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【剛】(ゴウ)走る
しおりを挟む今夜の厨房を花色に変わってもらった勝色が、いつにも増して念入りに身支度を整えていた。
「名前、聞いておけばよかった」
勝色がポツリと呟いた。しかし、次の瞬間「今日は接客に入っていて良かった」とニヤニヤしながら満面の笑みを浮かべた。いつもは勝色も花色も厨房で調理を担当しているが、接客の担当が休みのために勝色が臨時で接客に入っていた。
勝色が待ち合わせの時間に行くと、待ち人は既にいた。
「待たせてしまいましたか?」
声をかけた勝色に気がついた男が、軽く会釈をした。男は少しばかり興奮しているのか、顔を僅かに紅潮させていた。
「俺まだ名も名乗ってなくてすみません。剛っていいます。
今夜は嬉しくて緊張しちまって、かなり舞い上がってるんで、おかしくなる前に言わせてください。
俺、ここ数年『花色さん』のことを見てました。
はじめは綺麗な人だなと思って。
それから段々好きになりました。
今では寝ても冷めても花色さんの事が頭から離れないくらい好きです。
俺、初対面はみんなに怖がられるから、なかなか話しかけられなくて。だから…」
「だから?
…俺に花色との仲を取り持って欲しいって?」
勝色が剛の言葉を取り上げた。
「そっか、あんた花色が好きだったんだ。
それなのに俺一人で浮かれちまって。
馬鹿だ!
そっか…俺、とんだ道化師だ」
はあーーっ、大きく息を吐いて勝色が空を見上げた。
潤んだ瞳からは下を向けば涙がこぼれ落ちてしまいそうに溢れていた。
「ごめん、今夜ちょっと用事あるのを思い出したわ。ごめんな、剛さん。花色にはそのうち、また」
事情がつかめずに呆然とする剛をひとり残し、脱兎のごとく勝色が走り去った。
いったい何が起こったのか把握できない剛が、その場に立ち尽くしていたが突然、はたと思いたったように走り出した。
剛の向かった先は巴屋だった。
女主人は「今忙しいんだよ、明日にしておくれ」と剛を冷たくあしらった。
部屋に戻った剛が、どうにも治まりのつかない胸のうちを持て余し一人酒を煽り始めた。
次の朝、いつもより遅く目を覚ました剛が、昨日の悪夢を思い出して自己嫌悪に陥っていた。
「頭が痛てえ」
「大して飲めもしねえのに酒なんか飲むからだ。…で、何があった?」
二日酔いに悩まされながらも、剛が柔に昨日の顛末を洗いざらい話した。
話を聞いた柔が、少し考えたあと、おもむろに口を開いた。
「俺と揉めた『花色』が、昨晩剛と会った男じゃねえのは間違いねえ。
女主人が何を勘違いしたのかわからねえがな。
しかし一番やっかいなことは、その男があらぬ誤解をしちまったことだな。
まずは女主人にもう一度事情を聞くこった。
そんで、そいつに誠心誠意、話を聞いてもらうしかねえな」
「そうだ、剛。もしその男に会いに行くのなら、花の一つでも摘んで持っていけ。
好きな奴のためにお前が選んだ花を、な」
剛の背中に向って柔が叫ぶと、「おおっ」と遠くから剛の返事が届いた。
(お前が誤解を解いてくれねえと、『俺の花色』が困るからな)
柔が心の中で付け加えた。
すぐさま剛が向かった先は巴屋だった。
事細かく事情を説明すると女主人がケラケラと笑い始めた。
「なんだ、揉めた当人じゃなくて、話を聞きに来た人の名を聞いたのかい。
なら分かるように聞いておくれよ。
次の日に来たのは『勝色』様だよ」
それを聞いた剛が心の中で(ああー何という事だ)と頭を抱えた。
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