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台湾編 序章 ルート3
She's desire
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順当に食い倒れて、紳士はホテルに戻った。あれから、さらに数件の店を訪れ、紳士も、さすがに付き合いで、いくらかのグルメを口にした。だがどれも、もはや味など解らない。咀嚼すら努力を必要とし、嚥下するには多大なる時間を要したほどだ。帰りがけには、もう食べ物を見ることすら辛く感じた。
「ああ、楽しかったわね、ヤフユ」
体調も悪そうに隣を歩いていたはずなのに、少女はそんなことになど気が付かなかったかのように、本当に楽しそうに、そう言った。
「君が楽しめたのなら、わたしもよかったよ」
紳士は、不満を口にするタイプではない。そのうえ、この程度のことに不満すら感じる性格でもなかった。本当に言葉通りだ。少女が楽しめたのなら、彼自身も嬉しく感じられたのである。
「でしょ?」
少女は悪びれもせず、返答した。もちろん紳士が気分を害しているとは思っていないし、そのことを事実として理解しているのだろうが、それにしても奔放に、自分本位だ。おそらくそういう性格なのだろう。
あれから、結局、他の誰かとは合わなかった。男、メイド、女傑、丁年。今回、WBOを訪れるメンバーだ。とはいえ、集合するタイミングがずれていたから、各々個別に宿は取っていた。ゆえに、ホテル内で顔を合わせる機会もない。ちなみに、少女と紳士が同じ宿。佳人麗人メイドでひとつ宿を取っていたらしい。男は女傑と一緒だろう。丁年はきっと、勝手にやっている。
「明日は、WBOへ行くんだろう? 時間は?」
ソファに横になりながら、紳士は尋ねた。だが、返答がない。
「ノラ――?」
と、さきほどまで彼女がいたはずの方を向くと、そこには、抜け殻だけが脱ぎ捨てられていた。彼女の白いワンピース。遅れて、シャワーの音が聞こえる。
片眉を上げて、紳士は立ち上がる。少女がこんなふうに、だらしなく衣服を脱ぎ捨てるとは珍しい。紳士は、重い体を動かして、それを拾う。クローゼットからハンガーを出して、それに引っかけた。
それから、改めて、ソファに横になる。膨れた腹の問題もあり、瞼が重かった。だから、まどろみの中で、思惑する。
今回、これだけの大人数でWBOに向かうのは、戦闘を考慮しているからだ。少なくとも、佳人、麗人、丁年――稲荷日三姉妹弟は、その気である。これは、WBOとの交渉がうまくいこうとも、起きてしまう闘争だ。それを、紳士には止められなかった。
止めようとしたが、止まらなかった。わけじゃない。彼はまずもってそれを、止めようともしなかった。それは、もう十分に大人になった彼と彼女らに、兄とはいえ、自分が口を出すべきではないと思ったからである。だがそれ以上に、若者が殺された。そんな大変なときに、自身が不甲斐ない行いに溺れていたから、という要因がもっとも強かった。相手が、あまりに特異な人間だったとはいえ、彼女に――女神さまに耽溺し、ずっと腑抜けていた。そんな自分が、誰かをたしなめることなど、できない。そう思ったのである。
だから、戦闘は、起きる。その件は少女も了解している。少女の言によると、その戦闘によって、交渉がうまくいかなくなることはないという。これで完全に、彼女らを止める理屈はなくなった。
戦いが起きるなら、その熱は、そばにいる自分たちにも、相手たちにも波及しかねない。あくまで交渉だ。そのつもりでWBOには向かう。それでも、今回こそは男も、戦ってでも意志を貫くことを覚悟している。それに、少女は付き合うつもりだ。だったら、自分も、付き合う。紳士もそう覚悟していた。
だが、意外なことに、心は穏やかだった。傷付くことにも、傷付けることにも、抵抗がある。しかし、きっとそんなことにはならないだろうと、紳士は思っていた。楽観視しているわけじゃない。ただ、うまくいくという、不思議な自信があった。交渉がうまくいく、という予想をしているのではなく、少なくとも自分は、どういう状況になってもうまくできる、という、根拠のない自信だ。
紳士は、けっして、自己評価の高い人間ではない。むしろどちらかといえば、自己評価の低い人間だと言えるだろう。それでもなぜだか今回は、うまくいく。そう、思っていたのだ。
それから――弟や妹たちの心配をして、少女がシャワーから出て来たら、明日の予定を聞かねばと再確認し、男とメイドはうまくやったのだろうかと、妙な心配をして、元WBOの女傑は内心複雑ではないのだろうか、とか、考えて。翌日のことをぼんやりと、曖昧に空想して、いざというときの行動をシミュレートする。
――していたら、どうやらいつの間にか、まどろみに飲み込まれたらしい。紳士は最後の夜を、苦しいお腹を抱えた重い体のままに、眠った。
*
体に感じる重さで、紳士は目を覚ました。
「……寝てたか」
軽く、自己嫌悪する。
紳士は、努力を続けてきた人間だ。父親と呼ぶべき若者を目指し、あるいは、妻である少女と並ぶために。けっして無理はしない。だが、でき得る限りに努力を続け、昨日の自分より強く、賢くなれるように、意識してきた。だから、意図せず眠ってしまったことに、嫌悪を感じたのである。
とはいえ、切羽詰まるほど自分を追い込んで生きてきたわけでもない。だから、軽い、自己嫌悪だ。
「……どうかしたの?」
そんな自己嫌悪より、大変な事態が隣で眠っていた。だから、紳士は声をかける。自身の腕に頭を乗せた、少女に。
「…………」
きっと返答があると思って問うた言葉は、どうやら空回りした。少女が自分の前で完全に無防備になったのは、いったい、いつ以来だろう? 紳士は記憶を、少年だったころまで想起する。
状況を確認しよう。紳士は動けないままに、頭を働かせた。昨夜は、ソファで眠ってしまったはずだ。しかし、いまはベッドで寝ている。シングルベッドがふたつ並んだ部屋だったはずだが、なぜだか少女と同衾していて、彼女は自身の腕の上で、寝息を立てていた。
「なるほど、解らない」
紳士は呟いた。ベッドへは、少女が運んでくれたのだろう。だが、そのまま一緒に寝ているのが解らない。たしかに夫婦ではあるが、こんなふうに同じベッドで寝た経験など、たぶん、おそらく、きっと、ないような気がする。紳士はそう思った。
たぶん、おそらく、きっと。こういうときは、欲情するのだろう。そう、なんの気なしに思った。だが、そう理性的に思うほどに、紳士は冷静だった。というか、そんな気が起きなかった。たぶん、そう思えるほどに、紳士は少女を、対等に感じられずにいたのだ。
「わたしは、きみのそばにいて、よかったのだろうか」
自問する。眠って無防備な少女の頬を撫で、言葉にする。
少女は、特別だ。『シェヘラザードの遺言』をその頭に宿し、人間の限界に到達して、『異本』を巡る物語の、その、中核にいる。そんな特別な彼女のそばにいるには、自分は、あまりに平凡だ。そう、紳士は自己嫌悪した。
それを、なんとかするために、自己研鑽した。もともと、向上心も、探求心もあった。だけれど、少女と出会って、少女を愛して、紳士は、意識的に、努力を始めた。
だが、届くはずもなかった。少女の、特別な力には。
たしかに、彼女が強さ、賢さを手に入れたのは、偶然だ。『シェヘラザードの遺言』を読み、その特異な力を、その身に宿したからだ。しかし、それが運だろうがなんだろうが、彼女はそれを手に入れて、それを使いこなしている。運だろうがなんだろうが、手に入れることが叶わなかった、自分は、やはり、普通だ。そう、自己嫌悪する。
ふう。と、息を吐いて、その悪感情を吐き出した。少女がわずかでも求めてくれている。自分で自分を見限るのは、やめておこう。そう思う。
「まだわたしは、わたしを認めていない。だから――」
まだ、離れないでくれよ。と、その言葉を、紳士は飲み込んだ。
「時間は、いいのかな? ……なら、まだ少し、眠ろうか」
少女の体温を感じながら、まだ、あと少しだけ――。
*
「最後まで、手は出さないのね」
少女は起き上がり、言葉をかけた。もう一度、眠りの海に落ちて行った、紳士に。
自分の、夫へ向けて。
「まあ、あなたらしいわ。だから――」
ぶんぶんと、首を振る。紳士は眠っている。たしかだ。少女の慧眼で確実に、確認している。だから、どうせ誰も聞いていない。
それでも、言葉に言い淀んで、口を閉ざす。
軽く、紳士の頬を撫でた。直前で紳士がそうしたように。
「本当のわたしなら、素直に言えるのかしら」
本当の。という言い方は、違うかもしれない。本来の。かな。少女は頭で、言葉を探す。いくら賢くても、自分の気持ちなんて解らない。抽象的な概念に当て嵌める言語など、そんなもの、この世界中のどこにも、答えはないのだから。
いくらか、そうしていた。ただ黙って、紳士の頬を撫でる。ときおり寝言のような声を上げ、眉をしかめる。夢の中でも努力している、彼を見て。
少女は、小さく、笑った。泣きそうな、顔で。
「時間ね」
紳士だけを見つめて、時計なんかも確認していないのに、少女は、確信をもって言った。勘違いの余地なんてない。もう、時間だ。
そんなことが解る自分に、嫌気がさす。本当に本当に、嫌になる。
だから、最後に、そんな鬱憤を晴らすように、一言。
「愛しているわ、ヤフユ」
恥ずかしさで、肩が上がった。んんぅ、と、言葉にならない声を上げる。顔が赤く染まったのを、鏡なんて見なくても、理解した。数日前にも同じことを伝えた。でもあのときは、そのことに照れている余裕がなかったのだ。こんな、安らぎの中で、しかもこっそりと呟く言葉は、まるで秘め事のようで、こそばゆい。
だから、本当に本当に本当に、なんなのよ。と、自分自身に、やつあたりをする。
「起きなさい! ヤフユ!」
そして、もうひとりにも、やつあたりをする。紳士は、ものすごい声を上げながら、起床した。
気をつけなきゃいけないわ。少女は、思った。苦しそうに悶える紳士を見て。
わたし、ダメな男に惹かれるみたい。そう思って、少女は、笑った。
「ああ、楽しかったわね、ヤフユ」
体調も悪そうに隣を歩いていたはずなのに、少女はそんなことになど気が付かなかったかのように、本当に楽しそうに、そう言った。
「君が楽しめたのなら、わたしもよかったよ」
紳士は、不満を口にするタイプではない。そのうえ、この程度のことに不満すら感じる性格でもなかった。本当に言葉通りだ。少女が楽しめたのなら、彼自身も嬉しく感じられたのである。
「でしょ?」
少女は悪びれもせず、返答した。もちろん紳士が気分を害しているとは思っていないし、そのことを事実として理解しているのだろうが、それにしても奔放に、自分本位だ。おそらくそういう性格なのだろう。
あれから、結局、他の誰かとは合わなかった。男、メイド、女傑、丁年。今回、WBOを訪れるメンバーだ。とはいえ、集合するタイミングがずれていたから、各々個別に宿は取っていた。ゆえに、ホテル内で顔を合わせる機会もない。ちなみに、少女と紳士が同じ宿。佳人麗人メイドでひとつ宿を取っていたらしい。男は女傑と一緒だろう。丁年はきっと、勝手にやっている。
「明日は、WBOへ行くんだろう? 時間は?」
ソファに横になりながら、紳士は尋ねた。だが、返答がない。
「ノラ――?」
と、さきほどまで彼女がいたはずの方を向くと、そこには、抜け殻だけが脱ぎ捨てられていた。彼女の白いワンピース。遅れて、シャワーの音が聞こえる。
片眉を上げて、紳士は立ち上がる。少女がこんなふうに、だらしなく衣服を脱ぎ捨てるとは珍しい。紳士は、重い体を動かして、それを拾う。クローゼットからハンガーを出して、それに引っかけた。
それから、改めて、ソファに横になる。膨れた腹の問題もあり、瞼が重かった。だから、まどろみの中で、思惑する。
今回、これだけの大人数でWBOに向かうのは、戦闘を考慮しているからだ。少なくとも、佳人、麗人、丁年――稲荷日三姉妹弟は、その気である。これは、WBOとの交渉がうまくいこうとも、起きてしまう闘争だ。それを、紳士には止められなかった。
止めようとしたが、止まらなかった。わけじゃない。彼はまずもってそれを、止めようともしなかった。それは、もう十分に大人になった彼と彼女らに、兄とはいえ、自分が口を出すべきではないと思ったからである。だがそれ以上に、若者が殺された。そんな大変なときに、自身が不甲斐ない行いに溺れていたから、という要因がもっとも強かった。相手が、あまりに特異な人間だったとはいえ、彼女に――女神さまに耽溺し、ずっと腑抜けていた。そんな自分が、誰かをたしなめることなど、できない。そう思ったのである。
だから、戦闘は、起きる。その件は少女も了解している。少女の言によると、その戦闘によって、交渉がうまくいかなくなることはないという。これで完全に、彼女らを止める理屈はなくなった。
戦いが起きるなら、その熱は、そばにいる自分たちにも、相手たちにも波及しかねない。あくまで交渉だ。そのつもりでWBOには向かう。それでも、今回こそは男も、戦ってでも意志を貫くことを覚悟している。それに、少女は付き合うつもりだ。だったら、自分も、付き合う。紳士もそう覚悟していた。
だが、意外なことに、心は穏やかだった。傷付くことにも、傷付けることにも、抵抗がある。しかし、きっとそんなことにはならないだろうと、紳士は思っていた。楽観視しているわけじゃない。ただ、うまくいくという、不思議な自信があった。交渉がうまくいく、という予想をしているのではなく、少なくとも自分は、どういう状況になってもうまくできる、という、根拠のない自信だ。
紳士は、けっして、自己評価の高い人間ではない。むしろどちらかといえば、自己評価の低い人間だと言えるだろう。それでもなぜだか今回は、うまくいく。そう、思っていたのだ。
それから――弟や妹たちの心配をして、少女がシャワーから出て来たら、明日の予定を聞かねばと再確認し、男とメイドはうまくやったのだろうかと、妙な心配をして、元WBOの女傑は内心複雑ではないのだろうか、とか、考えて。翌日のことをぼんやりと、曖昧に空想して、いざというときの行動をシミュレートする。
――していたら、どうやらいつの間にか、まどろみに飲み込まれたらしい。紳士は最後の夜を、苦しいお腹を抱えた重い体のままに、眠った。
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体に感じる重さで、紳士は目を覚ました。
「……寝てたか」
軽く、自己嫌悪する。
紳士は、努力を続けてきた人間だ。父親と呼ぶべき若者を目指し、あるいは、妻である少女と並ぶために。けっして無理はしない。だが、でき得る限りに努力を続け、昨日の自分より強く、賢くなれるように、意識してきた。だから、意図せず眠ってしまったことに、嫌悪を感じたのである。
とはいえ、切羽詰まるほど自分を追い込んで生きてきたわけでもない。だから、軽い、自己嫌悪だ。
「……どうかしたの?」
そんな自己嫌悪より、大変な事態が隣で眠っていた。だから、紳士は声をかける。自身の腕に頭を乗せた、少女に。
「…………」
きっと返答があると思って問うた言葉は、どうやら空回りした。少女が自分の前で完全に無防備になったのは、いったい、いつ以来だろう? 紳士は記憶を、少年だったころまで想起する。
状況を確認しよう。紳士は動けないままに、頭を働かせた。昨夜は、ソファで眠ってしまったはずだ。しかし、いまはベッドで寝ている。シングルベッドがふたつ並んだ部屋だったはずだが、なぜだか少女と同衾していて、彼女は自身の腕の上で、寝息を立てていた。
「なるほど、解らない」
紳士は呟いた。ベッドへは、少女が運んでくれたのだろう。だが、そのまま一緒に寝ているのが解らない。たしかに夫婦ではあるが、こんなふうに同じベッドで寝た経験など、たぶん、おそらく、きっと、ないような気がする。紳士はそう思った。
たぶん、おそらく、きっと。こういうときは、欲情するのだろう。そう、なんの気なしに思った。だが、そう理性的に思うほどに、紳士は冷静だった。というか、そんな気が起きなかった。たぶん、そう思えるほどに、紳士は少女を、対等に感じられずにいたのだ。
「わたしは、きみのそばにいて、よかったのだろうか」
自問する。眠って無防備な少女の頬を撫で、言葉にする。
少女は、特別だ。『シェヘラザードの遺言』をその頭に宿し、人間の限界に到達して、『異本』を巡る物語の、その、中核にいる。そんな特別な彼女のそばにいるには、自分は、あまりに平凡だ。そう、紳士は自己嫌悪した。
それを、なんとかするために、自己研鑽した。もともと、向上心も、探求心もあった。だけれど、少女と出会って、少女を愛して、紳士は、意識的に、努力を始めた。
だが、届くはずもなかった。少女の、特別な力には。
たしかに、彼女が強さ、賢さを手に入れたのは、偶然だ。『シェヘラザードの遺言』を読み、その特異な力を、その身に宿したからだ。しかし、それが運だろうがなんだろうが、彼女はそれを手に入れて、それを使いこなしている。運だろうがなんだろうが、手に入れることが叶わなかった、自分は、やはり、普通だ。そう、自己嫌悪する。
ふう。と、息を吐いて、その悪感情を吐き出した。少女がわずかでも求めてくれている。自分で自分を見限るのは、やめておこう。そう思う。
「まだわたしは、わたしを認めていない。だから――」
まだ、離れないでくれよ。と、その言葉を、紳士は飲み込んだ。
「時間は、いいのかな? ……なら、まだ少し、眠ろうか」
少女の体温を感じながら、まだ、あと少しだけ――。
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「最後まで、手は出さないのね」
少女は起き上がり、言葉をかけた。もう一度、眠りの海に落ちて行った、紳士に。
自分の、夫へ向けて。
「まあ、あなたらしいわ。だから――」
ぶんぶんと、首を振る。紳士は眠っている。たしかだ。少女の慧眼で確実に、確認している。だから、どうせ誰も聞いていない。
それでも、言葉に言い淀んで、口を閉ざす。
軽く、紳士の頬を撫でた。直前で紳士がそうしたように。
「本当のわたしなら、素直に言えるのかしら」
本当の。という言い方は、違うかもしれない。本来の。かな。少女は頭で、言葉を探す。いくら賢くても、自分の気持ちなんて解らない。抽象的な概念に当て嵌める言語など、そんなもの、この世界中のどこにも、答えはないのだから。
いくらか、そうしていた。ただ黙って、紳士の頬を撫でる。ときおり寝言のような声を上げ、眉をしかめる。夢の中でも努力している、彼を見て。
少女は、小さく、笑った。泣きそうな、顔で。
「時間ね」
紳士だけを見つめて、時計なんかも確認していないのに、少女は、確信をもって言った。勘違いの余地なんてない。もう、時間だ。
そんなことが解る自分に、嫌気がさす。本当に本当に、嫌になる。
だから、最後に、そんな鬱憤を晴らすように、一言。
「愛しているわ、ヤフユ」
恥ずかしさで、肩が上がった。んんぅ、と、言葉にならない声を上げる。顔が赤く染まったのを、鏡なんて見なくても、理解した。数日前にも同じことを伝えた。でもあのときは、そのことに照れている余裕がなかったのだ。こんな、安らぎの中で、しかもこっそりと呟く言葉は、まるで秘め事のようで、こそばゆい。
だから、本当に本当に本当に、なんなのよ。と、自分自身に、やつあたりをする。
「起きなさい! ヤフユ!」
そして、もうひとりにも、やつあたりをする。紳士は、ものすごい声を上げながら、起床した。
気をつけなきゃいけないわ。少女は、思った。苦しそうに悶える紳士を見て。
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