箱庭物語

晴羽照尊

文字の大きさ
198 / 385
コルカタ編 序章

限りなく正常な世界

しおりを挟む
 さあ、『カーリー女神寺院』へ到着だ。あまり観光するところのないコルカタではあるが、その数少ない観光地のひとつ。ヒンドゥー教における、殺戮の女神、カーリーを祀る寺院。カーリーという名は知らなくとも、その夫、シヴァならまだ有名かもしれない。そのシヴァにとってもカーリーは手に負えないどの女神であったらしく、ある戦いに勝利したカーリーは、とてつもない勢いで戦勝の舞踊を始めた。このままでは大地が割れるのではないかというほどの壮絶さに、夫シヴァは大地と彼女の間に寝転がり、自らの体でもってそれを緩和させたのだとか。

 その肉体は青がかった黒色。四本の腕には、剣や、それで切り取った生首を持っている。口からは鋭い牙や長い舌が飛び出し、髑髏や生首を繋いだ首飾り、腰には切り取った手足などを飾った、なんとも怖ろしい姿で描かれる、まさしく、血と殺戮の女神なのである。

 そんなカーリーに捧げられる供物は、やはり、血。ここ、カーリー女神寺院では、現代でも毎日、毎朝、ヤギの首が刎ねられ、その血を女神さまに捧げている。多くの観光客による熱気でごった返す院内で、清められたヤギが、両の前足を背中でくくられ、その首を、二本の木の間に固定し、斧で、一刃のもとに切り落とす。その後、このヤギは解体され、その肉はしっかりと、人々の血肉となる。

 争いのない平和な国に生活する者にとっては、なかなかにショッキングな光景ではあるが、それゆえに、それを一見することには大きな意味がある。命の大切さだとか、食用とされる動物たちへの感謝だとか、そういう当然のことを理解させられる。世界は正しいのか? 自らの感情は正しいのか? 正しいとされていることは、本当に正しいのか? そしてそれが正しいとして、『正しい』ということははたして、善であるのか。

 何度見ても、不思議な高揚と、喪失感。虚無感。それを抱く。嫌悪感。それを自らの内に確認して、だから、自分が嫌いになる。こういうことが、世界では常に起こっていて、それで自分は食い繋いでいる。それを知っているのに、を現実に見ると、やり場のない怒りに苛まれる。間違っているのだ、と、再考して、そんな自分を正当化する。そうしてまた、日常に戻るのだ。

 などと、つらつらと思考が男の脳内をぐるぐると回った。この地に住んでいた際に、何度も何度も繰り返し、その光景は見たはずである。自分の進む道は、正しいのか? そう自問する。この地は、世界の縮図だ。その一場面だ。それと相対して、いつも、答えの出ない思惑に溺れる。真綿で首を絞められる――自ら、絞める。

 そうして自分を――世界を俯瞰する。もう一度、足に力を込めるために――。

        *

「なにを考えているか、当ててみましょうか?」

 少女――かと、なぜか一瞬、思った。そもそも声がしわがれたおっさんのものであったというのに。まあ、文字だけで見れば少女っぽい、ともいえるが。

「人生は無常だ。これだけ容易く、どこにも『死』は転がっているのに、自分は死なないだろうという――少なくともまだ数日、数か月、数年は生き続けるだろうという確信がある。……明日、生贄にされるヤギはもう決まっている。彼に意識があるのなら、彼も自分と同じ気持ちだろうか? 明日も生きられるという確信を持っているのだろうか? だとしたら、彼にとって自分は神にも等しい。なぜなら、彼が明日死ぬことを、彼の確信が外れることを、自分は知っているのだから」

 黒いローブで頭部まですっぽり覆って、肌を見せない僧侶は、いつのまにか男の隣にいて、そのように語った。

「べつに――」

「ああ、こうなったら髪を剃るしかない。やはり時代はスキンヘッド。毛髪などというものは邪心しか生まない。さあ、いまから私が剃ってあげよう」

「や、め、ろ、……馬鹿、野郎……っ!」

 本当に本気の様相で男の頭部に掴みかかろうとする僧侶を、その両腕を、なんとか抑え込み、震える声で男は応対した。正直、僧侶が本気であれば、男には戦闘力で――単純に力でおいても、彼に勝つ術はない。ゆえに、これは冗談なのだろうけれど、男がじりじりと追い込まれる絶妙な力加減で、僧侶は男の頭部へ力を込め続けた。

「……なにやってるの?」

 幼女が、ヤギの首切りを見て少し体調を崩してしまった。それを介抱するために席を外していた少女は、戻ってくるなり、首を傾げてそう、問うた。

「ヘルプ……ノラ、ヘルプ……っ!」

 もはや腕が痺れてきた。それに限界を感じ、男は少女へ救いを求めた。

「あら、タギー・バクルドさんね。このあいだはわたしのためにご尽力いただき、どうもありがとう」

「あなたがノラちゃんですか。いえいえ、ハクくんとは旧知の間柄。その娘さんともなれば、私にとっても他人事ではありませんでしたからね。……無事に済んで、心から安堵しています」

 だが、少女と僧侶は社交辞令を開始してしまった。少女はなにも助け舟を出さず、僧侶はまったく、力を緩めず。

「そういうふうに思っていてくれたなんて、嬉しいわ。本日はお借りしたものを返しに来たのと、……あと、体験入信、とでもいうのかしら、『女神さま』という方にお会いできるってことで、ちょっと楽しみにしてたの。どうぞ、よろしくお願いします」

 少女は丁寧に頭を下げた。

「いえ、こちらこそ。『女神さま』も首を長くして、おふたりが来るのをお待ちしています。迎えが遅くなって、すみませんでしたね」

 にこやかに笑顔を向ける僧侶。しかし、やはり力は弱まらない。

「…………お、い。……助け――」

「あー――」

 男の救援を遮るように、少女は少し、考えるように声を出した。

「……今日はいい天気ね?」

 少女は言った。

「……ええ、コルカタの二月は過ごしやすくて、いいですよ」

 僧侶が答えた。

「うがあぁ!! いいかげんにしろっ!!」

 男が叫んだ。

 最後の力を振り絞って抵抗した男の反抗は、それを見越した僧侶が瞬時に力を抜くことで、面白いほど見事に、空回りして、……男は、地に伏した。

        *

 気を取り直して、僧侶の案内の元、『本の虫シミ』の拠点へと向かう。のは、いいのだが。

「……ハクくん。こちらが奥方で、この子は第二子ですか?」

 体調が回復した幼女と、なんか、どっかその辺をぶらついていた女流が戻ってくるなり、僧侶は確認した。若干引いていた。この地でともに過ごしたころからであれば、数年まともに会っていないのだから、いい歳でもある、結婚していてもおかしくはないのだが、なんというか、ちょっと思うところがある。僧侶はそんな心境だった。ギャルのこともあるし。

 まあ、実質的には引いたふうを装って、男をおちょくっているだけなのだが。

「違うわ。こっちがラグナ。あー――」

 EBNAから連れ帰った、というと、ちょっといろいろ問題がありそうだ。そう、瞬時に男は考える。

「まあ、第二子みたいなもんだ」

「む、す、め!」

 幼女が下から睨み上げ、訂正を求めた。

「……娘だ。で、こっちが――」

 女流を見遣って、考える。こっちの方がよほど説明が難しい。『クレオパトラ』という名前も、ともすれば伝えにくいほどである。

 すると女流が男の頭を、そこに乗っかるボルサリーノを掴んで、軽く揺らして、言う。

「この馬鹿の、保護者みたいなものだのう。名はクレ――」

「フィロちゃんよ」

 隣で少女が訂正する。

「フィロちゃんである」

 女流が胸を張った。

「ほら、言ったろ。『雪女』を使うあてがあると。こいつがそれだ」

 後付の理由ではあるが、確かに彼女はそれを扱えた。なんらかの理由がなければ、ともに行動していることを突っつかれる。ゆえに、彼女の有用性を語っておいた。

 だが、すぐに違和感に気付く。どうして彼女が『雪女』を扱えることを先んじて知れていたのか? 考えてみれば男はその点について、説明できる屁理屈を思い付けないでいた。

 その点について、僧侶も内心首を捻ったが、気付かないふりをして

「そうですか」

 と、端的に笑って、答えるにとどめた。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

Re:コード・ブレイカー ~落ちこぼれと嘲られた少年、世界最強の異能で全てをねじ伏せる~

たまごころ
ファンタジー
高校生・篠宮レンは、異能が当然の時代に“無能”として蔑まれていた。 だがある日、封印された最古の力【再構築(Rewrite)】が覚醒。 世界の理(コード)を上書きする力を手に入れた彼は、かつて自分を見下した者たちに逆襲し、隠された古代組織と激突していく。 「最弱」から「神域」へ――現代異能バトル成り上がり譚が幕を開ける。

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

灰かぶりの姉

吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。 「今日からあなたのお父さんと妹だよ」 そう言われたあの日から…。 * * * 『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。 国枝 那月×野口 航平の過去編です。

処理中です...