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台湾編 本章 ルート『正義』
Fool's answer
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彼の残像を追うように、その部屋のへりにたどり着いた男は、瞬間に、いろいろなことを思い出していた。
壮年は語った。1990年、新しい命が誕生した。
かつて老人は、『憂月』と名乗っていた。
エディンバラで、『彼』――ムウが、「おまえたちは、己が『家族』を殺めるだろう」、と、言った。
壮年は、1992年、日本に行っている。
壮年の名は、『リュウ・ヨウユェ』だ。
老人と初めて会ったとき、男は彼に「ジンはおまえより年上だ」と言われた。
北投温泉にて、男が見た夢。
そもそも、彼らの息子は、いったいどこへ行ったのか?
そんな男の人生、そのすべてが、走馬灯のように彼の脳内を、須臾のうちにフラッシュバックした。その程度のわずかな時間では、情報の精査はできない。しかし、直感的に男は、『答え』をとうに、導き出していた。
だが、もはや、遅い。答え合わせをするにも、文句を言うにも、ぶん殴りたくとも、もう、その相手は、手の届かないところにまで落ちている。落ちこぼれて、しまっている。
男だって馬鹿じゃない。少なくとも、その、地上300メートルを超えるほどの高さから落下して、生きていられるなどと思うほど、楽観的でもなければ、全能感も足りない。
この物語は、これで、終いだ。幸い、壮年はすでに、役割を終えている。彼は最後の話をする前に、男へ、すべての『異本』を譲り受けられるだけの準備を整えてくれていた。具体的には、『世界樹』にある『異本』を、手に入れるためのメモ書きを、デスクに遺してくれている。
その『許可証』のことなど、男はこのとき、すっかり忘れていた。もし覚えていたなら、その現実に気を向けた一瞬で、彼の――彼らの運命は、また違った様相を見せたかもしれない。
違った――というよりかは、本来の、と、言うべきか。
そちらの方こそが、そもそも少女の思い描いていた結末へと繋がる、唯一のルートだったのだから。
「俺は――」
ふと、男は呟いていた。
繰り返そう。男だって決して、馬鹿ではない。
高層ビルの、地上60階。高さにして300メートルを超えるその高さから落下して、普通の人体が――あるいは『異本』などによりある程度、強化された人体だろうと、それが『人体』の範疇である以上、助かるはずもない。
そして、男は冷静だった。冷静に、自らの衝動を、客観的に、見れていた。
「俺は、なにをしている――?」
なんかぶつぶつ言ってる。という、いつかの少女のセリフを思い出す。
思い出して、笑う。
「本当に、俺は――」
――馬鹿だ。
その言葉は、飲み込んだ。飲み込まざるを、得なかった。
恐怖で、声が出ない。自分の身体なのに、自分の思う通りに動かない。……いや、違う。
思った通りにしか、動いてくれない!
とうに落ちた壮年に、手を伸ばす。地上60階から半身を外へ出し、危険な体勢だ。だが、しっかりと踏ん張って、落ちないようにバランスはとれている。
だから、それは、自らの意思だった。
ただし、理性ではなく、本能的な――衝動的な、行動。
だが、間違いなく己が望んだ、感情だ――。
「――――――――っ!!」
ふと、彼は想起した。それは、義兄である稲雷塵の、遺言――。
『きみは、間違ってない――』
丁年から伝え聞いた、あの、特段に強い意味などなさそうな、軽佻浮薄な義兄の、ふざけた言葉――。
『――自分の感情に、迷うな――』
けっして、その記憶に背中を押された、などと、言い訳はしない。
これは、男の――彼自身の、行動だ。
「う、お、おおおおぉぉぉぉ――――!!」
落ちこぼれる父親を掴もうと、助かりはしない落下を、受け入れたのは。
「クソ……野郎っ!!」
風に舞い、吹き上げられたボルサリーノだけが、その絶叫から逃れるようにふんわりと、空中に取り残されていた。
――――――――
「まったく――」
その一歩目は、感情の問題も相まって、深く、壁にめり込んだ。
それでも、二歩目も、三歩目も、変わらず壁を踏み抜き、進む。落下する。
その落下のさなか、障害物のように立ち塞がるボルサリーノを乱暴に掴み、少女は、
「んんっ――!!」
それを唇に、挟み、咥えた。
そのまま、走るように、壁を下る。下り落ちる。
体重を仮に、80キログラムとすると、約9秒で、人体は300メートルを自然落下する。それが、タイムリミット。そして、地面に到達する直前の速度は、秒速50メートルを超える。100メートル走の世界記録が、ジャマイカのウサイン・ボルト氏が2009年に残した9.58秒なので、単純に計算したとしても、秒速では10メートルそこそこだ。
もちろん、少女は落下している。位置エネルギーによる重力加速度が加わるので、地上を走るよりはよほど速いだろう。それでも、すでに少女と、男や壮年とは、距離的な隔たりがある。
その差を詰めて、彼らを救うには、残り時間は相当に、シビアだった。
「うんむう、うにむっふいんゆ、んんんんっ――!!」
地面に垂直にそびえる壁を、普通に走るわけにはいかない。『走る』という行為には、わずかなれど、『空に浮く』動作が含まれる。地上ではその『跳躍』は、重力に抑えられ、すぐに地面へと戻される。だが、その重力の助けが期待できない、垂直な壁の『走行』では、壁から離されないための工夫が必要だ。
そのための、足を壁に、めり込ませる動作。あるいは、足の握力で壁に自身を引き戻す行為が必要だが、それらがいちいち、走行速度を鈍らせる。
「んむうい、みうむいんんっ!!」
苛立ちを、焦りを、唸る。何度計算しても、ぎりぎり、間に合わない――。
その無慈悲な答えが、少女をさらに、追い詰める。自分が間に合わなくとも、彼らを救う手立ては、ある。それらはすでに、進行している。だから、完全に手詰まりというわけではないのだ。
しかし、追い詰められた少女は、苛立ち、焦り、身体をうまく動かせずにいた。一歩一歩、壁に足をめり込ませる行為は、タイムロスだ。足の指先に力を込めて、握力を込めて、壁から離れる身体を引き戻すようにするだけでいい。だけど、つい力を込めすぎて、足が壁にめり込んでしまう。
咥えたままのボルサリーノなんて、投げ捨てればいい。それが男の大切なものとはいえ、無理に持っていくこともない。そのへんに投げ捨てても、あとで取りに行けばいいだけだ。それを口に咥えているせいで視界も悪いし、それがさらに、少女の焦燥を加速させていた。
少女は、あらためて痛感していた。
彼女の頭に刻まれた『異本』、『シェヘラザードの遺言』は、心までは強化できない。どれだけの力と、洞察眼を得ても、動揺したら意味をなさないのだ。
「んんむい――」
もう、時間がない。特に、先に落下を始めた壮年は、男よりも約二秒は速く、地面に叩きつけられる。
正直、少女にとっては、壮年の命など、男のものに比べたら些末なものだ。それでも、助けられる命なら助けたいし、なにより壮年が死んだら、男の失意は救われない。
半分以上無意識な行動とはいえ、男は、壮年を救うために身を投げたのだ。命を懸けたのだ。
その、文字通りの『懸命』は、報われなければならない。報われてほしい。
それがたとえ、望んだ通りではなくとも。壮年が仮に、死ぬしかなかったとしても、あとわずか、一言二言、言葉を交わせるくらいには、報われなければ!
「むに……むいっ――――!!」
少女は、涙を浮かべながら、駆けた。
壮年は語った。1990年、新しい命が誕生した。
かつて老人は、『憂月』と名乗っていた。
エディンバラで、『彼』――ムウが、「おまえたちは、己が『家族』を殺めるだろう」、と、言った。
壮年は、1992年、日本に行っている。
壮年の名は、『リュウ・ヨウユェ』だ。
老人と初めて会ったとき、男は彼に「ジンはおまえより年上だ」と言われた。
北投温泉にて、男が見た夢。
そもそも、彼らの息子は、いったいどこへ行ったのか?
そんな男の人生、そのすべてが、走馬灯のように彼の脳内を、須臾のうちにフラッシュバックした。その程度のわずかな時間では、情報の精査はできない。しかし、直感的に男は、『答え』をとうに、導き出していた。
だが、もはや、遅い。答え合わせをするにも、文句を言うにも、ぶん殴りたくとも、もう、その相手は、手の届かないところにまで落ちている。落ちこぼれて、しまっている。
男だって馬鹿じゃない。少なくとも、その、地上300メートルを超えるほどの高さから落下して、生きていられるなどと思うほど、楽観的でもなければ、全能感も足りない。
この物語は、これで、終いだ。幸い、壮年はすでに、役割を終えている。彼は最後の話をする前に、男へ、すべての『異本』を譲り受けられるだけの準備を整えてくれていた。具体的には、『世界樹』にある『異本』を、手に入れるためのメモ書きを、デスクに遺してくれている。
その『許可証』のことなど、男はこのとき、すっかり忘れていた。もし覚えていたなら、その現実に気を向けた一瞬で、彼の――彼らの運命は、また違った様相を見せたかもしれない。
違った――というよりかは、本来の、と、言うべきか。
そちらの方こそが、そもそも少女の思い描いていた結末へと繋がる、唯一のルートだったのだから。
「俺は――」
ふと、男は呟いていた。
繰り返そう。男だって決して、馬鹿ではない。
高層ビルの、地上60階。高さにして300メートルを超えるその高さから落下して、普通の人体が――あるいは『異本』などによりある程度、強化された人体だろうと、それが『人体』の範疇である以上、助かるはずもない。
そして、男は冷静だった。冷静に、自らの衝動を、客観的に、見れていた。
「俺は、なにをしている――?」
なんかぶつぶつ言ってる。という、いつかの少女のセリフを思い出す。
思い出して、笑う。
「本当に、俺は――」
――馬鹿だ。
その言葉は、飲み込んだ。飲み込まざるを、得なかった。
恐怖で、声が出ない。自分の身体なのに、自分の思う通りに動かない。……いや、違う。
思った通りにしか、動いてくれない!
とうに落ちた壮年に、手を伸ばす。地上60階から半身を外へ出し、危険な体勢だ。だが、しっかりと踏ん張って、落ちないようにバランスはとれている。
だから、それは、自らの意思だった。
ただし、理性ではなく、本能的な――衝動的な、行動。
だが、間違いなく己が望んだ、感情だ――。
「――――――――っ!!」
ふと、彼は想起した。それは、義兄である稲雷塵の、遺言――。
『きみは、間違ってない――』
丁年から伝え聞いた、あの、特段に強い意味などなさそうな、軽佻浮薄な義兄の、ふざけた言葉――。
『――自分の感情に、迷うな――』
けっして、その記憶に背中を押された、などと、言い訳はしない。
これは、男の――彼自身の、行動だ。
「う、お、おおおおぉぉぉぉ――――!!」
落ちこぼれる父親を掴もうと、助かりはしない落下を、受け入れたのは。
「クソ……野郎っ!!」
風に舞い、吹き上げられたボルサリーノだけが、その絶叫から逃れるようにふんわりと、空中に取り残されていた。
――――――――
「まったく――」
その一歩目は、感情の問題も相まって、深く、壁にめり込んだ。
それでも、二歩目も、三歩目も、変わらず壁を踏み抜き、進む。落下する。
その落下のさなか、障害物のように立ち塞がるボルサリーノを乱暴に掴み、少女は、
「んんっ――!!」
それを唇に、挟み、咥えた。
そのまま、走るように、壁を下る。下り落ちる。
体重を仮に、80キログラムとすると、約9秒で、人体は300メートルを自然落下する。それが、タイムリミット。そして、地面に到達する直前の速度は、秒速50メートルを超える。100メートル走の世界記録が、ジャマイカのウサイン・ボルト氏が2009年に残した9.58秒なので、単純に計算したとしても、秒速では10メートルそこそこだ。
もちろん、少女は落下している。位置エネルギーによる重力加速度が加わるので、地上を走るよりはよほど速いだろう。それでも、すでに少女と、男や壮年とは、距離的な隔たりがある。
その差を詰めて、彼らを救うには、残り時間は相当に、シビアだった。
「うんむう、うにむっふいんゆ、んんんんっ――!!」
地面に垂直にそびえる壁を、普通に走るわけにはいかない。『走る』という行為には、わずかなれど、『空に浮く』動作が含まれる。地上ではその『跳躍』は、重力に抑えられ、すぐに地面へと戻される。だが、その重力の助けが期待できない、垂直な壁の『走行』では、壁から離されないための工夫が必要だ。
そのための、足を壁に、めり込ませる動作。あるいは、足の握力で壁に自身を引き戻す行為が必要だが、それらがいちいち、走行速度を鈍らせる。
「んむうい、みうむいんんっ!!」
苛立ちを、焦りを、唸る。何度計算しても、ぎりぎり、間に合わない――。
その無慈悲な答えが、少女をさらに、追い詰める。自分が間に合わなくとも、彼らを救う手立ては、ある。それらはすでに、進行している。だから、完全に手詰まりというわけではないのだ。
しかし、追い詰められた少女は、苛立ち、焦り、身体をうまく動かせずにいた。一歩一歩、壁に足をめり込ませる行為は、タイムロスだ。足の指先に力を込めて、握力を込めて、壁から離れる身体を引き戻すようにするだけでいい。だけど、つい力を込めすぎて、足が壁にめり込んでしまう。
咥えたままのボルサリーノなんて、投げ捨てればいい。それが男の大切なものとはいえ、無理に持っていくこともない。そのへんに投げ捨てても、あとで取りに行けばいいだけだ。それを口に咥えているせいで視界も悪いし、それがさらに、少女の焦燥を加速させていた。
少女は、あらためて痛感していた。
彼女の頭に刻まれた『異本』、『シェヘラザードの遺言』は、心までは強化できない。どれだけの力と、洞察眼を得ても、動揺したら意味をなさないのだ。
「んんむい――」
もう、時間がない。特に、先に落下を始めた壮年は、男よりも約二秒は速く、地面に叩きつけられる。
正直、少女にとっては、壮年の命など、男のものに比べたら些末なものだ。それでも、助けられる命なら助けたいし、なにより壮年が死んだら、男の失意は救われない。
半分以上無意識な行動とはいえ、男は、壮年を救うために身を投げたのだ。命を懸けたのだ。
その、文字通りの『懸命』は、報われなければならない。報われてほしい。
それがたとえ、望んだ通りではなくとも。壮年が仮に、死ぬしかなかったとしても、あとわずか、一言二言、言葉を交わせるくらいには、報われなければ!
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