9 / 13
紳士の嗜み
しおりを挟む
「倫、準備できた?」
リビングから声をかけると、半袖のTシャツとハーフパンツ姿の倫が部屋から出てくる。
「はい。できました」
夜だから日焼けはしないが、可愛い顔を誰かに見られて誘拐でもされたら大変なことになると、亮は倫にキャップをかぶせ、タオルを手渡した。
「よしじゃあ、行こう」
「はい」
タオルを首に巻いた倫は嬉しそうに頷いて、玄関に向かう。
日頃の運動不足から足腰の弱さを気にするようになったのは、発情期になった倫を抱いたときからだ。勢いのまま、三度四度と体内に迸らせて、ひらすら腰を振って貪るように倫を愛した代償は、次の日すぐに現れた。腰のだるさや体の節々の痛みは、一日中部屋の中で椅子に座りパソコンを相手にする亮にはあまり感じたことがないものだ。明らかな体力不足だった。
十八歳の倫や二十五歳の大河に比べたら、劣るものはあるかもしれないが、このくらいでへたる亮は、四つ下の将之に比べ同じ三十代としてかなり劣っていると言わざるを得ない。まあ、将之は日頃から体を鍛えていて、腹筋も割れているし、あの長身も相まって、恐ろしいほどの肉体美を誇っているが、そこまでいかなくとも、せめて倫を満足させられるまで愛せる体力が欲しかった。
以来、週に何度か倫を伴って夜にウォーキングをするようになった。倫も楽しみにしているようで、大河から買ってもらったスポーツウェアを着て、うきうきと弾むような足取りでついてくる。
本好きな倫は、日中静かな室内で飽きずにずっとソファで読書をしているが、一週間に一度ある外出を心待ちにしている。どれほど好きだろうと、閉じこめられた室内でそればかりでは酷な話だ。
「今日は違うルートを行こうか?」
マンションを出て、左右を見てから、いつもなら人気のない河原のほうへ向かうが、今日は気分を変えて別の道を行くのもいいと思った。
「はい」
倫はこのマンションがどんな場所に建っていて、周辺にどんな建物があるのか、ほとんど知らない。窓から見下ろすだけの街は想像の域を越えないのだ。
振り向き後ろをついてくる倫の手を取って握り締める。
こうして手を繋いでいれば、誰かに攫われる心配もない。もちろん、ただ手を繋ぎたい思いもあったが。
並んで歩く倫の顔は少し恥じらっているように赤くなっていたが、嫌がっている様子はなかった。
「気持ちいい風だね」
「そうですね」
夜でも二十度を下回ることはなくなった今の季節、半袖でゆったり歩くにはちょうどいい。
「このパン屋さんは、何度か将之が買ってきてくれるあの店だ」
シャッターが閉まっている店の前で立ち止まる。閉店時間にはまだ早いが、この店はパンが売り切れてしまえば、そのまま閉店する人気の店だった。
「クロワッサン、美味しいですよね」
「倫の大好物だもんね。また買ってきてあげるよ」
倫が、いつになく美味しそうにかぶりついていたのを亮は知っていた。
再び歩き出した亮は十字路の手前で足を止め、右手にあった明かりがついた一軒家を指さした。
「ここの家、大きな犬を飼ってて……グレート・ピレニーズだっけ? めちゃくちゃ人懐っこいんだよ。通りかかったときに犬が抱きついてきて、顔じゅうを舐められた」
「へえ……犬なんて何年も触ったことがないです」
羨ましそうに倫が言うので、そういえば好きな食べ物や作家は知っていたが、動物のことまで訊いたことがなかったと、少し話を広げてみる。
「実家で何か動物を飼ってた?」
「飼っていません。母親が動物アレルギーで……小学校の頃、捨てられた犬を拾ってきて怒られたことがあります」
「そっか……」
「亮さんは何か飼ったことがありますか?」
珍しく倫が質問してくる。亮のことを知ろうとしてくれるのは嬉しいが、あまり幸せな思い出がないので話せることは少ない。
「ないね。でも嫌いじゃないよ」
「あ、そういえば将之さんは犬が好きだって言ってました」
過ごす時間も長い亮が一番倫のことを知っていると思っていたが、将之とはそういう話もしていたのかと、少し悔しくなる。
「あいつは昔犬だったから」
皮肉をこめて、将之の昔の職業を揶揄して言うと、倫は意味がわからないという顔をして首を傾げる。
倫が何か言いかけたときに、前方から大きなスポーツバッグを持った制服を着た男子高校生二人が話しながら歩いてきた。吸い寄せられるように倫の目が二人の姿を追う。
「受験なー。考えたくねえ」
「お前、でも……」
通り過ぎる瞬間、倫は手を強く握り返して亮の背中に隠れるように歩く。男子高校生は楽しそうに笑いながら通り過ぎていった。倫は気になる様子で足を止めて後ろを振り返る。亮も同じように足を止めて倫の視線の先を追った。仲がよさそうに話をしている高校生の後ろ姿を羨望に満ちた目で見ていたが、ふと同じように亮も足を止めていたのを知って「すみません」と慌てて謝る。
「あの制服……通ってた高校のです」
「そうだったんだ」
倫は十六歳でベータから転換した本当に稀なオメガだ。十六歳といえば高校生、もしオメガにならなければ、彼らのように毎日学校に行って勉強して部活に励んで普通の生活を送っていただろう。倫は誰からも愛される優しく素直な子だ。きっとクラスでも沢山の友達がいて、楽しく過ごせたはずだった。
オメガになってどれだけのことを諦めたかと思うと、可哀想だと同情してしまうが、最初から何も持たなかった自分とはどれだけ違うだろうかとも考えてしまう。親を知らない亮からしてみれば、今も相変わらず家族に愛されている倫は、オメガになって環境は変わったとはいえ、それだけで幸せなのはないかと思ってしまうのだ。
亮は、物心ついたときから児童養護施設で暮らしてきた。捨てられたわけではなく、育てられない事情があって預かることになったと聞いているが、それが本当か嘘かも知るすべはなかった。ただ小さな子供たちは次々と里親の元へ行ったり、親が迎えに来た子もいたのに、亮にはその機会は一度もなかった。
時々大人たちがひそひそと噂する『あの子は忌み子』だからという言葉は耳に入っていたが、幼かった亮は『忌み子』が何かわからない。
その意味を理解したのは、亮が小学校六年生の頃。誰かが声を潜めて話していた内容を聞いて『忌み子』と言われれる自らの出生の秘密を知ってしまった。兄妹相姦の果てに産まれた子、しかもオメガだったのを隠して生活していたらしく、発情期が起こり、一緒に居合わせた十四歳のアルファの兄が十二歳のオメガの妹を犯してできた子供だというのだ。
ショックだった。その頃、亮は十歳のバース検査でアルファと診断されていて、もしかしたらこれで誰かが自分を望んでくれるのはないかと期待していたのだ。
産まれてはいけない禁忌の子。そんな子供を欲しがる人は誰もいない。
自分はもしかしていらない子供だったのではないか、生きていることすら罪なのではないかと悩み、中学、高校は随分荒れたりした。
「亮さんは学生時代どんな風に過ごしていました?」
倫に突然そんなことを訊かれて、どきりとする。外出できて嬉しいのか、それとも高校時代を思い出したのか、普段はあまり質問してこない倫が、こんなに聞きたがるのも滅多にない。
「普通だよ。勉強してた」
顔が強張るのを感じながら、思い出したくもない記憶まで蘇ってきそうで、口調が素っ気なくなる。本当は好きな教科以外勉強などほとんどしたこともなく、落第しなければいいぐらいにしか学校にも行かなかった。もちろん友達もいない。
「俺は勉強が苦手でした」
「勉強が好きな子はあんまりいないよね」
話を合わせながら、亮は高校時代に付き合っていた人からプログラマーの道を勧められなければ、今頃倫を買うこともできなかっただろうな、とぼんやり考える。金さえあれば人生自由に生きられると知り、以来、ただひたすら好きなプログラミングにのめりこみ金を稼いできたのだ。誰とも会わず黙々とキーボードを打ち込む仕事は、人嫌いする亮にとって最適な環境だった。
「そういえば、倫はゲームする? やるなら家庭用ゲーム機買ってあげようか?」
リビングには倫が読む本や大河が好きな映画のディスクなどが置いてあるが、若い子が持っていそうなゲーム機はない。それに携帯電話も持たせていないし、パソコンも与えていなかった。現代社会において、携帯電話すらあげないのは酷い話かもしれないが、誰かと連絡をして逃亡を企てたり、ネット犯罪に巻きこまれたりしないように、持たせないことに決めたのだ。倫がよくないことを考えないよう外部との接点をできるだけ絶っておきたかった、というのもある。今は信頼しているので携帯電話ぐらい与えてもいいと思っているが、訊いても必要ないからと言って欲しがらなかった。
「ゲームは苦手なのでいらないです」
「珍しいね。今の子は結構ゲームやるでしょ」
かくゆう亮も気分転換に仕事の合間にプレイすることがある。若い頃はそれこそ寝食を惜しんでゲームをしたものだが、今はそこまでのめりこむことはなくなった。
「昔、友達の家で一緒に遊んだことはありましたけど、操作がわからなくて、反射神経が鈍いんでしょうね。すぐ死にました」
「あはは……ゲームは慣れだよ、っとそこ、道路窪んでるから」
手を引いて注意を促したが、倫は気づかずに躓いて前のめりになる。思わず、腕を掴み、転びそうになる体を抱きしめた。
「すみません。注意不足で……」
「ううん、怪我なくてよかった。足捻ってない?」
「大丈夫です」
すぐ間近で見上げる倫の瞳に、亮に対する安心感が見える。
倫の体から、ふわりと甘い匂いが漂ってきた。発情期のときに強く香ったフェロモンよりかなり薄まった匂いは、近づかない限り感じ取ることはできない。だが、以前より漂うときが多くなったような気がして、亮は一緒に外に出るとき、あまり人気のある所は歩かないようにしている。不特定多数の人にこの匂いを知らせたくなかった。
倫のフェロモンは、薔薇や百合などの噎せかえるような華やかな香りではなく、かといってチョコレートやバニラのような鼻をつく甘ったるい類でもない。どちらかというと瑞々さ感じさせる果物のような爽やかな甘さの匂いだ。亮はフィグの香りに似ていると思っている。
この匂いを嗅ぐだけで、胸がざわざわして、股間に血が集まっていく。そのときのことを思い出すだけで甘美な想像が頭を駆け巡るのだ。
はじめて倫を抱いた。はじめてのセックスだった。実は、亮は、恋人は数多いたが今まで一度も挿入まで至ったことはなかった。
別に童貞を守ってきたわけではない。手や口の愛撫で反応するそこも、ことに及ぶようになるとまず勃たない。はじめからそうだった。出生にコンプレックスを抱いているせいもあり、セックスがあまり好きじゃないのだと思う。
付き合っていた相手には、いつも他人を宛がった。もともと性癖が歪んでいる自覚もあり、気楽に寝取られ気分を味わって楽しんでいたら、そのうち愛想を尽かしていなくなった。それでも、次から次へと誘ってくる人は多かったので恋人は切らしたことはなかったが、本気で誰かを愛したり、嫉妬したりしたことは一度もなかった。
はじめのころ、倫にも同じことをしていたので、今では本当に悪いことをしたと痛感している。
オメガを買ったのもきまぐれだと言ったら、最低だと怒るだろうか。
資料を見て、子供が産めないオメガと知って興奮したアルファは、多分亮だけだろう。
三人の番を得て、さらに昂った。自分が抱かなくても倫は他の二人に抱いてもらえる。その背徳感にぞくぞくした。
倫を抱いた今ではもう、その気持ちはないが、ただひとつ激しく後悔したことがある。
そう、倫のはじめての男になるチャンスを自ら棒に振ったことだ。
将之と大河、どちらが先に倫の体を知ったのか、それはどうでもいい。嫉妬するだけなので知りたくもない。そのときは、抱けるとは思っていなかったので、誰が倫を先に抱くのか話し合いにすら参加しなかった。
もしそのときに戻れるなら、我先に名乗りを上げていた。首を噛んだときのように、誰よりも先に飛びついただろう。
「どんくさいですよね、俺。運動もあまり得意じゃなくて……」
倫はタオルをぎゅっと握りしめてぽつりと呟いた。
「俺のほうがもっとどんくさいよ。ほら、部屋でも何もない所で躓いたりしてたじゃん」
亮が自らの恥ずかしい場面を吐露すると、倫はそのときのことを思い出したのか小さな声でくすくすと笑った。
「そういうわけで、ちゃんと歩こう」
「はい」
隣に並んだ倫は、腕を振ってきびきびと歩き出した。亮も遅れないように後を追う。
そうして歩いているうちに、マンションの周りをぐるっと回っていたようで、ちょうど残業して帰ってきた将之とばったり出会った。
「お帰りなさい。将之さん」
将之の元へと小走りになって駆けていく倫は「残業お疲れ様です」と続けて声をかけて鞄を持つ。新妻のような初々しさと愛らしさに、疲れた様子ながらも将之は蕩けるような笑顔を見せた。
「散歩をしていたのか?」
「ウォーキングです」
両腕を軽く振った倫は、同意を求めるように亮を見る。
「お喋りをしながら、軽いウォーキングをね」
そう答えた亮を将之はちらとも見ずに、倫の肩を抱いてマンションへと向かって歩いていく。
「今度、俺も一緒に行っていいか?」
「もちろんです」
将之の態度にむっとしながら、二人の後を追う。
「どこまで行って来たんだ?」
「えっと……どこまでなんでしょう。いつもは河原のほうへと行くんですが、今日は違う道を歩いてみました」
いつもは無口の将之も、倫相手には自ら話を振る。
二人の後ろを歩きながら、タオルを手に持った倫の首元に目がいく。三か月を過ぎた今、三人の噛み跡は目立たないほど薄くなっている。噛んだ証拠がなくなる。このことに亮はやはりそうだったかと、薄々感じていた予感が的中していたことを悟った。あと一か月もすれば完全に噛み跡はなくなるだろう。そして、そのことは将之も大河も知っているに違いない。
気づかないのは、知らないのは倫だけ。もちろん、誰もそれを告げることはしない。
居心地のいいこの関係を壊したくない、と思いつつも、もし倫に選ばれるなら、とも願ってしまう。誰も愛してくれなかった自分だけを求めてくれるなら、何を捨てても構わないと思ってしまうのだ。
リビングから声をかけると、半袖のTシャツとハーフパンツ姿の倫が部屋から出てくる。
「はい。できました」
夜だから日焼けはしないが、可愛い顔を誰かに見られて誘拐でもされたら大変なことになると、亮は倫にキャップをかぶせ、タオルを手渡した。
「よしじゃあ、行こう」
「はい」
タオルを首に巻いた倫は嬉しそうに頷いて、玄関に向かう。
日頃の運動不足から足腰の弱さを気にするようになったのは、発情期になった倫を抱いたときからだ。勢いのまま、三度四度と体内に迸らせて、ひらすら腰を振って貪るように倫を愛した代償は、次の日すぐに現れた。腰のだるさや体の節々の痛みは、一日中部屋の中で椅子に座りパソコンを相手にする亮にはあまり感じたことがないものだ。明らかな体力不足だった。
十八歳の倫や二十五歳の大河に比べたら、劣るものはあるかもしれないが、このくらいでへたる亮は、四つ下の将之に比べ同じ三十代としてかなり劣っていると言わざるを得ない。まあ、将之は日頃から体を鍛えていて、腹筋も割れているし、あの長身も相まって、恐ろしいほどの肉体美を誇っているが、そこまでいかなくとも、せめて倫を満足させられるまで愛せる体力が欲しかった。
以来、週に何度か倫を伴って夜にウォーキングをするようになった。倫も楽しみにしているようで、大河から買ってもらったスポーツウェアを着て、うきうきと弾むような足取りでついてくる。
本好きな倫は、日中静かな室内で飽きずにずっとソファで読書をしているが、一週間に一度ある外出を心待ちにしている。どれほど好きだろうと、閉じこめられた室内でそればかりでは酷な話だ。
「今日は違うルートを行こうか?」
マンションを出て、左右を見てから、いつもなら人気のない河原のほうへ向かうが、今日は気分を変えて別の道を行くのもいいと思った。
「はい」
倫はこのマンションがどんな場所に建っていて、周辺にどんな建物があるのか、ほとんど知らない。窓から見下ろすだけの街は想像の域を越えないのだ。
振り向き後ろをついてくる倫の手を取って握り締める。
こうして手を繋いでいれば、誰かに攫われる心配もない。もちろん、ただ手を繋ぎたい思いもあったが。
並んで歩く倫の顔は少し恥じらっているように赤くなっていたが、嫌がっている様子はなかった。
「気持ちいい風だね」
「そうですね」
夜でも二十度を下回ることはなくなった今の季節、半袖でゆったり歩くにはちょうどいい。
「このパン屋さんは、何度か将之が買ってきてくれるあの店だ」
シャッターが閉まっている店の前で立ち止まる。閉店時間にはまだ早いが、この店はパンが売り切れてしまえば、そのまま閉店する人気の店だった。
「クロワッサン、美味しいですよね」
「倫の大好物だもんね。また買ってきてあげるよ」
倫が、いつになく美味しそうにかぶりついていたのを亮は知っていた。
再び歩き出した亮は十字路の手前で足を止め、右手にあった明かりがついた一軒家を指さした。
「ここの家、大きな犬を飼ってて……グレート・ピレニーズだっけ? めちゃくちゃ人懐っこいんだよ。通りかかったときに犬が抱きついてきて、顔じゅうを舐められた」
「へえ……犬なんて何年も触ったことがないです」
羨ましそうに倫が言うので、そういえば好きな食べ物や作家は知っていたが、動物のことまで訊いたことがなかったと、少し話を広げてみる。
「実家で何か動物を飼ってた?」
「飼っていません。母親が動物アレルギーで……小学校の頃、捨てられた犬を拾ってきて怒られたことがあります」
「そっか……」
「亮さんは何か飼ったことがありますか?」
珍しく倫が質問してくる。亮のことを知ろうとしてくれるのは嬉しいが、あまり幸せな思い出がないので話せることは少ない。
「ないね。でも嫌いじゃないよ」
「あ、そういえば将之さんは犬が好きだって言ってました」
過ごす時間も長い亮が一番倫のことを知っていると思っていたが、将之とはそういう話もしていたのかと、少し悔しくなる。
「あいつは昔犬だったから」
皮肉をこめて、将之の昔の職業を揶揄して言うと、倫は意味がわからないという顔をして首を傾げる。
倫が何か言いかけたときに、前方から大きなスポーツバッグを持った制服を着た男子高校生二人が話しながら歩いてきた。吸い寄せられるように倫の目が二人の姿を追う。
「受験なー。考えたくねえ」
「お前、でも……」
通り過ぎる瞬間、倫は手を強く握り返して亮の背中に隠れるように歩く。男子高校生は楽しそうに笑いながら通り過ぎていった。倫は気になる様子で足を止めて後ろを振り返る。亮も同じように足を止めて倫の視線の先を追った。仲がよさそうに話をしている高校生の後ろ姿を羨望に満ちた目で見ていたが、ふと同じように亮も足を止めていたのを知って「すみません」と慌てて謝る。
「あの制服……通ってた高校のです」
「そうだったんだ」
倫は十六歳でベータから転換した本当に稀なオメガだ。十六歳といえば高校生、もしオメガにならなければ、彼らのように毎日学校に行って勉強して部活に励んで普通の生活を送っていただろう。倫は誰からも愛される優しく素直な子だ。きっとクラスでも沢山の友達がいて、楽しく過ごせたはずだった。
オメガになってどれだけのことを諦めたかと思うと、可哀想だと同情してしまうが、最初から何も持たなかった自分とはどれだけ違うだろうかとも考えてしまう。親を知らない亮からしてみれば、今も相変わらず家族に愛されている倫は、オメガになって環境は変わったとはいえ、それだけで幸せなのはないかと思ってしまうのだ。
亮は、物心ついたときから児童養護施設で暮らしてきた。捨てられたわけではなく、育てられない事情があって預かることになったと聞いているが、それが本当か嘘かも知るすべはなかった。ただ小さな子供たちは次々と里親の元へ行ったり、親が迎えに来た子もいたのに、亮にはその機会は一度もなかった。
時々大人たちがひそひそと噂する『あの子は忌み子』だからという言葉は耳に入っていたが、幼かった亮は『忌み子』が何かわからない。
その意味を理解したのは、亮が小学校六年生の頃。誰かが声を潜めて話していた内容を聞いて『忌み子』と言われれる自らの出生の秘密を知ってしまった。兄妹相姦の果てに産まれた子、しかもオメガだったのを隠して生活していたらしく、発情期が起こり、一緒に居合わせた十四歳のアルファの兄が十二歳のオメガの妹を犯してできた子供だというのだ。
ショックだった。その頃、亮は十歳のバース検査でアルファと診断されていて、もしかしたらこれで誰かが自分を望んでくれるのはないかと期待していたのだ。
産まれてはいけない禁忌の子。そんな子供を欲しがる人は誰もいない。
自分はもしかしていらない子供だったのではないか、生きていることすら罪なのではないかと悩み、中学、高校は随分荒れたりした。
「亮さんは学生時代どんな風に過ごしていました?」
倫に突然そんなことを訊かれて、どきりとする。外出できて嬉しいのか、それとも高校時代を思い出したのか、普段はあまり質問してこない倫が、こんなに聞きたがるのも滅多にない。
「普通だよ。勉強してた」
顔が強張るのを感じながら、思い出したくもない記憶まで蘇ってきそうで、口調が素っ気なくなる。本当は好きな教科以外勉強などほとんどしたこともなく、落第しなければいいぐらいにしか学校にも行かなかった。もちろん友達もいない。
「俺は勉強が苦手でした」
「勉強が好きな子はあんまりいないよね」
話を合わせながら、亮は高校時代に付き合っていた人からプログラマーの道を勧められなければ、今頃倫を買うこともできなかっただろうな、とぼんやり考える。金さえあれば人生自由に生きられると知り、以来、ただひたすら好きなプログラミングにのめりこみ金を稼いできたのだ。誰とも会わず黙々とキーボードを打ち込む仕事は、人嫌いする亮にとって最適な環境だった。
「そういえば、倫はゲームする? やるなら家庭用ゲーム機買ってあげようか?」
リビングには倫が読む本や大河が好きな映画のディスクなどが置いてあるが、若い子が持っていそうなゲーム機はない。それに携帯電話も持たせていないし、パソコンも与えていなかった。現代社会において、携帯電話すらあげないのは酷い話かもしれないが、誰かと連絡をして逃亡を企てたり、ネット犯罪に巻きこまれたりしないように、持たせないことに決めたのだ。倫がよくないことを考えないよう外部との接点をできるだけ絶っておきたかった、というのもある。今は信頼しているので携帯電話ぐらい与えてもいいと思っているが、訊いても必要ないからと言って欲しがらなかった。
「ゲームは苦手なのでいらないです」
「珍しいね。今の子は結構ゲームやるでしょ」
かくゆう亮も気分転換に仕事の合間にプレイすることがある。若い頃はそれこそ寝食を惜しんでゲームをしたものだが、今はそこまでのめりこむことはなくなった。
「昔、友達の家で一緒に遊んだことはありましたけど、操作がわからなくて、反射神経が鈍いんでしょうね。すぐ死にました」
「あはは……ゲームは慣れだよ、っとそこ、道路窪んでるから」
手を引いて注意を促したが、倫は気づかずに躓いて前のめりになる。思わず、腕を掴み、転びそうになる体を抱きしめた。
「すみません。注意不足で……」
「ううん、怪我なくてよかった。足捻ってない?」
「大丈夫です」
すぐ間近で見上げる倫の瞳に、亮に対する安心感が見える。
倫の体から、ふわりと甘い匂いが漂ってきた。発情期のときに強く香ったフェロモンよりかなり薄まった匂いは、近づかない限り感じ取ることはできない。だが、以前より漂うときが多くなったような気がして、亮は一緒に外に出るとき、あまり人気のある所は歩かないようにしている。不特定多数の人にこの匂いを知らせたくなかった。
倫のフェロモンは、薔薇や百合などの噎せかえるような華やかな香りではなく、かといってチョコレートやバニラのような鼻をつく甘ったるい類でもない。どちらかというと瑞々さ感じさせる果物のような爽やかな甘さの匂いだ。亮はフィグの香りに似ていると思っている。
この匂いを嗅ぐだけで、胸がざわざわして、股間に血が集まっていく。そのときのことを思い出すだけで甘美な想像が頭を駆け巡るのだ。
はじめて倫を抱いた。はじめてのセックスだった。実は、亮は、恋人は数多いたが今まで一度も挿入まで至ったことはなかった。
別に童貞を守ってきたわけではない。手や口の愛撫で反応するそこも、ことに及ぶようになるとまず勃たない。はじめからそうだった。出生にコンプレックスを抱いているせいもあり、セックスがあまり好きじゃないのだと思う。
付き合っていた相手には、いつも他人を宛がった。もともと性癖が歪んでいる自覚もあり、気楽に寝取られ気分を味わって楽しんでいたら、そのうち愛想を尽かしていなくなった。それでも、次から次へと誘ってくる人は多かったので恋人は切らしたことはなかったが、本気で誰かを愛したり、嫉妬したりしたことは一度もなかった。
はじめのころ、倫にも同じことをしていたので、今では本当に悪いことをしたと痛感している。
オメガを買ったのもきまぐれだと言ったら、最低だと怒るだろうか。
資料を見て、子供が産めないオメガと知って興奮したアルファは、多分亮だけだろう。
三人の番を得て、さらに昂った。自分が抱かなくても倫は他の二人に抱いてもらえる。その背徳感にぞくぞくした。
倫を抱いた今ではもう、その気持ちはないが、ただひとつ激しく後悔したことがある。
そう、倫のはじめての男になるチャンスを自ら棒に振ったことだ。
将之と大河、どちらが先に倫の体を知ったのか、それはどうでもいい。嫉妬するだけなので知りたくもない。そのときは、抱けるとは思っていなかったので、誰が倫を先に抱くのか話し合いにすら参加しなかった。
もしそのときに戻れるなら、我先に名乗りを上げていた。首を噛んだときのように、誰よりも先に飛びついただろう。
「どんくさいですよね、俺。運動もあまり得意じゃなくて……」
倫はタオルをぎゅっと握りしめてぽつりと呟いた。
「俺のほうがもっとどんくさいよ。ほら、部屋でも何もない所で躓いたりしてたじゃん」
亮が自らの恥ずかしい場面を吐露すると、倫はそのときのことを思い出したのか小さな声でくすくすと笑った。
「そういうわけで、ちゃんと歩こう」
「はい」
隣に並んだ倫は、腕を振ってきびきびと歩き出した。亮も遅れないように後を追う。
そうして歩いているうちに、マンションの周りをぐるっと回っていたようで、ちょうど残業して帰ってきた将之とばったり出会った。
「お帰りなさい。将之さん」
将之の元へと小走りになって駆けていく倫は「残業お疲れ様です」と続けて声をかけて鞄を持つ。新妻のような初々しさと愛らしさに、疲れた様子ながらも将之は蕩けるような笑顔を見せた。
「散歩をしていたのか?」
「ウォーキングです」
両腕を軽く振った倫は、同意を求めるように亮を見る。
「お喋りをしながら、軽いウォーキングをね」
そう答えた亮を将之はちらとも見ずに、倫の肩を抱いてマンションへと向かって歩いていく。
「今度、俺も一緒に行っていいか?」
「もちろんです」
将之の態度にむっとしながら、二人の後を追う。
「どこまで行って来たんだ?」
「えっと……どこまでなんでしょう。いつもは河原のほうへと行くんですが、今日は違う道を歩いてみました」
いつもは無口の将之も、倫相手には自ら話を振る。
二人の後ろを歩きながら、タオルを手に持った倫の首元に目がいく。三か月を過ぎた今、三人の噛み跡は目立たないほど薄くなっている。噛んだ証拠がなくなる。このことに亮はやはりそうだったかと、薄々感じていた予感が的中していたことを悟った。あと一か月もすれば完全に噛み跡はなくなるだろう。そして、そのことは将之も大河も知っているに違いない。
気づかないのは、知らないのは倫だけ。もちろん、誰もそれを告げることはしない。
居心地のいいこの関係を壊したくない、と思いつつも、もし倫に選ばれるなら、とも願ってしまう。誰も愛してくれなかった自分だけを求めてくれるなら、何を捨てても構わないと思ってしまうのだ。
0
あなたにおすすめの小説
ふたなり治験棟 企画12月31公開
ほたる
BL
ふたなりとして生を受けた柊は、16歳の年に国の義務により、ふたなり治験棟に入所する事になる。
男として育ってきた為、子供を孕み産むふたなりに成り下がりたくないと抗うが…?!
上手に啼いて
紺色橙
BL
■聡は10歳の初めての発情期の際、大輝に噛まれ番となった。それ以来関係を継続しているが、愛ではなく都合と情で続いている現状はそろそろ終わりが見えていた。
■注意*独自オメガバース設定。■『それは愛か本能か』と同じ世界設定です。関係は一切なし。
こじらせΩのふつうの婚活
深山恐竜
BL
宮間裕貴はΩとして生まれたが、Ωとしての生き方を受け入れられずにいた。
彼はヒートがないのをいいことに、ふつうのβと同じように大学へ行き、就職もした。
しかし、ある日ヒートがやってきてしまい、ふつうの生活がままならなくなってしまう。
裕貴は平穏な生活を取り戻すために婚活を始めるのだが、こじらせてる彼はなかなかうまくいかなくて…。
断られるのが確定してるのに、ずっと好きだった相手と見合いすることになったΩの話。
叶崎みお
BL
ΩらしくないΩは、Ωが苦手なハイスペックαに恋をした。初めて恋をした相手と見合いをすることになり浮かれるΩだったが、αは見合いを断りたい様子で──。
オメガバース設定の話ですが、作中ではヒートしてません。両片想いのハピエンです。
他サイト様にも投稿しております。
こわがりオメガは溺愛アルファ様と毎日おいかけっこ♡
なお
BL
政略結婚(?)したアルファの旦那様をこわがってるオメガ。
あまり近付かないようにしようと逃げ回っている。発情期も結婚してから来ないし、番になってない。このままじゃ離婚になるかもしれない…。
♡♡♡
恐いけど、きっと旦那様のことは好いてるのかな?なオメガ受けちゃん。ちゃんとアルファ旦那攻め様に甘々どろどろに溺愛されて、たまに垣間見えるアルファの執着も楽しめるように書きたいところだけ書くみたいになるかもしれないのでストーリーは面白くないかもです!!!ごめんなさい!!!
借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる
水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。
「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」
過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。
孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる