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台湾編 本章 ルート『憤怒』
人を蝕む言葉の毒
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斬って。斬って斬って斬って斬って、斬り落とした。だが、一滴の血も流れない。ゴリマッチョはいまだ、佳人の皮膜しか斬っていなかった。
次々と、際限なく生成される、皮膜。それらは佳人の精神状態の不安定さからか、当初ほどの硬度を保っていない。しかし、それでも邪魔な防壁には違いなかった。
だから、まだ、佳人の血は流れていない。正確には、佳人は一度、ゴリマッチョに腹部を傷付けられているが、それはまったく、浅い。宝戟、傘此岸による傷であるから、塞がってはいないはずだが、それも、強制的に覆われている。佳人の『異本』による、生成された皮膜で。
つまるところ、血は流れていないのだ。ゴリマッチョの胸に空いた、その穴以外からは。
血を、流しすぎた。そう、ゴリマッチョは判断する。筋肉を収縮させ、無理矢理傷口を閉じ、止血はしている。だが、その程度では賄えないほどの大怪我だった。どうあがいても、完全に血を止めることはできない。アドレナリンの分泌も相まって、なんとか誤魔化してはきたが、ゴリマッチョもそろそろ限界なのだ。
だから、彼は舌打ちした。彼は自分自身を好いていたし、自分以外の力など過信しない。いや、むしろ忌避すらする。それゆえに、ずっと使っていなかったアイテムが、宝戟以外にもまだ、あった。
それに頼るのは癪だ。しかし、もう、そうもいっていられない。目的のためには手段を選んでいられないと、彼は、部屋の隅に打ち捨てておいたそれを、拾い上げた。
*
『異本』には、毒がある。そのことをゴリマッチョは、よく知っていた。幼いころ――彼がまだ、貴族だったころ、一度だけ、彼は『異本』と邂逅している。
その一冊は、『ソロモンの献詞』。かつてコンスタンティン家に所蔵されていたそれは、御家の崩壊とともに手放されていた。そしてそれは、のちに男たちが、キルギスで蒐集しようとした一冊でもある。だが、その裏では、WBOが別方面から手回しして、紙一重で、男たちより先に蒐集を完了していたのだ。それが現在では、なんの因果か、再度、成長したゴリマッチョの手に収まっていた。
その性能は、『自己実現』。自身のなりたい自分に成長するという、身体強化系の『異本』である。
その、いつの間にか埃をかぶっていた一冊を手に取り、改めてゴリマッチョは舌打ちした。
彼の、甘いマスクに不似合いな全身の筋肉は、その『異本』により形成されたものだ。たしかに彼は、そのような姿を望んだ。だがそれは、己が鍛錬で、やがて到達するべきものだった。こんな、『異本』だかなんだかの特異な力で、容易く達成されていい目標ではなかったのだ。
本当に、世界は狂ってやがる。声には出さないが、そう、彼は再確認した。ただ自分は、自分でありたい。自分らしく、生きたい。その程度のちっぽけな願いすら、世界には叶える度量がないらしい。
ふつふつと、『憤怒』が燃える。
「もらうぞ、その力――」
眼前に迫った触手を斬り払い、ゴリマッチョはイメージする。
全身の皮膚が、硬質化する、イメージを。
*
稲雷くんは、なにを考えていたんですかねえ。そう、ゴリマッチョは考えた。
若者、稲雷塵とは、WBOの会合で顔を合わせたことがある。数回だが、言葉だって交わしたはずだ。どんな会話をしたかは覚えていないが、彼が、掴みどころなく飄々として、すべてを達観するように、あるいは諦観するように、なんとも虚無的に存在していたことは覚えている。
ともあれ、彼の性格や思想はおいておくとしても、彼が、弱冠八歳でWBOにおける最重要の役職、『異本鑑定士』として組織に所属していたことは確かだ。それは、ゴリマッチョが壮年に助けられるよりも、昔から組織にいたことと同義である。
それほどまでに『異本』への親和性が高かった彼が、娘たちに授けた『異本』の特性を知らなかったとは思えない。こんな――怪物のごとき心や体になるほどの多感な娘に、よりによって身体強化系の『異本』を持たせた。その意味とは?
いや、あるいは、彼が理解できていなかったのは、娘の方なのか。これほどまでの『憤怒』を娘が抱けることを、想定できていなかっただけなのか。だとしたら――。
「こんな……子どもどころか大人にも――人類にすら過ぎる力を安易に持たせたのなら、稲雷くん」
筋肉だけでは塞ぎきれない傷口を、鈍色に硬質化する皮膚で、覆う。眼前の佳人と同様に自己実現して、当面の止血を完遂した。
「おまえを殺したのは、ひどく正しかった」
自身の頭に割り込む、べつの存在を知覚する。相手の身体変化を把握し、それを模倣しただけだ。そのうえ、身体の一部にしか用いてもいない。それでも瞬間、意識を奪われそうになる。
人間の身体。その範囲内の身体強化なら、これほどまでの毒性はない。だが、佳人の皮膚強化は、その使用法ゆえに、人類の範疇を外れていた。こんなものを全身に纏っては、心が食われるのも当然だ。
「正……し……かった…………?」
瞬間、佳人は行動を停止した。ゴリマッチョが彼女を真似たように、佳人も、眼前の彼をコピーしたかのようだ。『憤怒』を、絶えず世界に発散するように、全身を上気させる。怒りが、体温を上げて、全身の汗腺を開く。流れる汗が火照った体から蒸発して、オーラのように彼女を包む。
外見からだけででも、佳人の雰囲気が変わった――いや、戻ったことを、ゴリマッチョは確信する。
「……やっと起きましたかあ。クソガキ」
自身もさらに、意識して発汗し、佳人に対抗するようにオーラを、纏う。
そうか、こいつを追い詰めるには、恐怖より『憤怒』のほうがよかったか。そう、ゴリマッチョは、確認。
「安心したよ。あんたが本当の悪党で。……復讐をしても良心は痛まない」
ようやっと、佳人は佳人として回帰して、その右腕を、いびつで巨大な槍のごとく尖らせた。
それを一気に――。
――――――――
稲荷日三姉妹弟が持つ『異本』――それぞれ、『一角獣の被験者』、『不死鳥の卵』、『神々の銀翼と青銅の光』は、あるアマチュア作家が三人で企画し、それぞれが一冊ずつを執筆、そして、互いで互いのために贈り合った、小説である。
というのも、とある雑誌の文通相手募集欄で知り合った彼らだが、仲を深めていくうちに互いに、それぞれが同じ年、同じ日に生まれたことを知って、さらに意気投合。もともと小説を書く同志として文通を始めたこともあり、自然と、次のお互いの誕生日にそれぞれ、一作を書き上げ、贈り合おうという運びになったのだ。
これはそんな、小さな奇跡から生まれた作品たちだ。だが、そんな美しい物語も、現実では、美しいだけではいられない。
まるで三つ子のように生まれた彼らは、たしかに気が合った。結局、生涯、直に合うことはなかったけれど、それぞれが他界するまで、交流は続いた。
だが、直に合うことはなかった、それが話を――彼らの感情を、こじれさせる。
彼らは互いに、文面上は友好的でも、その内心、互いを憎悪し合った。いや、その憎悪は、彼らの誰も、己が内に認識していなかった。ただ、同じ年月日に生まれたからこそ、スタート地点は同じはずであり、であるのに、自分より相手の方が優れていると、そう、感じてしまうことが多くなった。無意識のうちに。
その『憤怒』が、きっと顕れたのだ。お互いの誕生日に贈り合った作品たちは、作者の意にそぐわぬままに、相手に対する呪いになる。これら作品は、その時点ではまだ、『異本』ではなかった。特別な力など持たない、ただの、小説だ。
それでも、文字は、人を殺す。胸を掻きむしるような哀愁で、突き付けられる絶望で、圧倒的な恐怖で。だが、彼らにとっては特異なことに、あまりに同じであるのに、あまりに違いすぎた、互いの才能に対する劣等感で――。
彼らは、彼らを殺した。誰もその結末を、少なくとも表面上、望んでなどいなかったのに。
世界の因果は、いともたやすく、物語を台無しにする。
次々と、際限なく生成される、皮膜。それらは佳人の精神状態の不安定さからか、当初ほどの硬度を保っていない。しかし、それでも邪魔な防壁には違いなかった。
だから、まだ、佳人の血は流れていない。正確には、佳人は一度、ゴリマッチョに腹部を傷付けられているが、それはまったく、浅い。宝戟、傘此岸による傷であるから、塞がってはいないはずだが、それも、強制的に覆われている。佳人の『異本』による、生成された皮膜で。
つまるところ、血は流れていないのだ。ゴリマッチョの胸に空いた、その穴以外からは。
血を、流しすぎた。そう、ゴリマッチョは判断する。筋肉を収縮させ、無理矢理傷口を閉じ、止血はしている。だが、その程度では賄えないほどの大怪我だった。どうあがいても、完全に血を止めることはできない。アドレナリンの分泌も相まって、なんとか誤魔化してはきたが、ゴリマッチョもそろそろ限界なのだ。
だから、彼は舌打ちした。彼は自分自身を好いていたし、自分以外の力など過信しない。いや、むしろ忌避すらする。それゆえに、ずっと使っていなかったアイテムが、宝戟以外にもまだ、あった。
それに頼るのは癪だ。しかし、もう、そうもいっていられない。目的のためには手段を選んでいられないと、彼は、部屋の隅に打ち捨てておいたそれを、拾い上げた。
*
『異本』には、毒がある。そのことをゴリマッチョは、よく知っていた。幼いころ――彼がまだ、貴族だったころ、一度だけ、彼は『異本』と邂逅している。
その一冊は、『ソロモンの献詞』。かつてコンスタンティン家に所蔵されていたそれは、御家の崩壊とともに手放されていた。そしてそれは、のちに男たちが、キルギスで蒐集しようとした一冊でもある。だが、その裏では、WBOが別方面から手回しして、紙一重で、男たちより先に蒐集を完了していたのだ。それが現在では、なんの因果か、再度、成長したゴリマッチョの手に収まっていた。
その性能は、『自己実現』。自身のなりたい自分に成長するという、身体強化系の『異本』である。
その、いつの間にか埃をかぶっていた一冊を手に取り、改めてゴリマッチョは舌打ちした。
彼の、甘いマスクに不似合いな全身の筋肉は、その『異本』により形成されたものだ。たしかに彼は、そのような姿を望んだ。だがそれは、己が鍛錬で、やがて到達するべきものだった。こんな、『異本』だかなんだかの特異な力で、容易く達成されていい目標ではなかったのだ。
本当に、世界は狂ってやがる。声には出さないが、そう、彼は再確認した。ただ自分は、自分でありたい。自分らしく、生きたい。その程度のちっぽけな願いすら、世界には叶える度量がないらしい。
ふつふつと、『憤怒』が燃える。
「もらうぞ、その力――」
眼前に迫った触手を斬り払い、ゴリマッチョはイメージする。
全身の皮膚が、硬質化する、イメージを。
*
稲雷くんは、なにを考えていたんですかねえ。そう、ゴリマッチョは考えた。
若者、稲雷塵とは、WBOの会合で顔を合わせたことがある。数回だが、言葉だって交わしたはずだ。どんな会話をしたかは覚えていないが、彼が、掴みどころなく飄々として、すべてを達観するように、あるいは諦観するように、なんとも虚無的に存在していたことは覚えている。
ともあれ、彼の性格や思想はおいておくとしても、彼が、弱冠八歳でWBOにおける最重要の役職、『異本鑑定士』として組織に所属していたことは確かだ。それは、ゴリマッチョが壮年に助けられるよりも、昔から組織にいたことと同義である。
それほどまでに『異本』への親和性が高かった彼が、娘たちに授けた『異本』の特性を知らなかったとは思えない。こんな――怪物のごとき心や体になるほどの多感な娘に、よりによって身体強化系の『異本』を持たせた。その意味とは?
いや、あるいは、彼が理解できていなかったのは、娘の方なのか。これほどまでの『憤怒』を娘が抱けることを、想定できていなかっただけなのか。だとしたら――。
「こんな……子どもどころか大人にも――人類にすら過ぎる力を安易に持たせたのなら、稲雷くん」
筋肉だけでは塞ぎきれない傷口を、鈍色に硬質化する皮膚で、覆う。眼前の佳人と同様に自己実現して、当面の止血を完遂した。
「おまえを殺したのは、ひどく正しかった」
自身の頭に割り込む、べつの存在を知覚する。相手の身体変化を把握し、それを模倣しただけだ。そのうえ、身体の一部にしか用いてもいない。それでも瞬間、意識を奪われそうになる。
人間の身体。その範囲内の身体強化なら、これほどまでの毒性はない。だが、佳人の皮膚強化は、その使用法ゆえに、人類の範疇を外れていた。こんなものを全身に纏っては、心が食われるのも当然だ。
「正……し……かった…………?」
瞬間、佳人は行動を停止した。ゴリマッチョが彼女を真似たように、佳人も、眼前の彼をコピーしたかのようだ。『憤怒』を、絶えず世界に発散するように、全身を上気させる。怒りが、体温を上げて、全身の汗腺を開く。流れる汗が火照った体から蒸発して、オーラのように彼女を包む。
外見からだけででも、佳人の雰囲気が変わった――いや、戻ったことを、ゴリマッチョは確信する。
「……やっと起きましたかあ。クソガキ」
自身もさらに、意識して発汗し、佳人に対抗するようにオーラを、纏う。
そうか、こいつを追い詰めるには、恐怖より『憤怒』のほうがよかったか。そう、ゴリマッチョは、確認。
「安心したよ。あんたが本当の悪党で。……復讐をしても良心は痛まない」
ようやっと、佳人は佳人として回帰して、その右腕を、いびつで巨大な槍のごとく尖らせた。
それを一気に――。
――――――――
稲荷日三姉妹弟が持つ『異本』――それぞれ、『一角獣の被験者』、『不死鳥の卵』、『神々の銀翼と青銅の光』は、あるアマチュア作家が三人で企画し、それぞれが一冊ずつを執筆、そして、互いで互いのために贈り合った、小説である。
というのも、とある雑誌の文通相手募集欄で知り合った彼らだが、仲を深めていくうちに互いに、それぞれが同じ年、同じ日に生まれたことを知って、さらに意気投合。もともと小説を書く同志として文通を始めたこともあり、自然と、次のお互いの誕生日にそれぞれ、一作を書き上げ、贈り合おうという運びになったのだ。
これはそんな、小さな奇跡から生まれた作品たちだ。だが、そんな美しい物語も、現実では、美しいだけではいられない。
まるで三つ子のように生まれた彼らは、たしかに気が合った。結局、生涯、直に合うことはなかったけれど、それぞれが他界するまで、交流は続いた。
だが、直に合うことはなかった、それが話を――彼らの感情を、こじれさせる。
彼らは互いに、文面上は友好的でも、その内心、互いを憎悪し合った。いや、その憎悪は、彼らの誰も、己が内に認識していなかった。ただ、同じ年月日に生まれたからこそ、スタート地点は同じはずであり、であるのに、自分より相手の方が優れていると、そう、感じてしまうことが多くなった。無意識のうちに。
その『憤怒』が、きっと顕れたのだ。お互いの誕生日に贈り合った作品たちは、作者の意にそぐわぬままに、相手に対する呪いになる。これら作品は、その時点ではまだ、『異本』ではなかった。特別な力など持たない、ただの、小説だ。
それでも、文字は、人を殺す。胸を掻きむしるような哀愁で、突き付けられる絶望で、圧倒的な恐怖で。だが、彼らにとっては特異なことに、あまりに同じであるのに、あまりに違いすぎた、互いの才能に対する劣等感で――。
彼らは、彼らを殺した。誰もその結末を、少なくとも表面上、望んでなどいなかったのに。
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