殺したくせに、離さない ~死に戻った王子は、狂った婚約者に管理される~

逢 舞夏

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 窓の外から、独特なリズムの太鼓と、金属がぶつかり合う涼やかな音が聞こえてきた。
 夜空に紫色の炎が吹き上がる。
 あれは――「紫炎の一族」。砂漠をさすらう、アメジストの瞳を持つ流浪の民だ。
 全員が仮面をつけているが、その隙間から覗く瞳は、夜闇の中でも宝石のように輝いている。

「……懐かしいな」

 私はベッドの上で、ぼんやりと呟いた。
 あの一座は、1度目の世界でもユーリス兄上の誕生日に来ていた。
 そして、あの中心で舞っている美しい少女――一座の「姫」は、演舞の途中で仮面が外れてしまい、父上に見初められ、後宮に留め置かれることになる。
 だが、その結末は悲惨だ。
 彼女は父の機嫌を損ね……数ヶ月後には「処分」される。首を刎ねられ、ゴミのように捨てられるのだ。

 1度目の世界では、それに激怒した一族が、クーデターの日にクラウスに協力し一緒に攻めてきた。
 砂漠の民は仲間への愛が深く、尊厳を傷つけられたら決して許さない。他の大勢の一族を伴い、必ず復讐にくるのだ。
 つまり、あの一座はクラウスにとって「未来の仲間」のはずだが……。

「……興味深そうに見るんですね」

 背後から響いた声に、私の背筋が粟立った。
 スープを運んできたクラウスだ。その声を聞いた瞬間、脳裏にあの光景が蘇る。夢の中で、死体になった私に頬ずりし、愛を囁いていた狂気の姿。
 彼は私の視線を追って窓の外を一瞥したが、その瞳には何の感情もないように見えた。
 この世界の彼は復讐者ではないからだ。

 私の中で、これまでの恐怖が急速に冷め、代わりに強烈な嫌悪感が湧き上がってきた。
 熱で朧げで、寝る前に何を話したか曖昧だが、夢のことははっきりと覚えている。
 今まで何を考えているかわからず怖かったが、正体がわかればどうということはない。
 こいつはただの、「生きた人間を愛せず、死体に執着するだけの哀れな変態」だ。
 そんな奴に怯えていた自分が、馬鹿らしく思えてきた。

「……クラウス・フォン・ベルンシュタイン」

 私は冷ややかに、フルネームで彼を呼んだ。

「今後、私に近づくな。その顔を見るだけで反吐が出る」

「……は?」

 クラウスが眉を顰め、イラついたように低い声を出した。
 普段の慇懃無礼な態度が崩れる。

「突然、何を仰っているんですか。熱で頭が沸きましたか?」
「正気だとも! お前のような異常者に管理される覚えはないと言っているんだ」
「……威勢がいいですね。昨日まで私の顔色を窺って震えていたくせに」

 クラウスは呆れたように溜息をつき、スープ皿をサイドテーブルに乱暴に置いた。
 だが、私は見逃さなかった。彼が背を向けた一瞬、その口元が、緩んだのを。

(……なんだ、今の顔は)

 私に罵倒されて、安心した?
 ……そうか、やっぱりこいつは、私を殺す気はないんだ。

(なら、利用してやる)

 兄上(ユーリス)はこいつを気にしていた。もしや、今回はあの病弱で美しい兄上にも、その歪んだ執着を向け罠にハマっているのでは?
 それに、あの窓の外で踊る姫。彼女もこのままでは父上の毒牙にかかる。

 せっかく戻ったんだ。もう運命になんて怯えて過ごしてたまるか!

 その時。窓の下、中庭の方から女性の悲鳴が聞こえた。
 見下ろすと、煌びやかな衣装を纏った一座の「姫」の仮面が外れ、父王の近衛兵に腕を掴まれていた。無理やり連れて行かれようとしている。

「……ッ、」
「……おや。気に入られたようですね」

 背後のクラウスが、さも他人事のように呟いた。
 私は振り返り、彼を睨みつけた。

「助けないのか?」
「なぜ私が?」

 クラウスは本気で不思議そうに首を傾げた。

「一介の旅芸人が王に見初められたのですよ? 一族にとってはまたとない名誉でしょう。……その先に待つのが破滅かもしれませんが」

 クラウスは彼女に何が起ころうと痛くも痒くもないという顔をしている。ただ静かに私を見下ろす。
 こいつに期待するのはやめた。

「もういい。私が助ける」

 私は弾かれたように窓枠から離れ、扉へと向かった。
 じっとしていられるか。

「どこへ行かれるのです」

 立ちはだかったのは、当然クラウスだ。
 彼は無表情で、扉の前を塞いでいる。

「そこを退け」
「なりません。病み上がりの体で、外の騒ぎに関わるべきではない」

 クラウスが私の腕を掴み、制止しようとする。
 その冷たい指が肌に触れた瞬間、私の中で何かが切れた。

「――気安く触るな」

 私は渾身の力で、その手を振り払った。

「馴れ馴れしい……私の体はお前のものではない!」
「……!」

 クラウスが目を見開いて固まった。
 今まで恐怖で震えていた私が、これほど明確な拒絶と敵意を向けてくるとは思わなかったのだろう。
 私は彼を睨みつけ、窓の外を指差した。

「聞こえないのか、あの悲鳴が。 お前の心は死んでいるのか!」

 私が再び窓へ駆け寄ろうとした、その時だ。

「お待ちください! どなたか、どなたかいらっしゃいませんか!」

 切羽詰まった、よく通る美声が下から響いた。
 バルコニーの下。そこに、一人の男が立っていた。
 背の高い男だ。他の一座と同じように、顔半分を白い仮面で覆っているが、その隙間から覗く瞳に、私は息を呑んだ。

 アメジスト。
 夜の闇の中でも鮮烈に輝く、紫水晶の瞳。

 この世のものとは思えないほど美しく、そして悲痛な光を宿した瞳が、真っ直ぐに私を捉えていた。
 仮面をしていても分かる。彼は隠しきれない気品と色気を纏った、絶世の美丈夫だろう。

「そこにいらっしゃるのは、第二王子エルリード殿下ではありませんか!?」

 男は私と目が合うと、その場に跪き、祈るように両手を組んだ。

「お願いです、どうか妹をお助けください! あの子はまだ14歳なのです……王の慰み者にされれば、生きては帰れません!」
「……分かっている! 待っていろ、今父上に……」
「殿下!」

 男の紫の瞳が、涙で潤み、宝石のように揺らめいた。

「感謝いたします……! 貴方様の慈悲深さは、噂以上だ……!」

 その純粋な感謝の眼差しが、私の胸を突く。
 彼は知らないのだ。私がただの飾り物の王子で、何の実権もないことを。
 それでも、あんなに綺麗な瞳で縋られたら――男として、引けるわけがないだろう。

「止めるなクラウス」

 私が短剣を探して周囲を見回すと、長い溜息が降ってきた。

「はぁ……。本当に、貴方という人は」

 クラウスは呆れたように首を振ると、懐から「小さな包み」を取り出し、窓の外の仮面の男に向かって放り投げた。

 ポスッ。
 男が慌ててそれを受け取る。

「こ、これは……?」
「強力な眠り香だ。風上に焚け」

 クラウスは私の方を見ようともせず、淡々と窓の外へ指示を出した。

「近衛も王も、吸えば朝まで泥のように眠る。……その隙に妹を連れて、今夜中に王都を出ろ」
「え……?」
「二度は言わない。下手なことをしなければ成功する、早くいけ」

 仮面の男は震える手で包みを握りしめ、驚愕と、それ以上の深い感謝を込めて、私たちに向かって深く頭を下げた。

「……この御恩は、生涯忘れません! 紫炎の一族にかけて誓います!」

 男は翻る衣と共に、闇に紛れるように走り去っていった。
 私は呆然とその背中を見送り、それから隣の男を見上げた。

「……お前、」
「勘違いしないでくださいね」

 クラウスは、私が何か言う前にぴしゃりと遮った。
 だが、その横顔はどこか決まりが悪そうで、耳の先がほんのりと赤くなっている。

「貴方が余計なことをして騒がないように……面倒ごとは早めに片付けたかっただけですよ」

 クラウスはそれだけ言うと、逃げるように部屋を出て行った。
 扉が閉まる音が、重く響く。
 部屋に一人残された私は、自身の掌を見つめた。震えは止まっていた。

   ◇

 2日後の晩餐会は、最悪の空気で始まった。
 父上はワイングラスを片手に、給仕たちに当たり散らしている。
 自分が狙った一座の姫に逃げられ、腹の虫が治まらないのだ。あの日、一座はなんとか難を逃れたようだ。

 王の横では、ユーリス兄上が一人、青ざめた顔で貴族たちの対応をしていた。
 誰も助けない。母上でさえ、氷のような瞳で父上を一瞥しただけで、つまらなさそうに果物を食べていた。

(……兄上が、倒れてしまう)

 1度目の世界なら、私も機嫌を損ねぬように目立たぬように息を殺していただろう。
 だが、今の私は違う。父の横暴の出来事も回避できた。クラウスも、裏切って殺した相手だと震えていたが、夢で見たように後悔して狂うような男だ。怖くなんてない。

 私は深呼吸を一つして、背後に控えるクラウスを見た。
 彼はわずかに首を横に振った。その顔は眉を寄せて険しい。「行くな」という合図だ。

(止めるな。今、兄上を守れるのは私だけだ)

 私はクラウスの制止を振り切り、王の御前へと歩み出た。

「……兄上」
「エル……?」

 ユーリス兄上が目を丸くした。
 私は震える足を隠して、努めて明るく、兄の隣に並び立った。

「顔色が優れません。少し、あちらで休みませんか。……挨拶なら、私が代わります」
「エル、何を……。お前こそ、病み上がりなのに」
「平気ですよ。これでも最近、気持ちの変化があったのです」

 私が胸を張ると、兄上は驚いたように瞬きをして、それからふわりと、花が咲くように笑った。

「……そうか。立派になったな、エル」
「ええ。これからは、私が兄上をお守りしますから」

 そう。変えられるんだ。
 私の言葉で、兄上が笑ってくれた。父上の理不尽な怒りからも、こうして二人で身を寄せ合えば守れる。

 その光景を、背後のクラウスが悲鳴を上げ出しそうな顔で見ていた。
 そして何より。
 玉座の横で、母上が私を見ていることにも、私は気づいていなかった。

   ◇

 部屋に戻った瞬間、私は乱暴にベッドへ突き飛ばされた。

「――ッ、何を!」
「静かに」

 抗議しようとした私の口を、クラウスの手が塞ぐ。
 彼は冷静さを完全に失っていた。瞳が暗く濁り、怒りを全身で表している。

「どうしてあんな真似をしたんです、とても目立っていましたよ」
「むぐっ……!」
「なぜ今までのようにおとなしくできないのですか?」

 クラウスの手が、私の口から首へと滑り落ちた。
 ひやり、と冷たい指が、私の頸動脈の上で止まる。そして、ゆっくりと力を込めていく。

「ぐ、ぅ……!」
「……いいですか、殿下。暴れないで。貴方は弱い」

 クラウスは私の上に覆いかぶさり、冷酷に囁く。

「こうやって首を絞めたら、すぐに死んでしまう」

 息が苦しい。視界がチカチカする。こいつは今、その気になれば私を簡単に殺せる。
 指が首から離れ、胸元へと移動する。心臓の上だ。トントン、と肋骨の上を指先で叩く。

「ここを貫かれても、死んでしまう」

 ドクン、ドクンと早鐘を打つ私の心臓の音が、彼の指を通して伝わっているはずだ。
 そして、その手がさらに下へ滑り落ちる。
 シャツ越しに、私の腹部――柔らかい腹の上を、這うように撫で回した。

「……そして、ここも」

 粘着質な手つき。まるで内臓の位置を確かめるように、そしてグッと押された。
 瞬間、全身に鳥肌が立つ。刺された記憶がフラッシュバックのように早送りで流れた。
 吐き気がする。

「ッ……!」

 しかし、吐いたりなんてしない。これは恐怖じゃない。これは――生理的な嫌悪と、屈辱だ。
 私は、今生きている。あの日じゃない!

「ふざけるな……! 触るな!」

 私は半ばパニックになりながら、拘束を振りほどこうと暴れた。
 だが、それがクラウスの神経を逆撫でした。

「……暴れるなと言っている!」

 ダンッ! と枕元に拳が叩きつけられる。
 クラウスは私の両手首を片手で捻り上げ、頭上に縫い止めた。そして、がら空きになった首筋に顔を埋めた。
 柔らかな肉を、食いちぎらんばかりに噛む。

「あ、がぁっ……!?」

 激痛が走る。
 鋭い痛みに、私の体は反射的に跳ねた。
 だがクラウスは離さない。皮膚を吸い上げ、歯を立て、私の体に消えない印を刻み込んでいく。

「い、たい……やめ、ろ……ッ」
「痛いですか? でも、死ねば痛みも感じない。……貴方が選んだのは、こういう未来だ」
「ハァ……ッ、うぅ……!」

 惨めだ。屈辱的だ。こいつは恐怖で支配し、痛みで私を躾けようとしているんだ。

(……負けるか)

 私の奥底で、熱いものが弾けた。
 私は痛みで潤んだ瞳で、目の前の男をキッと睨みつけた。

「……それが、どうした」

 私の挑発に、クラウスの動きがピタリと止まる。

「噛み付きたいなら好きにしろ。首を絞めたければ絞めろ。……だが、クラウス」

 私は荒い息を吐きながら、宣言した。

「私の心までは、お前には渡さない。私は誰の人形にもならない。……私は私の意志で、生きてやる!」

 部屋に沈黙が落ちた。
 クラウスは私の首筋から顔を上げ、至近距離で私を見つめた。
 その瞳に映っているのは、乱れた服、赤く腫れた首筋、そして――決して屈服しない、強い瞳を持つ私の姿。

「…………」

 クラウスの瞳が、僅かに揺れた。
 怒りでも、欲望でもない。
 まるで、眩しいものを見るような、あるいは歓喜の色のような。

(……なんだ、その目は)

 彼はふ、と力を抜き、私の手首を解放した。
 そして、私の首に残った痛々しい噛み痕を、愛おしそうに親指でなぞった。

「……そうですか」

 その声は、驚くほど優しかった。

「せいぜい頑張ってください。私から逃げられるように」

 クラウスは独り言のように呟くと、最後に一度だけ、今度は優しく私の額に口づけを落とした。

「おやすみなさい、私の王子様(エル)。……鍵はかけておきますよ」

 彼は身を翻し、部屋を出て行った。
 ガチャリと鍵がかかる音がする。
 私はベッドの上で、荒くなった呼吸を整えた。
 首がジンジンと痛む。腹を撫でられた感触が、まだこびりついている。
 けれど、不思議と怖くはなかった。
 あいつの最後のキスが、妙に温かかったからだ。

   ◇

 次の日。クラウスは「父王に呼ばれた」と言って、珍しく部屋を空けていた。
 昨夜の「お仕置き」で付けられた首の噛み痕が、まだジンジンと熱を持っている。
 わずかな自由時間。だが、扉の外には護衛が立っており、実質的な軟禁状態は変わらない。
 私はベッドの上で、膝を抱えてぼんやりとしていた。

「……失礼いたします、殿下」

 控えめなノックと共に、侍女のエマが入ってきた。
 彼女は洗濯物を抱えている。
 いつも通りの業務……に見えたが、彼女の顔色は悪く、視線が泳いでいる。

「エマ? どうした、顔色が悪いぞ」
「しっ……! お静かに」

 エマは人差し指を口に当てると、扉の方を警戒しながら、素早く私に歩み寄った。
 そして、洗濯物の山の下から、封蝋(ふうろう)された一通の手紙を取り出した。

「……これは?」
「ユーリス殿下の側近の方から、極秘にと頼まれました。……公爵様の目を盗んでこれを届けるのに、どれほど寿命が縮んだか」

 エマは震える手でそれを私に押し付けると、「すぐにお隠しください!」と早口で告げ、逃げるようにバスルームへと消えていった。

 私は心臓が跳ねるのを感じながら、手紙の裏を確認した。
 王家の紋章ではなく、兄上が好んで使う「獣と羽」の印章。
 間違いなく、ユーリス兄上からだ。

 私は布団の中に潜り込み、震える指で封を切った。

    *
『親愛なる弟、エルリードへ。

 この手紙が無事に届くことを祈る。
 昨夜の晩餐会、私を庇って前に出てくれた君は、誰よりも立派で美しかった。ありがとう。

 父上からの叱責を心配しているかもしれないが、その必要はない。
 君には最強の盾――ベルンシュタイン公爵がいるからだ。

 実は、あの「狩猟大会」の日。君が傷ついて去った後、公爵が何をしたか知っているかい?
 彼は激昂する父上の前に立ちはだかり、例の『全権委任状』を突きつけたんだ。
 「文句があるなら、我が領地からの支援を全て白紙に戻す」とね。

 今の王家が誰の財力で保たれているか……父上も痛いほど理解したはずだ。
 あの日以来、公爵は父上の首輪を完全に握っている。彼は本気で君を守るつもりだ。

 それともう一つ、謝罪を。
 公爵は今、必死に研究を続けている。「君以外の魔力」を私が受け入れるための薬を、だ。
 前回は監視の目を欺けず、未認可の薬を使えなかったが……彼は諦めていない。
 王家のためじゃない。君を「ただの道具」から解放するために。

 監視が厳しく、直接話せなくてすまない。
 だが、私たちは必ず君が自由に生きられる日を作ってみせる。

 兄、ユーリスより』
    *

 読み終えた手紙が、手から滑り落ちた。

「……うそだ」

 私は信じられない思いで、羊皮紙を見つめた。
 クラウスが、父上に逆らって私を庇った?
 私を使わないために、薬を開発している?
 『父上、頼みます……。私は、クラウスの魔力がいい……あの薬を、許可してくれ……っ』
 兄上のあのセリフは、私のためを思ってのことだったんだ。

 胸の奥が熱くなる。
 この手紙の内容が真実なら、クラウスのあの異常な執着も、過保護も、すべて辻褄が合ってしまう。
 昨夜、私の首を絞めるように抱きしめて言った、「死ねば痛みも感じない」という言葉。
 あれは脅しではなく、彼なりの、危険なことをするなという悲痛な叫びだったのかもしれない。

 ――ガチャリ。

 部屋の扉が開く音がした。
 私は慌てて手紙を枕の下に隠し、狸寝入りを決め込んだ。
 足音が近づいてくる。
 ベッドの脇で止まり、衣擦れの音がして、誰かが覗き込んでくる気配がした。

「……よく眠っていますね」

 クラウスの声だ。
 彼はそっと私の前髪を払い、額に温かい口づけを落とした。

「愛していますよ、エル。……貴方を苦しめる全ての敵は、私が排除しますから」

 その声は、手紙の内容を裏付けるように、甘く、深く、優しかった。
 私はシーツの下で拳を握りしめ、溢れ出しそうになる涙を必死に堪えていた。

   ◇

 やがて、クラウスの気配が遠ざかり、部屋の明かりが消された。
 静寂が戻る。
 けれど、私の胸は早鐘を打ったままで、とても眠れそうになかった。

(……あいつ、本当に私のこと……)

 闇の中で、何度も反芻する。
 兄上の手紙。クラウスの独り言。そして、これまでの過保護な振る舞い。
 全てが繋がっていく。
 彼は私を道具として見ているのではなく、不器用なほど必死に、私を守ろうとしていたのだ。

 会いたい。
 今すぐ彼に会って、確かめたい。
 お前は本当に、あの夢の中で泣いていたクラウスなのか?
 私を殺したことを後悔して、狂ってしまうほど私が好きだったのか?
 もしそうなら、私は――。

 ――カチャリ。

 微かな音がして、扉が開いた。
 誰かが入ってくる気配がする。
 足音を殺しているが、私には分かった。

(……クラウスだ)

 きっと、心配になって様子を見に来たのだろう。
 私は起き上がり、暗闇の中に立つ人影に向かって声をかけた。

「……クラウスか?」

 人影がピタリと止まる。
 私はベッドの上に座り直した。心臓がうるさい。けれど、今なら言える気がした。

「……起きていたんだ。少し、話がしたくて」

 相手は答えない。ただ静かにそこに立っている。
 私は勇気を出して、震える声で続けた。

「手紙を……読んだんだ。兄上からの手紙だ」
「…………」
「書いてあったよ。お前が父上に逆らってまで私を庇ってくれたこと。私のために薬を作ろうとしてくれていること」

 目頭が熱くなる。
 溢れる想いが、言葉となって零れ落ちる。

「……なぁ、クラウス。どうしてそこまで私を守ろうとするんだ?」

 私は問いかけた。

「お前は……もしかして、本当は覚えているのか? 1度目の世界のことを」

 沈黙。
 だが、私は構わず続けた。

「あの夢は……私が殺されたあとの光景は、現実だったのか? お前は、あんなに泣いて……私が死んでから狂ってしまうくらい、私のことが好きだったのか?」

 言ってしまった。
 顔が熱い。こんな恥ずかしい問いかけ、一生することはないと思っていたのに。
 でも、もし彼が「そうだ」と答えてくれたなら。
 私はもう一度、彼の手を取れるかもしれない。

「……答えてくれ、クラウス。私はお前の口から聞きたいんだ」

 私は期待と不安に胸を膨らませ、彼からの言葉を待った。
 愛の告白か、それとも懺悔か。

 ――シュッ。

 風を切る音がした。

「……え?」

 次の瞬間。
 ドスッ。
 鈍く、重い衝撃が腹部に走った。

「が、ぁ……?」

 痛みよりも先に、熱さが広がった。これは知っている。
 視線を落とすと、豪奢な絨毯が急速に赤く染まっていくのが見えた。
 私の腹には、柄の短い短剣が深々と突き刺さっていた。

「……悪く思わないでください、第二王子」

 目の前の人影が、月明かりに照らされた。
 それはクラウスではなかった。
 見覚えのある近衛兵の格好をした男。

「な……なんで……」
「王家の血は、ここで断絶していただかなくては」

 男は事務的に呟き、私を刺した手袋についた血を払った。

(……ああ、そうか)

 私の体から力が抜け、膝から崩れ落ちる。
 クラウスじゃなかった。
 私の想いは、彼には届かなかった。

「エル……ッ!!」

 悲鳴のような絶叫と共に、突風が吹いた。
 目の前に立っていた暗殺者が、見えない力で壁まで吹き飛ばされ、肉塊のように崩れ落ちたのが見えた。

 駆け寄ってくる黒い影。
 今度こそ、本物のクラウスだ。
 彼は血の海に膝をつき、私の体を抱き起こした。いつも完璧に整えられていた金髪が振り乱れ、その顔は信じられないほど歪んでいる。

「嘘だ……嘘だろ、エル……ッ!」

 クラウスの手が、私の傷口に押し当てられる。
 膨大な魔力が、私の体へ必死に流れ込んでくる。
 だが、傷は深すぎる。命が指の隙間から零れ落ちていく。

「なぜだ……! なぜなんだ!!」

 クラウスが、血を吐くような声で叫んだ。回復魔法を使うが、私の溢れ出る血は止まらない。

「今回は、違ったじゃないか……! エルは……運命を変えようと、あんなに足掻いていたじゃないか!」

 彼の瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。

「 やっと、希望が見えたと思ったのに……!」
「どうしてだ! どうして世界は、ここまでして君を殺そうとするんだ!!」

 その悲痛な叫びを聞いた瞬間。
 私の薄れゆく意識の中で、全てのピースがカチリと嵌まった。

(……ああ、そうか)

 こいつは、私の死体を愛していたんじゃない。
 私が怒り、反発し、自分の足で立とうとしていたことを――誰よりも喜び、期待してくれていたんだ。

 こいつはずっと、私の「生」を応援してくれていたんだ。

 ズキリ、と傷口とは違う場所が痛んだ。
 胸が苦しい。申し訳なさで、いっぱいになる。

(……ごめんな、クラウス)

 期待させて、ごめん。またお前を一人にして、ごめん。
 夢の中のお前は、私を裏切ったことを後悔していたのに。今回は、私が差し伸べられた手を、振り払ってしまった。

 その涙を拭いてやりたい。
 その絶望に染まった顔を、笑わせてやりたい。
 こんなに私のために泣いてくれるお前のことを、私はもっと知りたいと思ってしまった。

 視界が白く霞む。
 私は重くなった手を、なんとか持ち上げようとした。
 さっきは振り払ってしまった、その頬に触れるために。

(……次は)

 もしも、もう一度、次があるのなら。今度は、私がその涙を止めてやる。
 私が生きて、お前の希望になってやるから。

 だから、泣くな。
 愛してる。

「……もう一度、また始めないといけないのか?」

 クラウスが、私の亡骸に縋り付くようにして、震える声で呟いた。

「いつ終わるんだ……この永遠は」

 ――え?

 その言葉が、消えかけた私の意識を引き戻した。
 永遠?
 また、始める?

 まさか。
 もしかして、クラウス。

(おまえ、は……)

 私の手が、彼の頬に届く寸前で力を失い、血溜まりに落ちた。

「――ッ、エル!!」

 世界を引き裂くような慟哭(どうこく)が、鼓膜を震わせる。
 それが、私がこの2回目の世界で聞いた、最期の音だった。

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