほとんど見たことがない」
 じっと黙って聞いていると、為純は俺の肩を撫でながら優しく抱きしめた。
「父はアルファ、母はオメガだ。二人は愛し合って結婚したわけではなく、ただアルファの子供を産むために結婚した」
 為純の声は淡々としていて、まるで自分とは関係ないことを話しているかのような冷たい響きを帯びている。
「幼い頃、母は俺に呪いのような言葉を何度も言った。私はお前を産むために好きでもない男と結婚した。だから、お前は私の子供じゃない。あの男の子供だって」
 はっと息を呑む。こんなにも辛く悲しいことはない。
「今でも耳に焼きついている。母からは一度も名前を呼ばれたことも抱きしめられたこともないんだ」
 なんと言ったらわからずに、抱きしめる為純の背中にそっと触れる。もしその頃に出会っていたら、愛されなかった分、俺が抱きしめてあげたのに、側にいてあげたのにと思う。
「愛情を知らずに育った俺が誰かを愛せるわけがない。だから、今まで誰とも深く付き合ったことはないんだ。どうせ欲しいのはアルファとしての存在だけ」
 俺はゆっくりと腕を伸ばして、為純の髪を撫でる。
「こんないい男なのに、どうして誰も内面に気づいてやれなかったんだろうな」
「俺がそう振舞ってたからだ」
「でも俺は気づいた」
 為純の体がぴくりと震える。髪を撫でていた手を止めて、寄り添うように近づく。逆に為純は抱きしめていた腕を離した。俺は咄嗟に離れようとする為純を引き留めて、ぎゅっと強く抱きつく。
 軽薄に見せかけることで自分を守っていたなら、それほど苦しいことはない。誰にも本心を見せず、上辺だけで集まってきた女性たちと浅い関係を繰り返す。そのことに一番嫌悪していたのはきっと為純自身だ。
 為純の鼓動がどきどきして呼吸が少し早くなる。俺がそれでも力を込めていると、為純は長くか細い息を吐き、ゆっくりと体の力を抜いた。
「……そうだな。だからこんな話をしたのかもしれない。誰にも話したことはないのに、行理の前だとこんなにも簡単に暴かれていく。うまく隠せない」
 掠れた聞き取れないほどの小さな声で話す為純を、可哀想だと思うし愛おしくも感じた。
 そう……胸にこみ上げてきた想いは、甘く切ない愛おしさだった。
 俺は噛みしめるように、怯えるように、この愛おしさを胸の奥に沈ませる。柔らかな波紋を描き広がった想いは、染み入るように全身に伝わり、何度も何度も鐘を打つように胸をときめかせた。
 こうなる予感はなんとなくしていた。今朝、為純の目覚めを待っているとき、それから目を開けた為純が俺を捉えたとき、もう気持ちは傾いていたのかもしれない。いや……もうずっと前、はじめて出会った瞬間から目が離せなかった。
 あやすように慈しむように為純の背中を摩りながら、目を閉じ、走り出しそうな想いを自重する。
 まだ言えない。そっと秘めておく。やっと本心に触れられた今、これ以上先に進むのは尚早だ。それに、為純の気持ちが同じだとは限らない。
「話してくれて嬉しい。為純のこと知れてよかった」
 腕の力を緩めて少しだけ離れると、手探りで為純の頬に触れる。すると為純は俺の手に手を重ねて、ため息に似た声で呟いた。
「そういうことをさらっと言える行理だから、俺もつい話してしまうんだろうな……」
 二人の間に落ちた沈黙すら甘く、俺は今にも口から感情が飛び出してしまいそうになる。
 だが、続けた為純の言葉に肝が冷えた。
「行理がオメガじゃなくてよかったよ。母はいつも果実が腐ったような甘く爛れたような嫌な匂いがしていて、鼻が曲がるほど臭かった。そのせいか、他のオメガの匂いも嫌いで、発情期の匂いは特に苦手なんだ。吐き気さえする」
 そのときの俺はどんな顔をしていたのかわからない。
 甘く揺れていた気持ちがすっと冷めて、為純の頬に当てた手も血の気が引いていく。
 真っ白な頭の中思い浮かんだ言葉は、恐怖と後悔だった。
 隠さなければよかった。もっと早く打ち明けていれば、怯えずに済んだのに、こうなった以上自分からは絶対に言えない。死んでも明かせない。
 オメガだと知られてはいけないと前も感じたことはあったが、今はその比ではない。今まで築いてきた信頼が壊れてしまう、嫌われてしまう、という恐れは、耐え難いほどの苦痛を持って身を蝕んだ。
 次第に聞こえてきた為純の寝息に耳を傾けながら、そっと手を引き抜く。なるべく為純に触れないようにベッドの端に寄って背を向けた。
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