箱庭物語

晴羽照尊

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台湾編 終章

雪月花の時 最も君を憶う

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 その光景に、壮年ははっとした。
 そして、再認識する。

「俺たちは、幸福だ」

 両腕を広げ、演説するように、主張する。もういい大人が、なりふり構わず、懸命に声を上げる。天衣無縫に、天真爛漫に、その思いを高々と叫ぶ。
 なんという馬鹿だ。年甲斐もなく子どもみたいに、恥も外聞もなく、内心をさらけ出すとは。青臭く、泥臭く、暑苦しい。後先考えていないし、自分勝手で、自己陶酔だ。好き勝手わめいて、そのくせ周囲を巻き込む、とんでもない迷惑人だ。

 だが、その姿は――

「おまえは――」

 壮年は、その姿に、いつかの彼女を重ねた。どれだけの残酷を見せつけられても、どんなに理不尽に裏切られても、それでも世界を愛することをやめなかった、彼女のようだと。

「――本当に、あいつの子だ。バイ心花シンファの」

 私を――俺を救ってくれた、あの女性の、忘れ形見だ。そう、壮年は理解した。

「…………」

 そして彼は、また、空を見上げる。いつも通りの、月を見上げる仕草。いや、そうじゃない。

 思わず溢れた涙を、零さないように、隠すように。天に還った彼女を、思うように――。

 シンファ――。おまえは、私のためにこの子を遺したのだな。そう、解ってしまった。彼女を失った世界で、壮年が、生きる希望を失わないように。彼女によく似た、彼女を受け継いだ存在を、壮年のもとへ遺そうと。

 それなのに、壮年は、間違った。似ているからこそ、自らの子を疎んでしまった。だが、いまなら解る。

 この子がいれば、自分は間違わなかった。落ちこぼれながらも、正しく生きることができた。愛した女性を悼み、偲ぶこともできただろう。彼女だけを至高とし、いつの間にか周囲の仲間を――『家族』を、ないがしろにするようなこともなかった。

 なにより本当に、人を愛するということをちゃんと、理解できた。彼女のことを、本当に愛していたと。そう胸を張れるように、なれただろう。

 そんな平凡な人間に、きっとなれたのだ。その道をふいにしたのは、他でもない、自分自身。

「本当に……本当に、私は――」

 まったくもって、落ちこぼれだ。とんでもない愚か者だ。そう、思う。
 だが――。



「ヨウ」

 片腕を、引かれた。ささやかにも強く。

「ちゃんと向き合わなきゃ。今度こそ」

 司書長がそう、言った。



「リュウ様」

 逆の手を包むように、娘のような者が、しがみついてくる。

わたくしを、置いてかないで」

 そばかすメイドが力いっぱい、壮年を掴んだ。逝かせないようにと、そう言うように。



「リュウ」

 息子のような声が、正面から向き合ってくる。

「私は、あなたが好きだ。尊敬している。だからまだ、一緒にいたい」

 若人はまっすぐ、そう言った。逃げることを許さないような、強い瞳で。



「リュウよ」

 背中を強く叩かれた。年老いても、一度死んだ身であろうと、親のような力強さで。

「『逃げんなよ』」

 老人が――『先生マエストロ』が、言う。

「あいつからの伝言じゃ。おまえと、儂へな」

「『先生マエストロ』……。リオ、が?」

「最初から、解って始めたことじゃ。逃げられはせんのじゃよ、罪からは。たとえおまえが、死のうとも」

 背を叩いた手が、壮年の肩に置かれる。やせ細った老体の、その全体重をかけるように、それは、ずっしりと重かった。
 だから、もう逃げ場はない。目を逸らしてはいられない。仲間に――『家族』たちに諭され、壮年はやっと、諦められた。

「本当に、私は――私たちは――」

 顔を降ろして、男を直視する。だから、溢れていた涙が、流れた。

 落ちこぼれだ。愚か者だ。馬鹿だ。罪深く、間違いばかりだ。――いろいろと、続く言葉はあった。だが、ここで言うべき言葉は、決まっている。





「本当に…………幸福だな」





 なにを失おうと、いかに間違おうと、どれだけの絶望に飲み込まれようと。
 世界は常に、素敵を用意している。



「ああ、……ぞっとしねえほどにな」

 男はおどけて、そう返した。

リュウ憂月ヨウユェ

 彼の名を、一度、正しく呼んで。

 ――――――――

 ――いつか、あるとき。

 老人は考えた。の代わりに、親代わりをすることになるかもしれない。であれば――。

「せめて、本当の、親の名を――」

 憂月うづき。日本名で、そのように、名乗ることとしよう。

「どうしたのじゃ、パパ」

 眠そうな目を擦り、覚えたての、たどたどしい言葉で、当時の童女は言った。

「ホムラ。儂、今後は『憂月』と、そう名乗ることとした」

「知らんのじゃ。パパはパパなのじゃ」

「…………」

 ふああぁぁ……。大きなあくびをして、童女は寝室へ向かった。ただ寝惚けていただけのようだ。

「……ガキの扱いは、相変わらず解らんの」

 老人はひとり、ごちた。

 このさき、そんな子どもガキどもを面倒見るなど――いや。

 ともに生きることになるなどと、いまだ、現実感を持たないままに――。

 ――――――――

 はっ、と、気付いて、壮年は片腕を振り払った。その手を握る司書長を。そうして空いた腕で、目元を擦る。涙を、拭う。

「改めて、『異本』をおまえに託そう。氷守こおりもりはく

 照れ隠しのようにそう言って、振り払ったばかりの司書長に目配せし、心を通わせる。その意図を酌み、彼女は行動した。

「シンねえさんの息子になら、安心してお任せできます」

 はい。と、彼女は己が持つ『異本』、『啓筆けいひつ』序列九位、『フォルス・エンタングルメント』を、男へ差し出した。

 それから、「ソナエ」と、壮年は若人へも指示を出す。声を掛けられた彼も、「どうぞ」と、どこか不本意な表情で、男へ、持つ『異本』、『啓筆』序列八位、『黄泉怪道よみかいどう流転回生るてんかいせい』を差し出した。

 あるいは、そばかすメイドも静かにかしずき、『異本』、『ブールーダの鉄面形てつめんぎょう』を差し出した。その『異本』は、女傑との戦闘において、一度彼女に譲渡している。しかし、『潜影』の力を持つそれは、影に潜み、高速移動することに適している。それゆえ、壮年を助けに駆けつける際に利用するため、そばかすメイドはちゃっかりと、女傑から奪い返していたのだった。

「いや、あの……」

 その大仰な光景に、男は委縮した。
 受け取らないわけにはいかないだろう。しかし、どうにも居心地の悪い状況だ。それに、それ以上に――。

「リュウさんよ。こうなった以上、俺が『異本』を受け取る意味はねえだろう? 『異本これ』をこの先どうするかは、俺がひとりで決めていいことじゃねえ。俺と、あんたで――」

「いいや、やはり、おまえが決めるべきことだ。きっとそれを、シンファも望んでいる」

「…………」

 そう言われてもなあ。と、男はやはり、委縮し続けていた。

 たぶん、彼ら――壮年の『家族』とも言うべき、司書長や、そばかすメイドや、若人にとって、『異本』とは必ずしも、大切なものではない。それでも、それは彼らと、壮年の絆でもあるはずだ。それを奪うのは、少しだけ気が引ける。

 とはいえ、壮年が決断したことだ。男が受け取らなければ話が進まないことも、理解していた。そしてやはり、男自身、『異本』をすべて集め、封印する。その決意を、捨てたわけでもないのだし。

「後悔しねえか。リュウ・ヨウユェ」

 一冊一冊、しっかりと受け取り――受け継ぎながら、男は確認する。

 どういう気持ちであれ、『異本』にずっと向き合ってきたのは、壮年も同じはずだ。その結末が、自分じゃない他者へ委ねられた。その決断に、後悔はないのか。

 だが、そんな気遣いを、壮年は小さく鼻で、笑い飛ばした。

「それが、シンファの思いだ。後悔など、あるはずがない」

 その視線は、言葉とは裏腹に、天を見据えていた。まるで太陽のように煌々と輝く、あの、満月を。

 ところでずっと、壮年はなにを見ているのだろう? ふとそう思い、男もその月を、見上げる。そのとき――

「「わあぁ――っくしゃ!」」

 その親子は、そろってくしゃみをして、なんかいろいろと、台無しにしたのだった。

        *

「ところでよ」

 はなをすすりながら、男は最後に、気になっていたことを思い出した。

「俺の名前は、本当はなんていうんだ?」

 いまさら、そんなものを知っても、どうとも思わない。俺は、氷守薄だ。それはきっと、変わらない。

 だが、自分を生んだ彼らが、いったいどんな思いで、どんな名をくれたのかは、興味が湧いた。

 壮年は、男と同様に洟をすすり、少しだけうつむいた。遠い昔を懐かしむように、微笑する。

家雪ジャシュェ。……バイ家雪ジャシュェ、だ」

 中国――あるいは台湾では、結婚した夫婦は、基本的にそれぞれの生来の性をそのまま名乗る。しかしその子は、の性を受け継ぐ。

「おまえは、美しく、まるで祝福のような、雪の降る夜に生まれた。そしてきっと、素敵な家族を育めるようにと。……そうだ。珍しくシンファが、強くそう、命名を主張した」

 それゆえに、その名に、どれだけの思いを込めていたか、壮年は再認識する。あいつは本当に、『家族』に、強い憧れを抱いていたのだ。そう思う。

「白家雪」

 その名を呼んでみて、男は「ふっ」と、鼻で笑った。それは少しばかり、自分には似合わねえ。と。

「せめて、あんたの性を名乗らせろよ。リュウ

 そう言うと、壮年は目を丸くした。

 この子は、彼女の子だ。彼にとっての氷守薄――白家雪とは、そういう存在だった。自分のような落ちこぼれの子であってはならない。なにより、自分はその子を、放棄した身だ。

 だから、男の提案は、寝耳に水だった。そんなことが、あっていいものか。そうとまで思ってしまう。そんなことが、許されるのか、と。

 だが、不思議なことに、その提案に、壮年は胸が弾むようだった。奇妙な歓喜に、打ち震えたのだ。

「後悔、するなよ」

 そうとだけ、言う。そして、あまりに自分勝手な彼は、こう思うのだ。

 ああ、そういうことか。と、気付く。たとえこいつが、この先、どこかでこのときの選択を、悔やんだとしても――。

 その決断に救われた人物がひとりいるのだから、やはり。

 それは、間違いじゃ、なかったのだ。と――。
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