殺したくせに、離さない ~死に戻った王子は、狂った婚約者に管理される~

逢 舞夏

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 部屋に入り、一人になると、張り詰めていた糸が切れそうになった。
 ドッと疲れが押し寄せる。
 けれど、ベッドに横になる気にもなれず、私はふらつく足で窓辺へと向かった。

 私は窓枠に寄りかかり、ポケットからハンカチを取り出した。
 兄上が誕生日にくれた、大切な手作りの刺繍入りのハンカチだ。
 これだけが、今の私の心の拠り所だった。

 私はハンカチを指で弄びながら、ぼんやりと外を眺めていた。
 
 ヒュッ。

 不意に、窓から強い風が吹いた。
 ふわり、と私の手からハンカチがさらわれ、窓のすぐ横に伸びた大木の枝に引っかかった。

「あ……」

 大切なものが、遠ざかる。
 まるで今の自分の境遇のようで、私は咄嗟に窓枠に足をかけた。
 ここは二階だ。木までは近い。手を伸ばせば届く距離だ。
 私は身を乗り出し、枝へと手を伸ばした。

 ふと、下を見た。
 地面が遠い。硬い石畳が見える。

(……もしも)

 思考が、不吉な方へと滑り落ちる。

(……このまま落ちて死んでしまえば、この悪夢のような現実から抜け出せるんじゃないか?)

 魔が差した。
 死にたいわけじゃない。ただ、楽になりたかった。
 その一瞬の迷いが、足元を狂わせた。

「――エル!!」

 背後から、血相を変えたクラウスの声がした。
 いつの間に入室していたのだろう。
 ビクリと肩が跳ねる。
 振り返り、彼と目が合った瞬間――私はバランスを崩した。

「あっ、」

 体が宙に投げ出される。
 本当に落ちるつもりなんてなかったのに、まるで誰かに捕まれるように何故か私の体は外へ引っ張られた。
 落ちる。

「だめだッ!!」

 クラウスが叫び、窓から飛び出してきた。
 彼は空中で私の体を抱きとめる。
 彼の背中が地面に向かう。

 彼ほどの魔力があれば、浮遊魔法で着地することなど造作もないはずだ。もちろん、そうすると思っていた。
 だが、彼は魔法を使わなかった。
 受け身すら取ろうとしなかった。
 ただひたすらに、私の頭を庇い、その腕の中に閉じ込めるように強く、強く抱きしめただけだった。

 ドォンッ!!

 鈍く、重い衝撃音が響いた。
 私の体には痛み一つない。
 私の下で、クラウスが体重と落下の衝撃をすべて受け止めていたからだ。

「……ぐ、ぅッ……!」
「ク、クラウス!?」

 私は慌てて体を起こした。
 クラウスは苦悶の表情で息を詰まらせていたが、すぐに私の頬に手を伸ばし、狂ったように体中を触って確認し始めた。

「怪我は、痛いところは!? 頭は打たなかったか!?」
「わ、私は平気だ! それよりお前こそ、なんで魔法を使わなかったんだ!」

 私が叫ぶと、クラウスは顔面蒼白のまま、ガタガタと震え出した。

「……よかった、よかった……」
「クラウス?」
「ちがう、まだだ、まだ時間じゃないはずだ……こんなところで、死なせるわけには……」

 彼はうわ言のようにブツブツと呟きながら、とてつもない力で私を抱きしめた。
 肩に顔を埋め、子供のように泣いている。

「あぁ……よかった、生きてる……エル、エル……」

 その姿は、演技には見えなかった。
 普段の何を考えてるかわからない管理者でもない。
 ただ、私を失うことを極端に恐れる、弱々しい一人の男がそこにいた。

(……本当に兄上のためだけに?……それとも本当に私のことを?)

 私の胸の奥で、頑なに強張っていた部分が緩んだ。
 気がつけば、私は彼に抱きしめられながら、その温もりに抗えなかった。
  私は毒を煽(あお)るような心地で、震える唇だけで彼に微笑みかけた

「……大丈夫だ、クラウス。私は生きているよ」
「エル……?」
「心配をかけてすまなかった。……ありがとう、助けてくれて」

 私が優しく背中を撫でると、クラウスはハッとして顔を上げた。
 私の微笑みを見て、彼は一瞬呆然とし――それから、またくしゃりと顔を歪めて、一筋の涙を流した。

 ***

 その後、私は無言のクラウスに抱き上げられ、部屋へと連れ戻された。
 彼は私をベッドに座らせると、まだ震える手で私の手足を確認しようとする。

「侍医を呼びましょう。どこか打っているかもしれない」
「私は本当に何ともない。クッションがあったからな」

 私は苦笑して、彼の腕を掴んだ。

「それよりお前だ。背中から落ちただろう。見せてくれ」
「……大したことありません。これくらい、あとで自分で治しますから」
「嘘をつけ! あの音が聞こえなかったとでも思うのか。……命令だ、脱げ」

 私が強く言うと、クラウスは渋々といった様子でシャツのボタンを外した。
 彼が背を向ける。
 シャツが滑り落ち、鍛え上げられた美しい背中が露わになった。

「……っ」

 私は息を呑んだ。
 綺麗な筋肉がついたその背中の真ん中に、赤黒く、痛々しい痣(あざ)が浮かび上がっていたのだ。

 ――ズキン。

 その痣を見た瞬間、私の頭の中で、強烈なフラッシュバックが起きた。
 知っている。この傷を。
 今、私の目の前にあるこの傷は、落下によるものだ。
 けれど、私の記憶の中にある傷は違う。

 あれは、まだ私たちが幸せだった頃。
 クーデターの前日。
 父上に蹴り上げられる私を庇って、彼が負った傷と――同じような痣ができていたのだ。

(……ああ、あの日と同じだ)

 彼は前回と違うのに、根本は変わらないのか?
 それはまた私を裏切るからなのか?
 それとも……私の記憶の彼との瞬間も、演技ではなかったのか?

 私の思考は、その背中の傷に引きずり込まれるように、過去へと飛ばされた。
 私たちがまだ、誰よりも愛し合っていると信じていた――あの、クーデター前日の記憶へ。


 ***

 あれは、クーデターが起きる前日のことだ。
 私たちはすでに学園を卒業し、クラウスは私の「婚約者」として、周知されていた。

 その日の午後、私は第一王子である兄、ユーリス兄上の部屋に呼び出された。
 兄上は私と違って優秀で、病弱だが聡明で、誰にでも優しい人だった。
 私はそんな兄上を心から尊敬し、慕っていた。

「エル。……クラウスとは、距離を置きなさい」

 兄上の部屋に入るなり、告げられた言葉に私は耳を疑った。

「……どうしてですか、兄上! 彼と私の婚約は、父上も認めていることでしょう?」
「父上は無関心なだけだ。だが私は違う。お前が心配なんだ」

 兄上は深刻な顔で、机の上に広げられた資料を示した。

「調べさせたんだ。クラウスの養父であるラドー伯爵……あれは危険だ。裏で過激な思想を持つ者たちと繋がっている可能性がある」
「ラドー伯爵が? まさか、彼はただの変わり者ですよ」
「それだけじゃない。クラウス自身の出自も怪しい」

 兄上の瞳が、鋭く私を射抜いた。

「彼の容姿、立ち振る舞い……そしてラドー伯爵の異常な行動。もしかすると彼は、国王暗殺未遂で断罪された、あの『ベルンシュタイン公爵家』のご子息かもしれないんだ」

 心臓が跳ねた。
 兄上の慧眼(けいがん)は、恐ろしいほど真実に迫っていた。
 だが、当時の私は盲目だった。
 真実を暴かれることよりも、クラウスを引き離されることへの恐怖が勝ったのだ。

「……考えすぎです、兄上! たかが名前が同じだけで、なぜそこまで疑うのです!」
「エル、お前は……」
「『クラウス』なんて名前は、石を投げれば当たるほどありふれています! 王都に何百人のクラウスがいると思っているのですか?」

 私は必死だった。兄上の言葉を否定するために、もっともらしい理屈を並べ立てた。

「もし彼が本当に大罪人の息子なら、もっと必死に素性を隠すはずでしょう? 堂々と本名を名乗っていることこそが、彼が『無関係な別人』である何よりの証明じゃないですか!」

 私の剣幕に、兄上は悲しげに口を噤んだ。
 ああ、なんと愚かな。
 私はこの時、自分自身の言葉で、真実から目を背けたのだ。

「……それに、それが仮に真実だとしてもなんだと言うんです」
「エル?」
「罪人の子は人を愛してはいけないのですか? 愛されてはいけないのか! 彼が誰の子であろうと関係ない! 彼は私を愛してくれている。私を選んでくれたんだ!」

 私は叫んだ。
 今まで一度も兄上に逆らったことなどなかったのに。

「目を覚ませ、エルリード! もし彼が復讐のために近づいているとしたら、お前は利用されているだけなんだ!」
「違う! 彼を侮辱しないでくれ!」
「エル!」

 兄上が私の肩を掴もうと手を伸ばした。
 私はそれを拒絶しようとして――力任せに、兄上を突き飛ばしてしまった。

「――っ、あ」

 鈍い音がした。
 線の細い兄上は、もつれるように倒れ、飾り棚の角に頭を強く打ち付けた。

「……あ、あに、うえ……?」

 兄上は動かない。床に、じわりと赤い血が広がっていく。
 血の気が引いた。何をしているんだ私は。一番大切にしてくれていた兄上を、この手で。

「なにごとだ!!」

 バン! と扉が開け放たれ、怒鳴り声が響いた。
 父上だ。騒ぎを聞きつけて近衛兵と共に駆けつけたのだ。
 父上は血を流して倒れている兄上を見ると、形相を変えて私に向き直った。

「貴様……ユーリスになんということを!」
「ち、ちがうんです、父上、私は……」

 バチンッ!!

 言い訳は、強烈な平手打ちによって遮られた。
 私は弾き飛ばされ、床に無様に転がった。口の中が切れて鉄の味がする。

「この、出来損ないが!!」

 父上は倒れた私に歩み寄り、さらにその足を振り上げた。
 蹴られる。
 私は反射的に身を縮め、目を閉じた。

 ――ドスッ。

 鈍い音が響いた。けれど、痛みは来なかった。
 恐る恐る目を開けると、私の上に覆いかぶさる人物がいた。

「……クラウス?」

 彼は私の盾となり、父上の蹴りをその背中で受け止めていたのだ。
 父上の靴が、容赦なく彼の背中や肩を打ち据える。

「どけ! どこぞの馬の骨とも知れぬ分際で、私の邪魔をするか!」
「……申し訳ございません、陛下。ですが、殿下への暴力はおやめください」

 クラウスは呻き声ひとつ上げず、静かな声で懇願した。
 その態度は毅然としていて、暴力に屈しない気高さがあった。

「黙れ! 誰の子かもわからん、卑しい血の男が!」

 父上はさらに激昂し、クラウスを何度も蹴りつけた。
 卑しい血。 なんたる皮肉だろう。
 ここにいる誰よりも高貴な――もしも本当にベルンシュタイン公爵家の血を引くのなら、その歴史は王家より長いというのに。

 クラウスは何も言い返さなかった。ただ歯を食いしばり、私の体を守るように抱きしめ続けていた。

「もういい! 二度とその顔を見せるな!」

 父上は息を切らし、私とクラウスを指差した。

「ユーリスに逆らい、傷つけた罪は重いぞ。その傷を魔法で癒すことは許さん。……消えろ。今すぐ私の視界から消え失せろ!」

 私たちは、ゴミのように部屋から追い出された。
 私は傷ついたクラウスに肩を貸し、自分の部屋へと戻った。

 その夜。  私たちは、傷を舐め合うように体を重ねた。

「ごめん、ごめんねクラウス……痛かっただろう……」

 彼の背中には、赤黒い痣がいくつも残っていた。
 私は泣きながらその痣に口づけを落とし、彼に縋り付いた。

「私のせいで、こんな……」
「大丈夫だ。エルが無事でよかった」

 クラウスは痛む体で私を抱きしめ、優しく髪を撫でてくれた。
 兄上も傷つけ、父上からも見放された。 私にはもう、世界でこの男しかいなかった。
 そして彼もまた、あんな酷い扱いを受けてまで、私を守ってくれたのだ。

「愛している……愛しているよ、クラウス……」

 私は彼を受け入れ、何度も何度も愛を囁いた。
 私たちの愛は本物だ。 地位も名誉もいらない。ただ、彼がいればそれでいい。
 事後のベッドで、私は彼の腕の中に包まれながら、心からの安らぎを感じていた。

 私は彼を見上げ、泣くのを我慢して無防備に微笑んだ。

『クラウス、ありがとう。お前がいれば、私はもう……ひとりぼっちじゃないんだな』

 彼は一瞬、息を呑んだように目を見開いた。
 そして、酷く切なげな、困った顔で私を強く抱きしめ返したのだ。

『……あぁ。俺もだよ、エル』

 ――そう、あの日。
 あんなにも強く、私たちは愛し合っていたはずだった。

 なのに。
 どうして、その翌日に、お前は私の腹に剣を突きたてられたのを、ただ見ているだけだったのだろう。

 ***

「……ぅ、ぁ……」

 回想から戻った瞬間、激しい目眩(めまい)が私を襲った。
 嫌だ。 辻褄が合わない。
 あんなに身を挺して守ってくれた男と、無表情で私を殺した男が、同一人物だなんて。
 あれは演技だったのか?
 それとも、あの日の愛が嘘で、最後の日の殺意が真実なのか? 
 あるいは……。今がいつで、何をしているのかわからなくなる。

(わからない、わからない……ッ!)

 脳が悲鳴を上げた。 愛したい気持ちと、憎まなければならない事実が、頭の中でぐちゃぐちゃだ。

 極度の緊張と混乱。そして昨晩からの疲労。
 限界だった。

「……あ」

 視界が暗転する。
 私の体は、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。

「――殿下ッ!!」

 遠くで、クラウスの叫び声が聞こえた気がした。

 ***

 その夜、私は自室のベッドで荒い息を吐いていた。

 視界が歪む。天井が回る。体中が鉛のように重く、指一本動かせない。

「はぁ、はぁ……ッ、う……」
「――随分と熱い」

 額に冷たい手が触れた。
 クラウスだ。
 彼は私のベッドの縁に腰掛け、心配そうに私を見下ろしていた。

「顔が真っ赤ですよ、殿下。可哀想に……」
「……み、ず……」
「水ですか? いいえ、まずは薬を飲みましょう」

 彼はサイドテーブルから、ドロリとした色の液体が入った小瓶を取り出した。
 強烈な苦い匂いがする。

「嫌だ……苦いのは……」
「駄目です。今日は散々無茶をしましたから……無理がたたったんですよ。これを飲まないと治りません」
「うっ、ぐ……!」

 私は首を振って拒絶した。ただでさえ吐き気がするのに、あんなものを飲んだら戻してしまう。
 だが、クラウスは、小瓶の蓋を開け――それを自分の口に含んだ。

「ん……ッ!?」

 次の瞬間、私の顎が掴まれ、唇が塞がれた。
 苦い。
 彼の舌が強引にねじ込まれ、口内の液体が私の喉へと流し込まれる。

「んぐッ、んーッ!!」

 飲み込みたくない。吐き出したい。
 けれど、彼の舌が私の舌を絡め取り、逃げ場を塞ぐ。
 コクン、と喉が鳴った。
 苦い薬液が、彼の唾液と共に胃の腑へと落ちていく。

 ――それと同時に、身体中に熱いクラウスの魔力が広がった。

(……薬だけじゃない。魔力もだ!)

 粘りつくような彼の魔力が、薬液と一緒に溶けて、内側から私の血管を侵食していく。
 拒絶しようにも、熱で弱った私の体は、乾いた砂のように彼の魔力を貪欲に受け入れていく。

「ぷはッ……! はぁ、はぁ……!」

 ようやく唇が離れると、銀色の糸がとろりと二人の間を繋いだ。
 私は咳き込みながら、涙目で彼を睨んだ。

「な、何をするんだ……!」
「口移しですよ。貴方が飲まないから」

 彼は親指で私の唇に残った雫を拭うと、それを愛おしげに舐め取った。

「よくできました。全部飲めましたね」

 その瞳の奥にある色が、私をゾッとさせた。

「……あつい、くるしい……」
「大丈夫。私がついていますよ」

 彼は濡れたタオルで私の顔を拭き、氷魔法で冷やした手を額に当てる。
 その手つきは優しく、完璧な看護だ。
 けれど、その言葉の端々に、歪んだ執着が見え隠れする。

「貴方は弱い。すぐに壊れてしまう」
「だから、私が守ってあげないと」
「もう二度と……腐らせたりなんてしない」

 腐らせる? 何の話だ?
 朦朧とする意識の中で、その奇妙な単語だけが引っかかった。

「……クラウス、こわい……」
「怖くありませんよ。さあ、眠ってください」

 彼が私の目を手で覆う。
 視界が闇に閉ざされる。
 その暗闇の中で、私は錯覚した。
 この温かい手は、私を守っているのか。それとも、私の息の根を止めようとしているのか。

 ***

 熱い。苦しい。
 泥のような眠りの中で、私の意識は時空を超えて漂っていた。

 ……体が軽い。痛みが消えている。
 また夢か?もう以前の事など、思い出したくないのに。
 ふと気づくと、私はふわふわと漂い、冷たい石床を見下ろしていた。
 そこには、腹から血を流して死んでいる「私」がいた。
 そして、その亡骸に縋り付く、男がいた。
 クラウスだ。

「……う、あぁ……エル、エル……ッ」

 彼は私の血に濡れるのも構わず、死体を抱きしめていた。
 おかしいな。
 お前は私を殺した時、あんなに冷たい目をしていたじゃないか。
 なんで今さら、そんなに悲しそうに泣いているんだ?

(嘘泣きはやめろ。触るな。お前は私を殺したくせに)

 私は叫んだ。けれど、音にはならなかった。
 霊体になった私には、喉もなければ、時間の感覚さえ曖昧だったからだ。

 思考が霧のように霞(かす)んで、ふわふわと頼りない。
 ふと、頭上に温かな光が見えた気がした。あちらへ行けば、楽になれるのかもしれない。
 けれど、なぜだか私はそちらへ行こうとは思わなかった。
 この裏切り者を一人にしておくのが許せなかったからだ。

 それからの日々は、地獄だった。
 私は霊体となって、クラウスが狂っていく様を特等席で見せつけられた。
 彼は私の死体を氷の棺に入れ、毎晩のように話しかけ、キスをした。

 やめてくれ。気持ち悪い。
 私はもう死んでいるんだ。そんな抜け殻を愛して何になる。

 やがて、私の体は腐り始めた。
 美しい金髪は抜け落ち、肌は黒ずみ、腐臭を放ち始めた。
 それなのに、王冠を戴いただいたクラウスは、嬉しそうに私の腐肉を撫でるのだ。

「いい匂いだ、エル」

 ふざけるな。臭いに決まっている。
 私の指が壊死して取れた時、彼は短剣を持ち出した。
 黒ずんだ肉を削ぎ落とす彼の目は、血走って狂気に満ちていた。

(痛い……やめろ、クラウス! 私の体を切り刻むな!)

 死んでいるから痛みはないはずなのに、魂が痛んだ。
 愛する男に殺され、死んでなお尊厳を凌辱される。
 許せない。絶対に許さない。
 私の憎悪が極まった時、強い思念となって「音」になった。

『……許さない』

 クラウスがビクリと肩を震わせ、顔を上げた。
 聞こえたのか?

『絶対許さないからな、クラウス』
『お前なんかもう愛さない。絶対に』

 私は泣きながら、彼の耳元で呪いの言葉を吐き続けた。
 怖がれ! 悔やめ! そして私のことなど忘れてしまえ。
 そう願って叫んだのに。

「……ああ、エル」

 彼は虚空を見つめ、恍惚とした表情で笑ったのだ。

「嬉しいよ。まだそばにいてくれるんだね」

 ……ああ、駄目だ。こいつは壊れている。
 私の呪いすら、彼にとっては愛の言葉になってしまう。
 私は絶望し、それでも彼から離れることができなかった。
 器だったものが、腐り果てて骨になるまで、私はずっと、狂った彼を見つめていたのだ――。

 ***

「――ッ、いやだ!!」

 自分の絶叫で、私は現実に引き戻された。
 ガバッと上半身を起こす。
 心臓が早鐘を打っている。全身が汗でぐっしょりと濡れていた。

「エル!?」

 すぐ側で、驚いた声がした。
 視界の端に、金色の髪と心配そうな緑の瞳が映る。
 彼は私の額の汗を拭おうと、タオルを持って手を伸ばしてきた。
 その瞬間、夢の記憶と現実がオーバーラップした。
 その手は。私の死体を抱きしめ、腐った指を短剣で切り落とした、あの手だ。

「ひっ……! くるな、さわるな!!」

 私はパニックになり、彼の手を力任せに振り払った。
 バシッ、と乾いた音が響く。
 タオルが床に落ちた。

「……殿下?」
「やめろ……もう切り刻まないでくれ……っ」

 涙が溢れて止まらない。
 熱で朦朧とする頭では、ここが過去なのか現在なのか区別がつかない。
 目の前の美しい青年が、あの薄汚れた「狂王」に見える。

「ごめんなさい……私が悪かったから……」

 私はベッドの隅に縮こまり、ガタガタと震えながら懇願した。

「もう死ぬから……大人しく死んでやるから……っ」
「……殿下!」
「だから、お願いだクラウス……」

 私は彼を見上げ、あの日言えなかった、けれどずっと聞きたかった言葉を吐き出した。

「あんなに愛していたのに……なんで私を殺したの……?」

 静寂が落ちた。
 部屋の空気が、ピキリと凍りついたようだった。


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