箱庭物語

晴羽照尊

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台湾編 本章 ルート『正義』

残雪の望

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 男は、後悔などしていなかった。していなかったが――。

「おわああああぁぁぁぁ――――!!」

 支えるものなどなにもない。四方八方に掴めるもののひとつもない空中で、男はもがいた。深海に、飲まれるように。

 こうなれば、後悔など――恐怖すら感じる暇はない。ただただ落下する。愚拙に、重力に従い、引力に捉われ、やがて地面に叩きつけられる。
 こんなものは、悪意ですらない。ただの自然の摂理だ。そしてそれを選んだのも、彼自身だった。

 彼と、彼。
 彼らの、思惑だ。

「く、そ……!」

 男は、まがりなりにも理解していた。落下することで、自らが死に至ること。それでも、行く、ということ。あの限られた時間の中だろうと、彼はちゃんと、理解していたのだ。

「クソ――――!!」

 だから、男は落下開始から、コンマ数秒で、自我を立て直した。姿勢をまっすぐに。頭を下にして、空気抵抗を弱くする。
 そうして落下速度を上げ、すでに遠く離れた目標に、少しでも近付こうと加速した。
 だが――。

(届かねえ――)

 そう、男は思う。

 いや、そもそも、届いたところでどうだというのだ。まごうことなき死を目前にし、瞬間、壮年を掴んだとて、それで、どうなる?
 男は、そこまでは考えていない。ともすれば、壮年を助けようという意識すらなかっただろう。

 ではなぜ、彼は飛び降りた? 壮年のあとを、追ったのだろうか。

 ただの衝動だったのか。彼を救えるとでも思っていたのか。瞬間でも、一言でも、彼に追い付き、言葉を交わしたかったのか。ともに死ぬことこそを望んでいたのか。
 あるいは、男が飛び降りることで、誰かが――男の『家族』である誰かが、助けに来てくれることを信じていたのか――。

 ――と、いろいろ例示してはみたが、この場面において、理屈や理論は適応できない。考えこそ巡らし、多くを理解して――理解したつもりで行動したとはいえ、やはり男は、すべてを精査して飛び降りたわけではないのだ。とはいえ、まったくの衝動というわけでも、ない。
 これはおそらく、男自身も理解しておらず、誰かに説明を促されても、きっと答えようもないことなのだろう。

 それでもそれは、その行動は、彼にとっての『正義』だった。

 男にとっての記憶は、なにもない、寒い冬から始まる。どこにも、なにをも、頼るものなどない、ひとりぼっちの世界。
 なにも持たない、身ひとつの存在から、ここまで歩んできたのだ。

 だから男は、ここまでに手に入れた、すべての関係を大切にしている。それはもう、過剰なほどに、懸命に、愛している。
 そして同じように、大切な者たちから、大切にされていると、愛する者たちから、愛されていると、感じている。その応酬が心地よいことを、知っている。どれだけの救いになるかを、とっくに、知っていた。

 それを……それを――。

「まだ、待て――。リュウ・ヨウユェ――!!」

 あの壮年にも、伝えたい。と、男は、無意識にそう、思っていたのだ。

        *

 こちらは、とうに覚悟した者だ。
 だが、覚悟は、していなかった。

「馬鹿な――」

 男が、自らを評するに踏み止まった言葉を、壮年は、第一に吐き捨てた。

「馬鹿か……おまえはっ!?」

 精一杯に、叫んだ。その声は、徐々に加速する落下に置き去りにされて、それでも、男に届く間もなく掻き消える。

 後悔、していた。男とは対照的に、壮年はひどく、後悔していた。

 そもそも、彼は後悔しっぱなしだ。裕福な家庭に生まれこそしたが、実の両親からは愛情など感じたこともない。母親に至っては会ったことすらない。いくら金があろうと、彼は、幸福などとは無縁に育った。
 それゆえに、彼も、人を愛することを知らずに生きてきた。愛という感情そのものすら、架空の物語の中にしか存在しないとすら思っていた。

 そんな彼の心を解かしたのが、彼女だった。のちに妻となる、バイ心花シンファ。天衣無縫で、天真爛漫な、彼女のすべてに、壮年は救われた。

 壮年は、いつからかちゃんと、愛を知っていったのだ。

「やめろ……戻れ……!」

 どうしようもないことを、叫ぶ。

 愛を知ろうと、それを実現していくことは、はるかに難しい。壮年は、人を愛したことなど、なかった。彼自身は、己が人生を想起するに、そのように思うのだった。

 人を愛する感情が、まだ、解らない。『愛』自体は解る。壮年はそれを、知っている。

 だが、知れば知るほど、愛は壮大だった。それだけの大きな感情を、誰かに抱くことは難しい。壮年は、自分には、感情が欠如していると思えてならなかった。そのうえ、そうなるべき環境に生まれ、生きてきた。

 本当に、落ちこぼれだ。人として生まれ、人を愛することすらできない、欠陥品だ。

 だから我が子すら、育てることができなかった。愛し、可愛がる感情が芽生えなかった。そのくせ、彼女の面影を残した息子を、そばで見続けることすら重荷になり――

「おまえは、死んではいけない――っ!!」

 いともたやすく、捨てたのだ。なおざりなままに、

 ――――――――

 1992年、五月。日本。

 ――てめえ、ふざけたことを言ってるんじゃねえぞ、リュウ!――

 ――俺には無理だ。そばにいると、きっといつか……殺してしまう――

 ――じゃが――

 ――この子を生かすことが、シンファの願いだ――

 死んだような目で、死んだような声で、無機質に語る。その言葉に、相手は、息を飲んだ。

 ――シンファが子を欲したのは、きっと、受け継ぐためだ。この子は、死んではいけない――

 ――……生きるかどうかは、そいつ次第じゃろ――

 嘆息して、しぶしぶと、その者は諦めた。

 ――そのへんに捨てておけ。生きる気があれば、いつか、この場所へ来るじゃろう――

 そもそもその者も、子育てなどどうするものか、まったく見当もつかない者であった。それでも、眼前の教え子の、あるいは、すでに死んだ教え子の、手助けはしたかった。あるいは、その原因の発端ともいえる、己が過ちを償おうと。

 まずは、子を持つ感覚が必要だ。それとともに、『その子』が万が一来たときのために、『家族』を用意しよう。そうだな、兄弟が、ふたりか三人くらいは――。

 こうして、彼らは共犯となった。あくまで、『その子』の自立意思に任せ、だが、ときおり遠くから様子を見て、死なぬようにだけ、最低限の手を出して。

 きっと、そんなことにはならないだろう。そう楽観に思っていた。町で一番大きな屋敷で、つまるところ、金持ちそうに暮らしていたとて、『その子』がその屋敷を訪ねてくるなど、なかなかあることでもない。

 だが――もし――。

 そのか細い糸が結ばれるようなら、それもまた、因果だ。
 そのときはきっと、物語に従おう。

『きっとこの子は、『異本』への切り札になる』

 どの口が言うのだ。そう辟易しつつも、『先生マエストロ』も、同じ感覚を、抱いてしまっていたのだった。

 ――――――――

 はっ――! と、壮年は、我に返った。

 死んだ――。いや、生きている。まだ、地面には達していない。
 だが、もう死は近く。また、遠く見えていた男の姿は、いまだ、遠いまま。

(どうしようもない……か)

 自分自身、死にかけているただなかだ。己が身すら救えない。救う気にすら、なれない。
 そんな状態で、いったいなにができる? 死なせてはいけない者を、死に追いやった。こんな愚かな落ちこぼれに、いまさら、なにができるというのだ。

 なにも、できない。こんな塵芥な存在には、もとよりなにも、できることなどなかった。
 だから、せめて――。

「本当に、すまない……」

 地に着く瞬間を目前に、壮年は、精一杯に懺悔した。

 目を閉じて、死を、受け入れる。



 ああ、これでようやく――。

 彼女のもとへ、逝ける――。




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