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揺らぎ

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 教科書とノートをリュックに詰めて、今日の夕飯は何を食べようかとぼんやり考えながら立ち上った。母さんは今日も仕事だし、冷蔵庫には昨日買ってきた鶏肉や野菜が入っている。
 軽めのものより、がっつり食べたいので親子丼なんていいかもしれない。もしくはチキンカレーでも作っておけば、明日には残りのカレーでカレーうどんが食べられる。手間を考えると親子丼が手早く作れるが、カレーうどんも捨てがたい。
 そんなどうでもいいことを悩んでいると携帯電話が震えた。もしかして、と慌ててメールを見れば、携帯電話の会社からの案内メールだったのでがっかりした。
 平仁の連絡を待っているわけではないが、連絡先を教えた手前、いつ電話なりメールが来るかもしれないと期待してしまう。
 口数が少ない平仁の性格から、必要最低限のことしか連絡しないだろうなと踏んでいたが、あの日から二か月経った今も一度も電話すらないのは、する必要がないという以外に面倒くさいと思っているに違いない。
 平仁のマンションに行ってみようかと一度や二度考えたことはある。行く前に連絡ぐらいは入れようかと思い……自分の連絡先を教えておきながら、奴の電話番号もメールも知らないことに気づいた。大馬鹿者だ。自分の連絡先を教えることより、平仁を知ることが先だった。これではせっかくもらったマンションのカードキーも使い道はないだろう。
 携帯電話をポケットに入れて、リュックを背負う。そんな俺の耳に、クラスメイトの話し声が耳に入った。
「えー? だってアルファだろ? どうにでもなるじゃん」
「と思うだろ? けどアルファっていったってどうにでもなるわけじゃねえよ」
「そういえば、ほら、オメガのあいつ……噛み跡ってやっぱ……」
 見られていると感じた俺は素早く教室から出る。
 今は包帯も取れ、首輪もつけていない。噛まれて番になったので必要ない。カモフラージュのためにも首輪をつけたほうがよかったのかもしれないと考えたが、今更だ。
 ワイシャツに隠れて普段はあまり見えないが、着替えの際、項にくっきりとついた噛み跡をクラスメイトに見られてしまった。それから一気に噂が広がった。
 この年で番とか早すぎるだの、淫乱だの、ひそひそ言われたが気にしていない。気分は悪かったが。
 俺が通っている学校は進学校ということもあり、アルファが多い。オメガは俺以外に一人か二人といったところか。学ぶ分には申し分ない授業のレベルではあるが、環境は最悪だ。
 過去に俺ですら手を出そうとした輩がいたので、目をつけられたり、言い寄られたりしているものもいると思う。それを思えば、さっさと番になってよかったのかもしれないと、逆にいいほうに捉えることもできる。
 年齢的に早いだの遅いだの、そんなもの関係ない。俺の場合は運命の番に出会ってしまったため、こういう結果になってしまったが、この人と決めたのなら共に生きたいと願うのなら年齢などどうでもいい。
 俺は平仁と生きると決めた。だから噛み跡も恥ずかしがる必要はないのだ。
 ただ一つ、気がかりがあるとすれば母さんのことだ。
 二度目の発情期を終えて帰ってきた日、平仁と番になったことを告げた。もっとも、帰ってきた俺の姿を見るなり、首に巻かれた包帯にいち早く気づいた母さんは、察していたと思う。もう何も言わなかった。
 ただ、急に出て行ったりしないこと、外泊をする際は誰とどこにいるのかとちゃんと事前に言うことをきつく念押しされた。
 母さんは平仁のことを相変わらず一切話さない。だから、俺も平仁の話をしたことはなかった。
 俺は平仁の職業も年齢も未だ知らない。アウトローな世界にいる人なのだろうか、と思うのは推測に過ぎないが、番になったのならそういうことも知っていかなければならないかも、と不安に駆られる時はある。
 平仁は俺に乱暴を働いたことは一度もないし、金銭を要求することもない。触れる手はいつだって優しくて、ベッドでは情熱的。文句ひとつ言わず発情期には一緒にいてくれる。番としては十分すぎるほどだ。
 それ以上何を知る必要があるのだろうか? 恋人ならまだしも……とそこまで考えて俺は気づいた。
 俺と平仁はもちろん恋人ではない。でも発情期がある限り、肉体的に求めてしまう限り『離れられない』のだ。では、番とはただの交わるだけの関係なのだろうか。発情期に一緒に性欲を発散するだけの互いに都合のいい関係?
 これを死ぬまで続けていくとなると、虚しいものを感じずにはいられない。
 それとも、別に恋人や結婚相手を作るのか? 多分、オメガである俺には無理だし、番がいてさらに恋人など考えられない。アルファである平仁なら他の相手と恋人も結婚も可能かもしれないが……いや、アルファも番を持つとその相手以外欲情しにくいと聞いたことがある。
 この先に続くものはなんだろうか? 一緒にいたいと共に歩きたいと思う先に何があるのだろうか?
 ただ、このままいてもよくないことだけはわかる。といっても、どうすればいいのかわからないのだ。


 結局夕飯はカレーに決めて、俺は冷蔵庫の中を漁って葉菜類以外の野菜を取りだして、手際よく切っていく。
 野菜さえ切ってしまえばあとは煮こむだけなので手間はない。
 煮こんでいる間にキャベツや人参でコールスローを作れば完成だ。汁ものがほしいなら、簡単にコンソメで作る卵スープでもいい。
 カレーも出来上がり、炊き立てのご飯を皿に盛っているときに、タイミングよく携帯電話が震える。
 どうせまた勧誘メールか何かだと思っていれば生吹からだった。奴とは前の発情期のときに連絡先を交換していた。首の包帯が取れるときも何度か連絡をしていて、たびたび会う仲になっている。
 すぐに電話に出ると、これから出てこられるか? という内容だったので、驚いたが行くと返事をした。平仁のマンションを指定してきたため、俺はカレーを諦めて家を出た。
 電車に乗り、平仁のマンションへと急いだ。
 出迎えてくれたのは生吹だった。
「いらっしゃい。入って。寿司を頼んだんだ。食べるだろ?」
 勝手知ったる他人の家といった感じで、生吹は気軽に招き入れた。平仁はいないのだろうかと思っていれば、奴はソファに座って煙草をふかしていた。
 俺と目が合っても挨拶もしない。所在無げに突っ立っていると「ほら座って」と生吹に促されてとりあえずテーブルの前に座る。
 スーパーで買うパック寿司しか食べたことがない俺にとって、目の前に広がる大量の寿司はちょっとしたロマンにすら見えた。
「ほら、食べな」
 一体なんのために呼ばれたのかはさておき、カレーをお預けにされて腹が空いていた俺は、素直に手を合わせて「いただきます」と言うと遠慮なく食べていく。
 向かいに座った生吹もカップ酒を飲みながら、寿司を摘まむ。
「この間食い損ねたから今日こそはって思って。叶人も食べたかっただろ?」
 自分が食べたかったからじゃないか? と思ったので俺は曖昧に首を傾げた。
「これ何?」
「ヒラメ。白身魚は美味しいよね」
「これはサバ?」
「そう、青魚も美味しいよね」
 あまり食べたことがないものは食指が動かなかったので避けて馴染みのネタばかり食べていると生吹が「ほら、これも食いなよ」と色々なものをすすめてくる。
 ちらと平仁を見ると、煙草を口に咥えたまま、俺と生吹が食べる姿を見ているだけで食べようとはしなかった。無口なのはいつも通りだし、機嫌も悪そうには見えない。
「体調はどう?」
 何気ないふうに生吹が訊いてきたので、俺は「平気」とごく自然に答えた。
「だるいとか眠いとかない?」
「眠い? いや普通」
「首の痛みは?」
「触れたり押したりとか……あとは首を無理に動かしたりするとまだ痛いけど、だいぶよくなった」
 平仁が手を伸ばし俺の後ろ髪をどける。くすぐったくて首を竦めると平仁はすぐに手を離したが、項をずっと見ていた。
「浅い噛み跡なら、年月が経てば結構傷が薄れて見えにくくなるんだけど、こんなに深く噛まれたらくっきり残るよ」
「マジ?」
「うん。よかったじゃん」
 それがいいことなのか判断つきかねて、俺は無言で寿司を口に入れる。
 まだじっと見ている平仁に、箸で摘まんだ寿司を目の前に突きつけた。すると平仁は口を開けたので、寿司を勢いよく口の中に詰める。もぐもぐと口を動かして普通に食べる平仁の前に、違うネタが乗った寿司を差し出す。
「叶人はさー、怖いもの知らずっていうか……肝が据わってるよね」
 生吹は頬杖をついて、とろんとした目で俺たちのやり取りを見ている。
「いや、そんなことはないと思うけど? 怖いものは怖いし」
「こんな男、幼馴染じゃなかったら付き合わないよ、俺」
 生吹の平仁に対する見解はこんな男呼ばわりだ。いつも通り遠慮がない。気にした様子はなく差し出した寿司を食べる平仁は例のごとく無言だった。二人のこういうやり取りが幼馴染で長い付き合いだからと思えば、少し羨ましい。
 寿司を綺麗に平らげて、テーブルの上を拭いていると、ほろ酔いの生吹が俺の前に小さな箱を差し出した。
 思わず受け取り、塗り薬のような細長い箱になんだろうと見ると、妊娠の文字が目について息を呑んだ。
「妊娠……検査薬?」
 パッケージに表示されていた文字を読んで顔をあげると、生吹はにっこりと笑う。
「説明書見ればわかると思うけど、これにおしっこをかけてきて」
「俺、妊娠してないと思うけど?」
 困惑して、しどろもどろに言うと、生吹はちらと平仁を見た。
「一応ね」
 このために呼ばれたのだと察して、俺は納得しきれないままトイレに向かう。
 アフターピルを飲んだとはいえ、妊娠のことは忘れてはいない。ただ、しているなら、つわりなどの症状が現れるだろうと思っていた。もちろん、吐き気も眠気もだるさもないのだ。確定ではないが。
 はっきりさせるためにもいいかもしれない、とは思いつつ、どこかもやっとした気持ちを抱えたままトイレに入り……後ろからついてきた平仁に驚いて動きを止めた。
「なんで?」
 尋ねると平仁はトイレのドアを開けたまま、俺の前で片眉を僅かにあげただけで返事はなかった。出て行くつもりはないらしい。
「いたら、できないから」
 強く言っても、平仁は動こうとしなかった。
 俺はありったけの力で平仁の体を押した。けれど、びくともしない。
「生吹! この男どうにかしろ!」
 狭いトイレの中で押したり引いたりしながら声を張り上げた。
「ちゃんと確認したいんだよ。いいじゃん」
 帰ってきた声は、俺の事情など全く関知しない呑気な声だった。
「よくない!」
「いちゃつくのもいいけど、違うものかけないでよ」
「いちゃついてないし! しかも違うものって……」
 俺は数秒睨みつけてから、視線を逸らそうともしない平仁に諦めてズボンをはいたまま便座に座った。
 箱を開けてまずは説明書を読んで、意外と面倒くさいものだなと思いながら、パッケージを開けて手順を確認する。
 しかし、いざズボンを下げる段階になって、座ってできないことに気づき、立ち上がる。
 右手にスティックを持って左手で狙いを定めて……できるにはできるが周りに飛び散る。
 俺は平仁を押しのけてトイレから出ると、バスルームに向かった。後ろから平仁がついてくるが無視だ。
 バスルームに服を着たまま入ると、ズボンの前を寛げて己を取りだした。恥ずかしさを気にしていたらいつまで経ってもできない。
 すると平仁が背後に立ち俺のものを右手で軽く握る。ぎょっとしてもがいた。
「お前……!」
「ちゃんと前に持ってこい」
 協力してくれるのだと理解したが、行為が変態じみていて解せない。
「つーか、お前がこっち持て」
 スティックを持ってくれたらまだマシなのに、と思っていたが、平仁は受け流した。
「出そうか?」
「お前が持ってたら……くそっ最悪」
 俺は悪態をついて顔を真っ赤にして体を弛緩させ、先端から出た液体にスティックをかざした。秒数をきっちり数えてから離して、最後まで出し切る。
 スティックをバスタブの縁に平らに置いて、ズボンのファスナーを上げるとシャワーで綺麗に流した。
 その間に、平仁は判定を見てバスルームから出て行った。
 俺も慌てて確認すると陰性だった。ほっとすると同時にこんなことする必要あったのかと腹立たしくなる。
 バスルームを出ると、生吹にスティックを見せた。
「うん、陰性。よかったね、できてなくて」
 生吹はそう言うと立ちあがった。すぐに玄関に向かったので、やっぱりこのために来たのだと確信する。
「お寿司ごちそうさま」
 そう言って生吹は帰っていった。
 残された俺はやるせないため息をついて、出て行こうとした。
 腕を掴まれたが、振り向くことはしなかった。不機嫌さを隠しきれないまま「何?」と訊く。平仁から返事はない。
 振り払おうとしたその腕をいきなり引かれて、胸に倒れこんだ。背後から抱かれて、絡みつく腕の強さに、まさかするのかと怒りがこみ上げる。こんなもやっとした気持ちのまま抱かれたくない。それに発情期でもないし、する必要もないだろう。
 項を舐められて、体をぶるっと震わせる。
 ところが平仁は俺を抱きしめたまま、項から唇を離してふうと長い息を吐く。そして、ゆっくりと体を離した。
 拍子抜けして振り向いて見上げる俺の唇に触れるだけのキスを落として、平仁は「送っていく」と玄関に向かった。
 俺は振り回された気分を拭いきれないまま、平仁の後を追った。
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