愛おしい君 溺愛のアルファたち

山吹レイ

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転落のアポリア 前編

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 ある日、倫がリビングで本を読んでいると「ただいま」と大河が帰ってきた。
 時間は午後三時。この時間に帰ってきたのははじめてで驚いた。いつもは夜遅くまで帰ってこないので、体調が悪いのかと心配すれば、撮影が思った以上に早く終わったという。
「デート行くか?」
 機嫌がよさそうな大河は倫を抱き上げて頬ずりする。
「仮にもお前は俳優だろ? ばれたらどうすんの?」
 コーヒーを飲みに部屋から出てきた亮が、キッチンで倫が作ったクッキーを摘まんで指摘する。
「仮にもって……正真正銘俳優だ。今までばれたことはねえし、俺も倫と一緒に外に出てもいいだろ?」
「何かあったら倫を守れんの?」
 十万人に一人とも百万人に一人ともいわれている希少種であるオメガは、十歳から番ができるまでの間『さくらさと』という施設で保護されている。アルファの番ができれば、その番のもと、外の世界で生活できるが、その希少さゆえに犯罪に巻きこまれやすい。ゆえに細心の注意を払って生活している。
 といっても倫は言いつけ通りこの部屋の中で生活するしかないので、常に安全は保たれている。それでも、他の三人は警戒して、便利なネットショップもデリバリーの類すら一切頼まない。呼び鈴を鳴らされても倫が出なければいいだけだと思うが、万が一ということも考え、配送業者すら呼ばない。ハウスクリーニングも入れるか入れないかで随分揉めた。掃除も洗濯も料理も倫がするので入れないで済んだが、もし業者を部屋に入れるとすれば、もう一か所別にマンションを買うことを検討していたと聞いたことがある。それほど徹底していた。
 ただ、この部屋の中だけで暮らしている倫はストレスが溜まる。気分転換や健康のためにトレッドミルやエアロバイク、その他ジムで見かけるような本格的なマシンがリビングの隅に置かれてあるが、あまり運動が得意でない倫はほとんど使ったことがなかった。主に使うのは将之になっている。
 いつも代り映えしない部屋の中で閉じ込められていては可哀想だと、一週間に一度程度外出を許されていた。もちろん誰かと同伴して出かける。一度将之と亮と三人で外出したことがあったが、ほとんど将之と二人で出かけることが多い。大河は忙しくて一度も一緒に外出をしたことがなかった。
「倫は前、なんとかっていう作家の新刊が欲しいって言ってただろ? ちょっと書店に行くだけで何があるってんだ。言いふらさない限り、オメガだって気づく奴なんていねえし、発情期だってまだまだ先だ」
 大河は倫の首元に鼻先をつけて匂いを嗅ぐ。今もなお三人の歯型がついた首は、噛まれたときは青あざになって酷いものだった。
「倫に何かあったら、ただじゃおかないから」
 亮は今まで見たこともないほど冷酷な顔で、大河を見据えている。
「わかってる。よし、なら出かけるか!」
 よほど嬉しいのか大河は倫の脇の下に手を入れて子供のように振り回した。亮は肩を竦め呆れた様子でコーヒーを手に自室に引っこんだ。
「倫、この間俺が買ってきた槐色のパンツと白のシャツに着替えろ。上着は……丈の短い黒の薄手のジャケットあたりか」
 常に注目を浴びて世間の目にさらされている大河は着道楽だ。何万もするようなシャツや何十万もするコートを季節ごとに何枚も買う。手足が長く、スタイルもいいので、何を着てもお洒落に着こなすのは流石だが、それを倫にも求めてくるのは勘弁してほしい。大河ほど長身で顔も小さくてスタイルがよければお洒落も楽しめただろうが、生憎、百七十センチに届かない、どこにいてもいるような平凡な顔立ちでは、どれほど着飾ろうと着せられた感じが否めない。
 それなのに、忙しい中似合いそうな服を買ってきては、頻繁に倫にプレゼントしてくれる。はじめは申し訳なく思いつつもありがたく受け取っていたが、クローゼットから溢れるほどになってくると「もう充分ありますから」と過剰に与える大河に、遠慮するようになっていった。遠慮しようが何を言おうが、買ってきた手前もらうしかないのだが、何度言っても聞き入れてくれない。
 倫はクローゼットに隙間なく詰められた服の中から、白いシャツとジャケットを取りだした。
 普段は着心地のいい綿のシャツと、ウエストがゴムの動くにも楽なパンツを洗い替えして着ている。部屋にいて家事に従事している倫に何万もするようなシャツを着る意味がない。
 倫が着替えていると、大河がノックもなしに「着終えたか?」とドアを開けて入ってくる。
 素早くジャケットを羽織ると、大河は倫の周りを一回りしてチェックした。
「うん、似合ってる」
 大河は満足したように頷いて倫の手を引く。
「おら、行くぞ」
 二人で慌ただしく玄関に向かう。一週間ぶりの外出に、心躍らせ、倫は大河の手を強く握りしめた。


 大河と外出ははじめてなのもあって、ドキドキしながらサングラスをかけてハンドルを握る横顔を見つめる。テレビでよく見る芸能人が隣にいるのは、未だに不思議な感覚だ。ふとした時にその美しさに見惚れてしまう。
「最初に書店だな。どこがいい?」
 正面を向いたまま視線を倫に向けたので、見惚れていたのを隠すかのように慌てて正面を向いた。
「どこでもいいです」
 顔を赤らめて窓の外を見ると、大河はくすりと笑って、倫の髪を乱暴にかき乱す。上機嫌で鼻歌を歌い出した大河に、倫は小さく笑って窓から流れる景色を見つめた。
 車から見る外の世界はいつもと変わらないように見えたが、一週間前はコートやジャケットを着ていた人たちも、今日は上着を手に持っていたり、半袖姿の人もいた。外はかなり温かいようだ。
 見れば街頭の桜が咲き誇っていた。以前は蕾だった木々も、風に吹かれ美しくも幻想的に花びらを散らしていた。子供たちが舞い散る花びらを掴もうと、上を見上げ小さな手を伸ばして走り回っている。
「すっかり春だよな」
 赤信号の際、倫の視線の先を追った大河が感慨深げに呟く。
「窓を開けてみてもいいですか?」
 倫が訊くと「いいよ」と勝手に窓が半分ほど開いた。
 開けた窓から思った以上に温かい風が吹きつけてくる。息を吸うとほんのりと甘い桜の匂いが漂い、春の香りを胸いっぱいに吸いこんだ。
 書店の近場にあるコインパーキングに駐車し、二人並んで歩道を歩く。
 目深に被った帽子とマスクをした大河は、注意深げに周囲を見回す。
 見る人が見れば、そのスタイルの良さやルックスから一目でばれそうで怖い。
 足早に書店に入り、まずは小説のコーナーへと向かう。大河はふらりと写真集やタレント本の棚の方に行ったので別々の行動になった。
 元々本好きではあったが、閉じこめられた施設の中で生活するようになると、その傾向はより顕著になった。自由に街を歩くことも友達と外で遊ぶことも叶わないかわり、本の世界で主人公になりきって広大な世界を渡り歩いて冒険していく。できないことが多い倫にかわって、自由に歩き回り、さまざまな世界を経験していく主人公たちは倫の希望だった。
 倫が好きなジャンルは、海外のファンタジーやSFものだ。
 お目当ての本を手に取り、ざっと新刊の台を眺める。本の匂いを感じながら既刊の棚やコーナーを一冊一冊見ていく。
 電子書籍で本が簡単に読めるが、やはり手に取ってページをめくれる実物の本が好きだ。だから、沢山の本が整然と並ぶ書店は、いつ来ても何時間いても飽きない。
 気がつくと一時間以上棚を眺めていたようで、いつの間に後ろから大河がついてきている。
「あ、ごめんなさい。結構時間経っちゃいました」
「全然気にしなくていい」
 大河は興味深げに見ては本を手に取り、ページをめくっている。
「夕飯の支度もありますし、そろそろ帰りましょうか?」
「晩飯なんていいんだよ。時間を気にせず過ごせばいい」
 そう言われても、今日は大河もいるので四人で一緒に夕飯を食べられる貴重な日だ。冷蔵庫に何が入っていたか考えて、今日は春キャベツでロールキャベツを作ろうとしていたことを思い出した。
「これ、買ってきます」
 レジに向かおうとすると、手に持っていた本を大河に取られた。「俺が行く」とすたすた歩いて行ってしまう大河の後を慌てて追う。
 結局本を買ってもらい、倫は遠慮がちに「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べて本を受け取ると「このくらいしかしてやれないからな」と大河ははにかんだように笑った。
 書店を出ると「少し歩くか」と言われ、夕暮れの街をゆったりと歩いた。
 側にあった桜の木から花びらが舞い落ちてきたので、背伸びをして掌で掴もうとする。隣に並んだ大河は、倫の子供じみた行動を笑うことはなく「ほら」と長い腕を上に伸ばしあっさりと花びらを掴んだ。足を止め、広げた大きな掌の上に花びらが乗っている。「ありがとうございます」と礼を言って潰れてしまわないようにそっと掴み、買ってきたばかりの本に挟んだ。
「花、取ってやろうか?」
 桜の枝を引き寄せて花を取ろうとする大河の手を、慌てて止める。
「いいです。可哀想だから」
 花の命は短い。散る運命だとしても無理に取ってしまっては情がない。
 大河はふっと小さく笑うと、ゆっくりと桜の枝を離した。
「なら、優しい倫に花でも買ってやろうか?」
「い、いらないです。そんな……」
 じゃれ合うように大河が倫の肩を抱く。
 その時、車のクラクションの音がすぐ側で鳴り響いた。
 びっくりして音が鳴るほうへと目を向けると、一台の車が車道で停まっていて、後部座席から少年が飛び出してきた。
 数人の男性が止めようとするものの、少年は振り払ってこちらに走ってくる。
 驚いて目を瞠る倫を、すぐ目の前まで来た少年は腕を掴んで声を荒げた。
「お前! 何、こんなところ歩いてんだよ!」
 知らないと思っていた少年の顔をよく見て、はっとする。彼は施設で一緒にいたオメガの少年だった。
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