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しおりを挟む翌日。私は予定通り体調不良を理由に、庭園での茶会を欠席した。
窓の外を見下ろせば、めかし込んだ令嬢や貴公子たちの服が花のように咲き乱れているのが見える。
お茶会出席者以外も城内はいつもより人が多く、浮足立った空気が漂っていた。
祭りの熱気のせいか、あるいは振る舞われる度数の強い酒のせいか。人目につかない回廊の陰や、空き部屋へと消えていく男女――いや、男同士や女同士の姿も珍しくない。
我が国では、第一子である長子こそが絶対的な存在であり、それ以外は比較的自由だ。
それは性愛に関しても同様で、身分さえ弁えれば、同性同士の情事も「嗜(たしな)み」の一つとして黙認されている。
だからこそ、1度目の人生での私とクラウスの婚約も、表向きは奇異な目で見られつつも、許されていたのだ。
――裏に、「私が兄上のために一生魔力譲渡をする」という、父上との密約があったからこそだが。
「……静かな場所に行きたい」
「かしこまりました。図書室ならば、この時間は誰もいないでしょう」
私は部屋に籠もるのにも飽き、本を借りるために珍しく外出を許してくれたクラウスを伴って廊下を歩いていた。
日差しが、大きな窓から降り注ぐ。磨き上げられた床に、短い影を作り、空気中を舞う埃がキラキラと輝いていた。
それは穏やかな日常の一コマに見えた。
コツ、コツ、と二人の足音だけが響く。
「――殿下」
不意に、名前を呼ばれた。
振り返ると、逆光の中にクラウスが立っていた。
微笑む今の彼の姿に、かつて私を「エル」と甘く呼んでいた頃の恋人の姿が、幻のように重なって見えた。 光に溶けるようなプラチナブロンドの髪。その透き通るような翠の瞳が、眩しいものを見るように優しく細められていた。
「……襟に、糸屑が」
彼は自然な動作で手を伸ばし、私の襟に触れた。
その、穏やかな微笑み。
慈愛に満ちた眼差し。
(あ……)
時が、巻き戻ったような錯覚を覚えた。
騎士教導院の帰り道。今とは違う、夕焼けの中で、彼はいつもこうして私を見ていた。
あの目を、覚えている――。
***
騎士教導院の寮へと続く、プラタナスの並木道。
夕日が私たちの背中を押し、地面にはひどく長い影が伸びていた。
「――それでさ、昨日の実習の時の……おいクラウス、聞いてるのか?」
私が隣を振り返ると、クラウスは少し離れた位置を歩きながら、足元を見て楽しそうに笑っていた。
「……ごめんごめん。聞いてるよ」
「嘘つけ。上の空だっただろ。……さっきから何なんだ? なんでそんな変な距離で歩いてるんだよ」
「近づくと、触りたくなるから」
「ッ……!?」
クラウスがサラリと言い放った言葉に、私はカァッと顔が熱くなった。
昨晩の記憶――ベッドの上で、汗ばんだ彼にきつく抱きしめられ、朝まで愛された記憶がフラッシュバックする。
あんなに肌を合わせた翌日に、こんなところで何を言っているんだ、この男は。
「ば、馬鹿! 声が大きい!」
「はは、冗談だ」
クラウスは「ふふ」と喉を鳴らし、足元の地面を指差した。
「見てみなよ、エル」
「あ?」
つられて視線を落とす。
石畳の上、黒々と伸びる二つの影。
私が足を止めると、クラウスも止まった。そして彼が、半歩だけ後ろに下がって、体を少し傾ける。
すると、地面の上で――私の影の手と、クラウスの影の手が、ぴったりと重なった。
「……え」
「ほら。手、繋げた」
クラウスが得意げに言った。
まるで初めて好きな子と手を繋いだ少年のような、無邪気すぎる笑顔だ。
「……なっ」
私は呆れと、くすぐったさで言葉がつまった。
「お前なぁ……私たち、もうそんな『ウブな関係』じゃないだろ」
「あはは」
「昨日の夜だって、散々……その…」
「あぁ、最高だった」
「だっ、だまれ!」
私が顔を真っ赤にして怒っても、クラウスは影を重ねるのをやめようとしない。
むしろ、影の中で指を絡めるように、さらに位置を調整している。
「でもさ、外じゃなかなか触れられないから」
夕焼けの中、彼は愛おしそうに、地面の上の「繋がった影」を見つめて呟いた。
「乱れる君も好きだけど……こうやって、ただ並んで歩く君のことも、同じくらい愛しいんだ」
「……っ」
そんなふうに、私のことが好きで、大切でたまらないと語るような、目と言葉で言われたら、もう何も言えない。
私は顔を見られないように、そっぽを向いた。
「……勝手にしろ」
「あぁ、勝手にする。……あ、見ろエル。影の中でキスした」
「調子に乗るな!!」
バシッ、と私が肩を叩くと、クラウスは幸せそうに声を上げて笑った。
***
(どうして……?)
胸の奥が、張り裂けそうになった。
視界が急速に歪む。
(あんな顔をするなら、どうして私を殺したんだ)
(どうして裏切ったんだ。どうして私を一人にしたんだ)
許せない。憎い。怖い。
けれど、それ以上に――愛しい。
情緒のダムが決壊したように、目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……殿下?」
クラウスが目を見開いた。
私は慌てて手で顔を覆ったが、嗚咽(おえつ)は止まらなかった。
「う、っ……ぐ……」
「どうしたんですか?。どこか痛むのか」
「ちが、う……なんでも、ない……」
なんでもなくない。私の心はボロボロだ。
なんで、このクラウスは何も覚えていないんだろう、裏切り者め。
何も知らないって顔でまた優しくして、私はお前に裏切られて殺されたのに! こんな世界いらない……。
心も体も、記憶も、何もかもがぐちゃぐちゃで、自分がどうしたいのかさえ分からない。
ふわり、と温かいものに包まれた。
クラウスが、私を抱きしめていた。
「大丈夫だよ」
背中を、大きな手が一定のリズムで叩く。優しい手つき。
「誰も君を傷つけたりしない。私がいる。……私が、必ず守るから」
その声は、あまりにも真摯で。
嘘だと思いたいのに、私のぐちゃぐちゃな心を溶かしていく。
「……クラウス。お前は、どうして」
どうして……そんなに優しいんだ。
怖いよ。またお前を信じて裏切られたら、どうやって生きていけばいいの?
今回はただの教育係だろう。それなのに、なぜ、また。
私が縋(すが)るように問いかけようとした、その時だった。
「――公爵様!! 大変でございます!!」
静寂を切り裂くように、侍従が廊下を走ってきた。
クラウスが瞬時に私から体を離し、冷徹な公爵の顔に戻る。
「騒がしいぞ。殿下の御前だ」
「も、申し訳ございません! ですが緊急事態で……ユ、ユーリス殿下が! ユーリス殿下が倒れられました!!」
「……ッ!?」
私は弾かれたように顔を上げた。
兄上が、倒れた?
昨日あんなに元気そうだったのに。……いや、違う……昨日のあれは「元気に見えていた」だけなのかもしれない。兄上には膨大な魔力が必要なのだ。
(行かなきゃ……!)
私の役目だ。
私が魔力を渡さなければ、兄上は死んでしまうかもしれない。
私は反射的に走り出そうとした。だが。
「――私が、行きます」
私の前を遮るように、クラウスが一歩前に出た。
「は……? 何を言っているんだクラウス。私が行かなければ……」
「殿下は部屋にお戻りください」
「なっ……!?」
「ユーリス殿下も、それを望んでおられます」
クラウスは侍従へと視線を向けた。侍従は青ざめた顔で、コクコクと頷いた。
「は、はい……。ユーリス殿下は、『クラウスを呼べ』と……公爵様をご指名で……」
頭を殴られたような衝撃だった。
兄上が呼んだのは、私ではなく、クラウス?
魔力を分け与えられる唯一の肉親である私ではなく、他人である彼を?
「……どうして」
「お連れしろ。エルリード殿下を部屋へ」
クラウスは私の問いには答えず、別の使用人に私を押し付けると、走り去ってしまった。
残された私は、ただ呆然と、彼が消えた姿を見つめることしかできなかった。
***
結局、私が父上に呼び出されたのは、それから一時間後のことだった。
王の私室の前につくと、扉の隙間から言い争う声が漏れて聞こえてきた。
ふと見ると、扉の脇に一人の近衛兵が直立している。
顔に特徴的な古傷のある男だ。彼は確か、ユーリス兄上の側仕えをしている護衛……。
あいつがいるということは、やはり兄上もこの中にいるのか。
私は息を殺し、そっと中を覗き込んだ。
天蓋付きのベッドには、ユーリス兄上がぐったりと横たわっている。
昨日の輝くような美貌はどこへやら、今の兄上は真っ青の顔で、浅い呼吸を繰り返していた。
枕元には、濡れたタオルと、化粧道具が散乱している。
……そうか。昨日のあの血色の良さは、厚化粧で作られたものだったのだ。
そしてベッドの脇には、クラウスが苦渋に満ちた顔で立ち尽くし、その横では侍医が真っ青になって震え、父王が激昂していた。
「役立たずめが!! 公爵ともあろう者が、何を勝手なことをしておるのだ!」
「……お待ちください、陛下。私が独自に精製したこの中和剤を用いれば、適合する可能性が……!」
クラウスが食い下がる。その手には、怪しげな色の液体が入った小瓶が握られていた。
だが、それを侍医が必死の形相で止めていた。
「なりませぬ! そのような未認可の薬……一般にも出回っていない劇薬ですぞ! 万が一、ユーリス殿下の御身に障ったらどう責任を取るおつもりか!」
「リスクよりも、今の魔力枯渇を埋めることが先決だ!」
「ですが……ッ!」
言い争う二人の間で、ベッドの上のユーリス兄上が、苦しげに手を伸ばした。
「……いい。使って、くれ……」
「ユーリス殿下!?」
「父上、頼みます……。私は、クラウスの魔力がいい……あの薬を、許可してくれ……っ」
兄上は息も絶え絶えに懇願していた。
その目は必死だった。自分の命が危ないというのに、そこまでしてクラウスの魔力を欲しているのだ。二人は、私の知らないところで示し合わせていたのかもしれない。「いざという時は、この薬を使おう」と。
(……そんなに、私じゃ嫌なのか)
胸が冷えていく。 兄上は、クラウスと繋がることを選ぼうとしている。
だが、その願いは非情にも切り捨てられた。
「ならん!!」
父王が一喝した。
「なぜユーリス、お前が危険を冒す必要がある? 確実で、方法がここにあるではないか」
王は冷酷な目で、入り口に立つ私を指差した。
「エルリードがいるのだ。あやつの魔力を吸えば済む話だろう。お前たちに余計な負担などさせん」
「っ、しかし父上! 私は……!」
「黙れ! これは王命である! ……おいエルリード! 何を突っ立っている、早うせぬか!」
父王の怒号が扉の前で固まっていた私に向けられた。
クラウスが、悔しそうに拳を握りしめ、俯くのが見えた。
その口元には、うっすらと血が滲んでいる。……悔しさで、唇を噛み切ったのだろう。
(……ああ、そうか)
私は全てを悟った。
クラウスも、兄上も、危険な薬を飲んでまで、私を押しのけて…… そんなに兄上が好きなんだ。
私は怒りを隠して、兄上の枕元へと歩み寄った。
「……あ、……エル……?」
兄上が絶望したように目を見開いた。その瞳は焦点が合わず、濁っている。
「だめ、だ……お前は、だめだ……」
「兄上、大丈夫ですよ。すぐに楽になりますから」
優しい兄上にも今は笑いかけることはできない、そのまますぐに彼の手を握った。兄上は弱々しい力で私の手を振り払おうとした。
「やめ……てくれ……わた、しは……これ以上、お前を……犠牲に……」
「っ、じっとしていてください!」
私は無理やり兄上の手を握りしめると、両手で包み込み、祈るように自分の額へと押し当てた。
接触点から、私の中の魔力が奔流となって流れ出していく。
ドクン、ドクン。
私の命が、兄上へと吸い上げられていく。
血管から直接吸われているような、独特の浮遊感と喪失感。
だが、私と兄上の魔力は似通っているため、そこに痛みはない。ただ静かに、私が空っぽになっていくだけだ。
(……ああ、やっぱり)
(兄上を救えるのは、私だけなんだ)
私の魔力が流れ込むにつれ、兄上の呼吸が穏やかになり、顔に生気が戻っていく。
それと反比例するように、私の視界は白く霞み、手足から冷たくなっていく。
「……ふぅ、……っ」
限界だった。
私がガクリと膝をつくと同時に、兄上は安らかな寝息を立て始めた。
「よし! よくやったぞエルリード!」
父王が満足げに声を上げた。
「さすがは兄弟だ。これなら明日の狩猟会も問題なかろう」
王は私の肩をバンと叩いた。
褒められた。父上に、褒められた。
私の体は鉛のように重く、立っているのもやっとだったが、それでも頬が緩むのを止められなかった。
「……お役に立てて、幸せです……」
私は王に向かって、へらりと笑った。
その時、視界の端でクラウスが恐ろしい形相でこちらを睨んでいるのが見えた。
その目は、父王に向けられているのか、それとも――褒められて浮かれている私に向けられているのか。
***
部屋に戻ると、私はソファに倒れ込んだ。
指先一つ動かせない。魔力枯渇による倦怠感と吐き気で、世界が回っていた。
「……お水をお持ちします」
私を抱えて戻ってきたクラウスが、硬い声で言った。
彼は水を一口含ませてくれたあと、悔しそうに拳を握りしめた。
「……残念です。あの薬を使えば、殿下に負担はかけずに済んだのに」
本当に彼が悔やんでいるのは、兄上のことだ。
自分の提案が拒絶され、結局私に頼らざるを得なかったことが、プライドを傷つけたのだろう。
「……しょうがない。兄上は、血族の魔力しか受け付けない特異体質なんだ」
私は天井を見上げたまま、乾いた声で教えた。
「しかし母上は、兄上のことも、私のことも愛してはいない。ただ王妃としての地位を盤石にするために2人子供を産んだだけだ、魔力も渡さない」
(それに父上は元々、子供は一人でいいと考えていた)
兄弟がいれば、王位継承争いが起きる。
だから父は、優秀な兄上だけを選び、私を魔力以外を不要として扱うことに決めたのだ。
「父ももちろん魔力譲渡の対象にはならない、周りも許さないしな。だから兄上に魔力を与えられるのは、同じ血を持つ私だけだ。……お前がどんなに兄上を慕っていても、代わりにはなれない!」
言っていて、惨めになった。
だが、これが私が王族として唯一誇れることだ。誰にも奪われてなるものか。
それに理解した。クラウスがあんなに必死だったのは、ユーリス兄上のことが好きだからなのだろう。
この世界のクラウスが、私に優しく振る舞うのも、結局は「ユーリスの命綱」である私をご機嫌取りするためだったのだ。
(騙されていた……)
(私のことなど、これっぽっちも好きじゃないくせに!)
暗い感情が溢れ出した。
私は震える手で、手近にあった本を掴み、彼に向かって投げようとした。
「出て……いけ!」
だが、腕に力が入らない。本は彼の足元にも届かず、無様に床へと転がった。
「嘘つきめ……私に優しくしたのも、全部兄上のためだったんだろう……? お前も父上と同じだ、私を道具としか見ていないくせに!」
「……殿下」
「顔も見たくない……出ていけと言っているんだ……っ」
声も、空気が抜けたように掠れてしまう。惨めだった。
だが、クラウスは動かなかった。
それどころか、静かに私へと歩み寄り、ソファに座る私を両腕の中に閉じ込めた。
「……離せ! 触るな!」
「嫌です。そんな状態で、一人になどさせられません」
「命令だ!」
「聞きません」
クラウスの瞳が、暗く揺らめいた。
彼は私の抵抗など意に介さず、私の顎を強く掴んで上を向かせた。
「魔力が枯渇しています。……補給しなければ、貴方が死んでしまう」
「いらない! 他人の魔力なんて……うぐッ!?」
拒絶の言葉は、彼の唇によって塞がれた。
瞬間、口の中から喉の奥へと、熱い液体のような奔流が流れ込んできた。
「んぐッ、あ、がッ……!?」
気持ち悪い。
自分のもの以外の、他人の魔力。
それが無理やり体の中をこじ開け、血管の一つ一つに侵入してくる。
全身の皮膚が粟立ち、内臓を掴まれたような不快感に、私は身をよじった。
「や、め……きもち、わる……ッ!」
ゾワゾワと背筋を這い上がる悪寒。体内で異物が暴れまわる感覚。
私は必死に彼を押しのけようとしたが、クラウスはびくともしない。
「っ……、我慢してください……!」
クラウスが苦しげに囁く。
彼は私の背中に手を回すと、背骨のラインに沿って、指先でゆっくりと撫で上げた。
「ひゃぅッ!?」
ゾクリ、と背筋に電流が走った。
不快感とは違う、甘く痺れるような感覚。
彼の指は、まるで私の弱点を知り尽くしているかのように、巧みに敏感な場所をなぞっていく。
「力を抜いて……受け入れてください……」
彼の舌が、私の口内を蹂躙(じゅうりん)する。
それは魔力を流し込むための行為のはずなのに、あまりにも――。
舌を擦り合わせ、唾液を絡ませ、私の思考を甘く溶かしていく。
頬にかかる髪を、彼の大きな手が優しく耳にかける。
その手つき、その口づけの角度。
(……ああ)
不快感が、熱に変わっていく。
このキスを、私は知っている。
1度目の人生で、私を骨抜きにし、溺れさせた、あの甘い毒のようなキス。
(……クラウス、だ)
抵抗する力が抜けていく。 私は彼に絡め取られるまま、身体の奥が勝手に彼の魔力を飲み込んでいく。
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