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第一章
第14話 喧嘩はもういい
しおりを挟む──殿下が仕組んだ可能性は?
「………」
私は机の引き出しにしまってあったマッチをとって、燃やしたものを置いておける皿か何かを探した。が、特に見当たらない。
絨毯に燃え移ってもいけないし、仕方ないから器を持ってきてもらうことにした。
「マチルダ、いる?」
「ええ、ええ。いますよ。どうしましたか?」
「お風呂の前に紅茶が飲みたいの。いけない?」
「珍しいわがままですこと。喜んで準備いたしますわ」
5分ほど待つと、ワゴンにトレイを載せてマチルダが部屋を訪ねてきた。孤児院のことで少し一人にしてほしい、風呂に入る時は呼ぶからと言うと、涙目になってうなずく。
彼女が出て行ってから、ソーサーの上でメモを燃やした。自分のメモ帳をちぎって、それと混ぜてしまってから、机の側のくず入れに捨てておく。
彼女のメモは、ヴィオレッタ自身の立場を脅かしかねない。それこそ革命派だと言われても仕方ない内容だった。
予定外の私の受賞に加え、本来の優勝者であり、噂の中心人物のヴィオレッタが同じ場にいるのだ。何か起きないことの方が少ないだろう。
だからきっと、彼は可能性を感じただけにすぎない。…決して、彼があの男を差し向けたなんて思ってはならない。
──殿下、今は……。
──彼女の意見を聞いてからではいけませんか?
部屋の外で話し声が聞こえた。
控えめな音量でノックの音がして、予想通りの人物が扉越しに話しかける。
「フリージア。…顔が見たいです。入ってもいいですか?」
「……」
「…今じゃなくても構いません。やはり今日は出かけないことにしました。僕と話せる余裕ができたら、マチルダに言ってください。すぐに来ますから」
待たれている、ということか。それならいつ会っても変わらないのかもしれない。
紅茶を一口飲んだら落ち着いたと言えばいいだろうと、私はカップを持ち上げ口に含む。
「殿下、…どうぞ」
「…いいのですか?」
「ええ」
扉を開いてもなお、部屋の入口で彼は迷っているようなそぶりを見せる。私がどうぞと微笑むと、おそるおそる殿下は部屋に入ってきた。
「途中で引き返してきたんです。あまりよくないことですが、君のことを例にあげて安心できないからと」
「そうですか」
「ええと、…座っても?」
私は頷いて、殿下が腰掛けたその隣に座る。彼は意外そうな顔をしたが、そんなの今更だ。
よくよく考えれば、5つ、もしくは6つ年下の子たちに振り回されている。大人の威厳なんてものはない(そもそも彼らにとってはフリージアも同い年だし)。
勝手に部活に入ったり、殿下とヴィオレッタをくっつけようと奮闘してみたり。いろいろ好き勝手やってきたけれど、もっともっと、要求したって許されるのかもしれない。
フリージアは意外と、いつ死んだっておかしくない環境にいるのだから。
「殿下」
「はい」
「膝……」
私は言いかけた口を手で押さえた。
人肌に合法的に触れる方法はもっとあったのかもしれないが、疲れた頭ではいいことと悪いことの区別もつかないのか。
できれば同性で、年齢の差もあまりない子に、もしくは年上のお姉さんに思いっきり甘やかされたい。ああ、それかおじいちゃんかおばあちゃんでもいい。
久しぶりに悪意をまざまざと見せつけられて、子どもに戻りたい欲が湧き出てきたんだろうか。
「膝…?」
「いいえ、なんでも」
殿下は汚れか何かと思ったのか、軽く膝をはたいている。
「そういえば、なんだか焦げ臭いというか、…何か焚いたような匂いがしますね」
「そうですか? 換気しますね」
確かに、言われてみればそうかもしれない。詰めが甘い性格が出てしまっている。
私は窓を大きく開けて、彼を振り返った。
その瞬間、私は動けなくなる。
彼の視線が、初めて会った日のように鋭く、それでいて冷たく私を突き刺していたからだ。
「………」
私は窓枠に手をかけた。ここは2階。逃げようがない。いや、逃げる意味なんてないのに。私は何に怯えている?
「フリージア」
殿下が手招きする。吸い寄せられるようにその隣へ座ると、彼は無表情のまま私の髪を撫でた。
「手紙を燃やしましたね?」
「……」
部屋に入れるんじゃなかった。
「燃やすなんて、この前のヴィオレッタからの手紙とは訳が違う。きっともっと重大で、僕に見られたらまずい内容なんでしょうね?」
ごくり、と私は唾を飲み込んだ。その仕草は肯定を表している。もとより、誤魔化すのが下手な人間だった。
「……そうです」
彼の問いかけに素直に答えると、口元は緩やかに弧を描く。私が隠し事をできないのは、彼もきっとわかっているはずだ。
彼は、私が全てを話すと思ってくれているだろうか。
「でも、言えません。あの内容を知ったところで誰も幸せになれないですから」
「少なくとも僕の心配は解消されて幸せになるわけですが」
「いいえ、なりません」
「なります」
「「…………」」
彼はきっと譲らないだろうが、私だって譲れない。ヴィオレッタに疑われたなんて知ったら、殿下は……。
どっちにしろ、いい気分にはならないだろう。私は立ち上がって、ドアの外のメイドに声をかける。
「マチルダ、お風呂に入ります」
「待ってください」
「殿下、私がそうした理由を考えていてくださいね。小一時間ほどで戻りますわ」
私が服を脱ぎ始めると、殿下は私から視線を逸らす。
「…部屋で待っていろと言うのですか?」
「ええ。待っていてくれるでしょう?」
「……」
風呂に入っている間も、やはり彼が一連の事件をを仕掛ける意味は見出せなかった。ヴィオレッタの汚名を晴らすためだとしても、あの方法では彼女にもマイナスのイメージがつくことになる。彼にとっては、それも喜ばしいことではないはずだ。
…そう信じたいだけなのかもしれないが。
いつもは部屋でする手入れも、部屋で彼が待っているからと別室ですることになった。メイドたちはイキイキしているからいいんだけど。
仕上げにパウダーをからだにはたいてから、軽く1時間は経っていることに気づく。夕食がまだだったから、と私の部屋に用意してくれることになった。
「殿下、お待たせいたしました」
彼も着替えを済ませていて、私の部屋にいつもと違うテーブルと椅子が並べられていた。そんなことまでするなら別部屋にすればよかった、ソファを運び込んでもらうにはまたお願いしなければならないから。
「二人きりのディナーというのは初めてですね」
「そうですか? 今までもたまにありましたよね?」
「そばにメイドがいたでしょう。今は部屋の外に居てもらっています」
私はなるほどと呟いた。料理は時間を計って持ってくるようお願いしているらしく、しばらくするとメイドが控えめにノックしてきた。
料理のお皿を取り替えてから、殿下は口元を拭う。
「あれは、二人きりでしなければならない話かと思いましてね」
殿下はくずかごを指差した。おそらく中身を見たんだろう。
「その話はもう終わりましたよ?」
「いいえ。そのために君は僕をここに引き留めたのでは?」
「たまには殿下と共寝をするのもいいかと思いまして」
「……僕を揶揄っているのですか?」
「殿下。私があなたを揶揄う理由がどこにありますか?」
「……」
殿下は私をきっと睨みつけて、黙々と料理を口に運んだ。私も昼間食べられなかったからお腹が空いていたし、あんなことがあっても食欲に全く響いていない自分に驚く。案外図太いのかもしれない。
「ヴィオレッタの疑惑については、おそらく殿下のおっしゃる通りになりましたよ」
「ヴィオレッタ?」
「ええ。彼女は私を颯爽と救い出してくれましたから」
機嫌を取るためにヴィオレッタの話を持ちかけたが、正解だったようだ。うまく食いついてくれた。
あの思い切りのよさは本当に、主人公にしかできない行動だったと思う。
「この小さな傷も、大袈裟に反応したんですよ。ふふっ」
あの時のヴィオレッタを思い出すだけで笑えてくる。あんな少女漫画みたいなことをして。
「…颯爽と救い出す、と言うのは?」
「お恥ずかしいのですが、腰が抜けてしまって。動けなかった私を抱き上げて運んでくれたんです」
「そうだったんですか。…怖い思いをしましたね」
「ヴィオレッタがすぐそばにいましたから。大丈夫ですよ」
言いたいのはそこじゃないのだけど。まあそれでもいいか。ヴィオレッタの様子は彼も気になるだろうし、ここはサービスをしておこう。
「ヴィオレッタったら、私を下ろす時によろけてしまって。シャツに口紅がついたのを指摘した時──」
──カチャ。
彼がシルバーを皿の上に置いた。
「僕をそんなに揶揄って楽しいですか」
「…?」
彼はナプキンで口を拭い、席を立つ。
揶揄ったつもりは毛頭ないのだが、…?
「殿下?」
「……しばらく頭を冷やしてきます」
「え? 殿下──」
まともに会話もできず(主に私が狼狽えてしまったせい)、殿下は部屋を出て行ってしまった。一人残された私は、いきなり空いた目の前の席をぼーっと眺めながら、それでも食事をする手を止めなかった。
…いよいよ追い出されてもおかしくないのかもしれないな。彼の機嫌を取るための行動だったはずが、逆に彼のプライドを傷つけてしまったのかもしれない。
「…うーん……」
おそらく出ていく彼を見てか、ささやかなノックの音が聞こえた。心配させまいと明るい声を出す。ほっとしたような声で「失礼いたします」と二人分料理を運んできた。
「フリージア様。…その」
「お察しの通り、喧嘩中よ。今日はもう寝る支度に入るから、申し訳ないけれどあなたたちで召し上がって」
「もういいのですか?」
「ええ。それより殿下の説得をしなくちゃいけないの。マチルダを呼んで」
「かしこまりました」
その後、部屋に入ってくるメイドたちのテンションが明らかに下がっていて面白くなってしまった。彼女たちには申し訳ないけれど。
ソファも元通り配置されて、ようやく私の部屋に帰ってきた気がする。
「今朝は早かったですし、お疲れでしょう」
「ええ。あなた達ももう休んでね。ありがとう」
マチルダたちが部屋を出た後、私は早速準備に取り掛かった。
枕に、ブランケット2枚。今日は少し寒いと言ったらいつもより布の面積が広い服を着せてくれたから大丈夫。
「それにランプと…眠れなかった時のための本?」
色々かき集めていたら大荷物になってしまったけど。
「作戦開始よ!」
◇◆◇◆◇
「…えーっと、お嬢様。ここで何を…」
「気にしないで。私は今日ここで眠るの」
「そ、そうですか…?」
殿下の部屋の前に、大きなトランクケースを広げる。床にブランケットを敷いて、枕を置いたところでレオナルドが止めに入る。
「フリージア様!? こんなところで何をしてるんですか!? お前も止めろ、馬鹿!」
「レオナルド。私はこの人に気にしないでって言ったの。止めなかったんじゃないわ」
「はあ、そうですか…ってなるわけないでしょう! 第一、殿下は本日はもう帰ってきませんよ」
「え?」
「離れに宿泊なさると仰っていましたが。お前…伝えなかったのか?」
「気にしないで、と…」
「……」
それは予想外だった。殿下は私のせいで機嫌を損ね、そのまま城を飛び出してしまったのか。
「…で、どうするんです? 部屋に戻るなら手伝いますよ」
「……いい、ここで寝る」
「身体、痛くなりますよ」
「大丈夫…」
「風邪を引くかもしれません」
「大丈夫よ」
「ちなみに、何でここで寝るのか、理由を聞いてもいいですか?」
「……」
「もしかして、また喧嘩でもしました?」
「…………うん」
「はあ、殿下も殿下ですけど、フリージア様も相当ですよね…」
呆れた様子のレオナルドが、部屋の護衛に何か耳打ちする。二人してどこかに行ってしまったが、私はめげずにランプの光で本を読むことにした。
「…やっぱりちょっと寒いかも」
本を閉じて横になる。護衛もいなくて一人だと思うと、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、怖い、…かも。
床と頭の位置が近いからか、複数人の足音がやけにうるさく聞こえる。怖さも寒さも寝れば大丈夫だけど、騒音は流石に無理かもしれない。
「あれ、もう寝ちゃいました?」
「……?」
目を開けると、レオナルドたちがソファを持ってきてくれていた。
「えっと…?」
「近くの部屋から持ってきました。さすがにベッドを持つには人手が足りなくて」
さすがに床で寝るのはアンナ様に怒られますから、とレオナルドが苦笑する。
「ありがとう。……殿下、許してくれるかしら」
「ちなみに、なんで喧嘩したんです?」
「わからないの」
「……許してくれる可能性、低そうですね…」
「そんな…」
彼らが用意してくれたソファに本拠地を移すことにした。確かに随分と寒さも軽減された気がする。レオナルドに隣に座るよう言って、相談に乗ってもらうことにした。
もちろん、手紙の存在は伝えずに。
「うーん…ヴィオレッタ様の話をしたら、怒った、と…」
「だいぶ端折ったわね。聞いてた?」
「聞いてましたよ! まあ、嫉妬したんじゃないですか? ヴィオレッタ様に」
「ないない。だって殿下は──」
私は口をつぐむ。危ない、何を口走ろうとしていた?
この城でその事実を知っているのは私のみ。
レオナルドは私と彼の初対面の場にもいなかった。つまり、殿下と私の結婚が仮初のものだって知らないってわけ。つい気を許してしまうけど、彼にも言っちゃいけないことはある。
同時に、彼の言ったことを思い出す。ヴィオレッタに嫉妬した、ではなく、私に嫉妬した、なら有り得るのかも。
この世界でまだ同性の恋愛を見たことがないから、彼の中で女性同士が結びつきやすいものなのかどうかがまだ掴めない。何より、ヴィオレッタは大切な友達だ。
「友人にまで嫉妬するとは思えないわ」
「……そうですかねえ…?」
「レオナルドがそう思う根拠はあるの?」
「…言っていいのかなー、…怒られるかもだし、…」
「大丈夫よ」
「いや! …やめときます。男同士の友情ってことで」
「……ずるいわ、そんなの気になるじゃない」
「同じこと、殿下もされたって言ってましたよ」
そう言われたら引き下がるしかない。
「まあ、帰ってきたあの人の反応を見たらわかるんじゃないですか」
「…呆れられるかしら?」
「さあ、どうでしょう?」
いつも私の部屋の前にいる護衛達も今日はこちらに呼んでくれるらしい。かえって迷惑をかけてしまったけど、家出した彼よりはマシだろうか。レオナルドは風邪だけは引かないように、と言ってその場を離れた。
目が覚めたら、殿下が帰ってきてますように。
そして、何が嫌だったのか聞いて、謝って、それで──。
◇◆◇◆◇
「フリージア、…フリージア」
「……?」
「本当にこんなところで寝てるなんて。危ないですよ。お前たちも、何故彼女を部屋まで運ばなかった」
いつもの優しい声がする。
温かい手が顔をペタペタ触ってきた。湯たんぽがわりにしてやろう、とその手をぎゅっと握る。
「……早く帰ってきて正解でした」
身体が運ばれる感覚。おそらく殿下が抱き上げたのだろう。昨日から誰かにこうされることが多いけど、殿下はさすがに安心感があるというか。
うっすら目を開けると、やっぱり殿下だった。頭を彼の胸に預けると、鼓動が伝わってくるような気がする。
私をベッドに下ろして、被っていたブランケットを再び体にかけてくれる。
「目が覚めましたか?」
「……」
黙って手を伸ばす。彼は不思議そうにしながらも同じように手を伸ばして、私はその手を握った。
「フリージア…」
殿下の体重がベッドに加わって、マットレスが少しだけ沈んだ。
「ごめんなさい…」
「……反省しましたか?」
「はい、…でも」
「でも?」
「何で殿下が怒ってるかわかりません」
「……」
「痛っ!?」
鼻を思い切りつままれた。仕返しを、と起き上がると同時に、ノックの音とレオナルドの声が聞こえてくる。
「お二人とも~。盛り上がるのはいいですが、本日は必修授業がありますからねー」
「…わかってる!」
「お~こわ。念のため言っただけですよ」
殿下とレオナルドは、なんだか前より親しくなっている気がするな。歳も近いし、オルハンとは違ったタイプの友人でもあるのだろう。
やり返せないのも癪だが、今日は殿下にしてやられるとするか。
「今晩は一緒に寝ますよ」
「え?」
「君が言ったんでしょう。それに…」
殿下は昨日家を出ていくのを、アンナ王妃に見られたらしい。その機嫌を取っておかないととのことだ。
「牽制したヴィオレッタが、君に夢中だと知ったら…今度こそ、卒業を待たずにどこかへ飛ばされるかもしれません」
「私に夢中だなんて。万が一そうだとしても、問題ないのでは?」
「君の呑気さにはもう慣れましたが、気分が良いものではないですね」
「ヴィオレッタにそんなに気を張ってるのは、殿下ぐらいですわ。本当はヴィオレッタのことが好きなくせに。…素直じゃない人」
殿下はシーツをぎゅっと掴んで、私をじっと見た。素直じゃないのは自分の方だとわかっている。
もしかしたら傷つけてしまったかもしれない、と思う。それなのに止められないのはどうしてだろう。精神年齢まで、随分と幼くなってしまったのか。
「殿下!」
「おい、今は──」
「レオナルド隊長、伝令です! 殿下にお目通りを」
ドアの外が急に騒がしくなる。殿下は先ほどまでの雰囲気とは打って変わって「入れ」と真剣な声を張り上げた。軽装の騎士がレオナルドと共に扉から入ってきて、私たちから少し離れたところに片膝をつく。
「先ほど、ジャンヴィエ家が何者かに襲撃されました!」
「何!?」
ジャンヴィエ家、ということは──?
「サラ…!!」
「フリージア!」
慌ててベッドを降りようとした私の腕を、殿下が掴んだ。今は騒ぐべき時じゃない、とでも言いたげに首を横に振る。
「大臣は?」
「腹部を刺されていますが、意識ははっきりしています。ご夫人は他国で休暇中だったようで、こちらも無事とのことです」
「さ、サラは無事なの?」
「現在調査中です。屋敷に炎が放たれていて、今は何とも申し上げられません」
「………」
「分かった。下がってくれ。何かわかったら報告を」
「かしこまりました」
男が部屋を出ると、殿下は私の腕を離して、それから着替え始めた。
「…家庭教師をここに呼ぶ。君は今日、城から一歩も出てはいけませんよ」
「殿下は…」
「僕は調べなければならないことがあります。レオナルドを置いていきたいところですが、…僕にも彼が必要です」
「…わかりました。部屋で大人しくしています。約束しますわ」
「フリージア」
シャツのボタンを留めながら、殿下がこちらに歩いて来る。彼に抱きしめられて初めて、自分が震えていることに気づく。
「サラのことが心配でも、絶対に外に出ないでくださいね。君に何かあったら今度こそ僕は、犯人を許せません」
「殿下…」
私がここを出て行ってうろついたところで、きっと現場を混乱させるだけだ。さすがにこれ以上彼や周りの人に迷惑をかけるわけにはいかない。
私は頷いて、一度彼の背中にぎゅっと腕を回した。
「フリージア…」
「殿下もご無事で」
行ってこい、という意味を込めて身体を離すと、殿下は頷いて、首元のボタンを留める。レオナルドが慣れた手つきで彼のクローゼットから質素なジャケットを取り出して、二人は部屋を出て行った。
◇◆◇◆◇
勉強に身が入らないのを教師に何度も叱られては、ようやく夕方ごろ、殿下が帰ってきた。おそらくどの部屋にも寄らず、真っ直ぐここに来たんだろう。コートのまま私が勉強していた部屋に来て、先生を退室させた。レオナルドが彼を制して、コートを脱ぐようジェスチャーする。
そしてその間、彼は一言も喋らなかった。そんな殿下の様子を見るだけでも涙が出そうだ。胸がズキズキして、うまく息ができなくなる。
「殿下」
「……」
殿下は私をソファに座らせて、目の前に片膝をついた。私の手を握って、目を見ながら口を開く。
「ジャンヴィエ公爵令嬢は…見つからなかった」
私は瞼を伏せた。
視界に光が入らないまま、彼に問う。
「……生きてるってことですよね。そうですよね?」
「わからない」
「わからない、というのは…」
「思っていたより火の回りが速かったらしい。消火が間に合わず、屋敷は全焼だ。…そして、現場に誰のものかわからない焼死体が…」
「…嘘だと言って」
「フリージア」
「……こんな、こんなのって、…」
顔を手で覆った。どんなに堪えようと思っても、身体は言うことを聞いてくれそうにない。
人が死んだ。
私のせいで?
私のせいだ。
私は、物語の中でサラを殺した覚えなんてない。
書き手のいない物語の中で、誰が舵を取っているのかもわからないまま彷徨っている。
私は恋愛なんかにうつつを抜かして、誰の結末を見届けるでもなく、怠惰に日々を過ごしている。
誰がこの物語を終わらせるのか。
そんなことも、今となっては誰もわからない。
書き始めた私が、この中に入ってしまっているんだから。
「フリージア。まだあの子だと決まったわけではない」
「じゃあ誰だって言うんですか。でも、それだとしても、変わりはないわ」
「どういう意味です?」
「私が、サラを殺したの。サラじゃなくても、サラの家の人を殺したことには変わりはないわ」
私が感情のままに口走った言葉で、この部屋は静まりかえった。
殿下は私を見て、意味がわからないと言う顔をした。部屋の入り口にある扉の前に立っていたレオナルドも、信じられないという顔で私を見ていた。
「どういうことだ?」
30秒ほど経った後、殿下は重々しく口を開いた。
「フリージア。今、なんと言った?」
「あ…えっと」
「フリージア。…僕に黙っている事はありますか?」
私は首を横に振った。だけど、2人の視線は私のそれを真っ向から否定しているものだった。
逃げられない。逃げられないどころか、もう、言ってしまった方が楽なのかもしれないとも思った。
「殿下。話を聞いてくれますか?」
気づけば涙は止まっていた。
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TOTOさま
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