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コルカタ編 序章
限りなく正常な世界
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さあ、『カーリー女神寺院』へ到着だ。あまり観光するところのないコルカタではあるが、その数少ない観光地のひとつ。ヒンドゥー教における、殺戮の女神、カーリーを祀る寺院。カーリーという名は知らなくとも、その夫、シヴァならまだ有名かもしれない。そのシヴァにとってもカーリーは手に負えないどの女神であったらしく、ある戦いに勝利したカーリーは、とてつもない勢いで戦勝の舞踊を始めた。このままでは大地が割れるのではないかというほどの壮絶さに、夫シヴァは大地と彼女の間に寝転がり、自らの体でもってそれを緩和させたのだとか。
その肉体は青がかった黒色。四本の腕には、剣や、それで切り取った生首を持っている。口からは鋭い牙や長い舌が飛び出し、髑髏や生首を繋いだ首飾り、腰には切り取った手足などを飾った、なんとも怖ろしい姿で描かれる、まさしく、血と殺戮の女神なのである。
そんなカーリーに捧げられる供物は、やはり、血。ここ、カーリー女神寺院では、現代でも毎日、毎朝、ヤギの首が刎ねられ、その血を女神さまに捧げている。多くの観光客による熱気でごった返す院内で、清められたヤギが、両の前足を背中でくくられ、その首を、二本の木の間に固定し、斧で、一刃のもとに切り落とす。その後、このヤギは解体され、その肉はしっかりと、人々の血肉となる。
争いのない平和な国に生活する者にとっては、なかなかにショッキングな光景ではあるが、それゆえに、それを一見することには大きな意味がある。命の大切さだとか、食用とされる動物たちへの感謝だとか、そういう当然のことを当然ではない形で理解させられる。世界は正しいのか? 自らの感情は正しいのか? 正しいとされていることは、本当に正しいのか? そしてそれが正しいとして、『正しい』ということははたして、善であるのか。
何度見ても、不思議な高揚と、喪失感。虚無感。それを抱く。嫌悪感。それを自らの内に確認して、だから、自分が嫌いになる。こういうことが、世界では常に起こっていて、それで自分は食い繋いでいる。それを知っているのに、それを現実に見ると、やり場のない怒りに苛まれる。間違っているのだ、と、再考して、そんな自分を正当化する。そうしてまた、日常に戻るのだ。
などと、つらつらと思考が男の脳内をぐるぐると回った。この地に住んでいた際に、何度も何度も繰り返し、その光景は見たはずである。自分の進む道は、正しいのか? そう自問する。この地は、世界の縮図だ。その一場面だ。それと相対して、いつも、答えの出ない思惑に溺れる。真綿で首を絞められる――自ら、絞める。
そうして自分を――世界を俯瞰する。もう一度、足に力を込めるために――。
*
「なにを考えているか、当ててみましょうか?」
少女――かと、なぜか一瞬、思った。そもそも声がしわがれたおっさんのものであったというのに。まあ、文字だけで見れば少女っぽい、ともいえるが。
「人生は無常だ。これだけ容易く、どこにも『死』は転がっているのに、自分は死なないだろうという――少なくともまだ数日、数か月、数年は生き続けるだろうという確信がある。……明日、生贄にされるヤギはもう決まっている。彼に意識があるのなら、彼も自分と同じ気持ちだろうか? 明日も生きられるという確信を持っているのだろうか? だとしたら、彼にとって自分は神にも等しい。なぜなら、彼が明日死ぬことを、彼の確信が外れることを、自分は知っているのだから」
黒いローブで頭部まですっぽり覆って、肌を見せない僧侶は、いつのまにか男の隣にいて、そのように語った。
「べつに――」
「ああ、こうなったら髪を剃るしかない。やはり時代はスキンヘッド。毛髪などというものは邪心しか生まない。さあ、いまから私が剃ってあげよう」
「や、め、ろ、……馬鹿、野郎……っ!」
本当に本気の様相で男の頭部に掴みかかろうとする僧侶を、その両腕を、なんとか抑え込み、震える声で男は応対した。正直、僧侶が本気であれば、男には戦闘力で――単純に力でおいても、彼に勝つ術はない。ゆえに、これは冗談なのだろうけれど、男がじりじりと追い込まれる絶妙な力加減で、僧侶は男の頭部へ力を込め続けた。
「……なにやってるの?」
幼女が、ヤギの首切りを見て少し体調を崩してしまった。それを介抱するために席を外していた少女は、戻ってくるなり、首を傾げてそう、問うた。
「ヘルプ……ノラ、ヘルプ……っ!」
もはや腕が痺れてきた。それに限界を感じ、男は少女へ救いを求めた。
「あら、タギー・バクルドさんね。このあいだはわたしのためにご尽力いただき、どうもありがとう」
「あなたがノラちゃんですか。いえいえ、ハクくんとは旧知の間柄。その娘さんともなれば、私にとっても他人事ではありませんでしたからね。……無事に済んで、心から安堵しています」
だが、少女と僧侶は社交辞令を開始してしまった。少女はなにも助け舟を出さず、僧侶はまったく、力を緩めず。
「そういうふうに思っていてくれたなんて、嬉しいわ。本日はお借りしたものを返しに来たのと、……あと、体験入信、とでもいうのかしら、『女神さま』という方にお会いできるってことで、ちょっと楽しみにしてたの。どうぞ、よろしくお願いします」
少女は丁寧に頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。『女神さま』も首を長くして、おふたりが来るのをお待ちしています。迎えが遅くなって、すみませんでしたね」
にこやかに笑顔を向ける僧侶。しかし、やはり力は弱まらない。
「…………お、い。……助け――」
「あー――」
男の救援を遮るように、少女は少し、考えるように声を出した。
「……今日はいい天気ね?」
少女は言った。
「……ええ、コルカタの二月は過ごしやすくて、いいですよ」
僧侶が答えた。
「うがあぁ!! いいかげんにしろっ!!」
男が叫んだ。
最後の力を振り絞って抵抗した男の反抗は、それを見越した僧侶が瞬時に力を抜くことで、面白いほど見事に、空回りして、……男は、地に伏した。
*
気を取り直して、僧侶の案内の元、『本の虫』の拠点へと向かう。のは、いいのだが。
「……ハクくん。こちらが奥方で、この子は第二子ですか?」
体調が回復した幼女と、なんか、どっかその辺をぶらついていた女流が戻ってくるなり、僧侶は確認した。若干引いていた。この地でともに過ごしたころからであれば、数年まともに会っていないのだから、いい歳でもある、結婚していてもおかしくはないのだが、なんというか、ちょっと思うところがある。僧侶はそんな心境だった。ギャルのこともあるし。
まあ、実質的には引いたふうを装って、男をおちょくっているだけなのだが。
「違うわ。こっちがラグナ。あー――」
EBNAから連れ帰った、というと、ちょっといろいろ問題がありそうだ。そう、瞬時に男は考える。
「まあ、第二子みたいなもんだ」
「む、す、め!」
幼女が下から睨み上げ、訂正を求めた。
「……娘だ。で、こっちが――」
女流を見遣って、考える。こっちの方がよほど説明が難しい。『クレオパトラ』という名前も、ともすれば伝えにくいほどである。
すると女流が男の頭を、そこに乗っかるボルサリーノを掴んで、軽く揺らして、言う。
「この馬鹿の、保護者みたいなものだのう。名はクレ――」
「フィロちゃんよ」
隣で少女が訂正する。
「フィロちゃんである」
女流が胸を張った。
「ほら、言ったろ。『雪女』を使うあてがあると。こいつがそれだ」
後付の理由ではあるが、確かに彼女はそれを扱えた。なんらかの理由がなければ、ともに行動していることを突っつかれる。ゆえに、彼女の有用性を語っておいた。
だが、すぐに違和感に気付く。どうして彼女が『雪女』を扱えることを先んじて知れていたのか? 考えてみれば男はその点について、説明できる屁理屈を思い付けないでいた。
その点について、僧侶も内心首を捻ったが、気付かないふりをして
「そうですか」
と、端的に笑って、答えるにとどめた。
その肉体は青がかった黒色。四本の腕には、剣や、それで切り取った生首を持っている。口からは鋭い牙や長い舌が飛び出し、髑髏や生首を繋いだ首飾り、腰には切り取った手足などを飾った、なんとも怖ろしい姿で描かれる、まさしく、血と殺戮の女神なのである。
そんなカーリーに捧げられる供物は、やはり、血。ここ、カーリー女神寺院では、現代でも毎日、毎朝、ヤギの首が刎ねられ、その血を女神さまに捧げている。多くの観光客による熱気でごった返す院内で、清められたヤギが、両の前足を背中でくくられ、その首を、二本の木の間に固定し、斧で、一刃のもとに切り落とす。その後、このヤギは解体され、その肉はしっかりと、人々の血肉となる。
争いのない平和な国に生活する者にとっては、なかなかにショッキングな光景ではあるが、それゆえに、それを一見することには大きな意味がある。命の大切さだとか、食用とされる動物たちへの感謝だとか、そういう当然のことを当然ではない形で理解させられる。世界は正しいのか? 自らの感情は正しいのか? 正しいとされていることは、本当に正しいのか? そしてそれが正しいとして、『正しい』ということははたして、善であるのか。
何度見ても、不思議な高揚と、喪失感。虚無感。それを抱く。嫌悪感。それを自らの内に確認して、だから、自分が嫌いになる。こういうことが、世界では常に起こっていて、それで自分は食い繋いでいる。それを知っているのに、それを現実に見ると、やり場のない怒りに苛まれる。間違っているのだ、と、再考して、そんな自分を正当化する。そうしてまた、日常に戻るのだ。
などと、つらつらと思考が男の脳内をぐるぐると回った。この地に住んでいた際に、何度も何度も繰り返し、その光景は見たはずである。自分の進む道は、正しいのか? そう自問する。この地は、世界の縮図だ。その一場面だ。それと相対して、いつも、答えの出ない思惑に溺れる。真綿で首を絞められる――自ら、絞める。
そうして自分を――世界を俯瞰する。もう一度、足に力を込めるために――。
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「なにを考えているか、当ててみましょうか?」
少女――かと、なぜか一瞬、思った。そもそも声がしわがれたおっさんのものであったというのに。まあ、文字だけで見れば少女っぽい、ともいえるが。
「人生は無常だ。これだけ容易く、どこにも『死』は転がっているのに、自分は死なないだろうという――少なくともまだ数日、数か月、数年は生き続けるだろうという確信がある。……明日、生贄にされるヤギはもう決まっている。彼に意識があるのなら、彼も自分と同じ気持ちだろうか? 明日も生きられるという確信を持っているのだろうか? だとしたら、彼にとって自分は神にも等しい。なぜなら、彼が明日死ぬことを、彼の確信が外れることを、自分は知っているのだから」
黒いローブで頭部まですっぽり覆って、肌を見せない僧侶は、いつのまにか男の隣にいて、そのように語った。
「べつに――」
「ああ、こうなったら髪を剃るしかない。やはり時代はスキンヘッド。毛髪などというものは邪心しか生まない。さあ、いまから私が剃ってあげよう」
「や、め、ろ、……馬鹿、野郎……っ!」
本当に本気の様相で男の頭部に掴みかかろうとする僧侶を、その両腕を、なんとか抑え込み、震える声で男は応対した。正直、僧侶が本気であれば、男には戦闘力で――単純に力でおいても、彼に勝つ術はない。ゆえに、これは冗談なのだろうけれど、男がじりじりと追い込まれる絶妙な力加減で、僧侶は男の頭部へ力を込め続けた。
「……なにやってるの?」
幼女が、ヤギの首切りを見て少し体調を崩してしまった。それを介抱するために席を外していた少女は、戻ってくるなり、首を傾げてそう、問うた。
「ヘルプ……ノラ、ヘルプ……っ!」
もはや腕が痺れてきた。それに限界を感じ、男は少女へ救いを求めた。
「あら、タギー・バクルドさんね。このあいだはわたしのためにご尽力いただき、どうもありがとう」
「あなたがノラちゃんですか。いえいえ、ハクくんとは旧知の間柄。その娘さんともなれば、私にとっても他人事ではありませんでしたからね。……無事に済んで、心から安堵しています」
だが、少女と僧侶は社交辞令を開始してしまった。少女はなにも助け舟を出さず、僧侶はまったく、力を緩めず。
「そういうふうに思っていてくれたなんて、嬉しいわ。本日はお借りしたものを返しに来たのと、……あと、体験入信、とでもいうのかしら、『女神さま』という方にお会いできるってことで、ちょっと楽しみにしてたの。どうぞ、よろしくお願いします」
少女は丁寧に頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。『女神さま』も首を長くして、おふたりが来るのをお待ちしています。迎えが遅くなって、すみませんでしたね」
にこやかに笑顔を向ける僧侶。しかし、やはり力は弱まらない。
「…………お、い。……助け――」
「あー――」
男の救援を遮るように、少女は少し、考えるように声を出した。
「……今日はいい天気ね?」
少女は言った。
「……ええ、コルカタの二月は過ごしやすくて、いいですよ」
僧侶が答えた。
「うがあぁ!! いいかげんにしろっ!!」
男が叫んだ。
最後の力を振り絞って抵抗した男の反抗は、それを見越した僧侶が瞬時に力を抜くことで、面白いほど見事に、空回りして、……男は、地に伏した。
*
気を取り直して、僧侶の案内の元、『本の虫』の拠点へと向かう。のは、いいのだが。
「……ハクくん。こちらが奥方で、この子は第二子ですか?」
体調が回復した幼女と、なんか、どっかその辺をぶらついていた女流が戻ってくるなり、僧侶は確認した。若干引いていた。この地でともに過ごしたころからであれば、数年まともに会っていないのだから、いい歳でもある、結婚していてもおかしくはないのだが、なんというか、ちょっと思うところがある。僧侶はそんな心境だった。ギャルのこともあるし。
まあ、実質的には引いたふうを装って、男をおちょくっているだけなのだが。
「違うわ。こっちがラグナ。あー――」
EBNAから連れ帰った、というと、ちょっといろいろ問題がありそうだ。そう、瞬時に男は考える。
「まあ、第二子みたいなもんだ」
「む、す、め!」
幼女が下から睨み上げ、訂正を求めた。
「……娘だ。で、こっちが――」
女流を見遣って、考える。こっちの方がよほど説明が難しい。『クレオパトラ』という名前も、ともすれば伝えにくいほどである。
すると女流が男の頭を、そこに乗っかるボルサリーノを掴んで、軽く揺らして、言う。
「この馬鹿の、保護者みたいなものだのう。名はクレ――」
「フィロちゃんよ」
隣で少女が訂正する。
「フィロちゃんである」
女流が胸を張った。
「ほら、言ったろ。『雪女』を使うあてがあると。こいつがそれだ」
後付の理由ではあるが、確かに彼女はそれを扱えた。なんらかの理由がなければ、ともに行動していることを突っつかれる。ゆえに、彼女の有用性を語っておいた。
だが、すぐに違和感に気付く。どうして彼女が『雪女』を扱えることを先んじて知れていたのか? 考えてみれば男はその点について、説明できる屁理屈を思い付けないでいた。
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