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「ミハエル…大丈夫ですか。」
「はい…すみ、ません。」
 
 ロンに連れられて戻ってきたミハエルの顔色は悪く、ヨナハンは戸惑ったように声をかける。こんな状況で道案内を頼むのも気が引けていると、ロンがくまのぬいぐるみを取り出した。
 
「ええと、宰相様の場所までの案内はこの子がするよ。ヨナハンくん、悪いけどミハエルちゃんをこのままにしておくわけにもいかないから…、わかってくれるよね。」
「ええ、それは俺も思っていました。」
「君が紳士で助かるよ。ほらももちゃん、ヨナハンくんをよろしく。」
 
 桃色のぬいぐるみが、ググッと四肢を引き伸ばす。たたっと軽い足どりでヨナハンの周りを一周すると、まるでついてこいといわんばかりに駆け出した。
 
「ごめんなさい、また今度。」
「ああ、ミハエルもお大事に…」
 
 心配げな視線を向けるヨナハンに、ミハエルは答えられなかった。ロンがその華奢な背に手を添えると、医術局まで送っていくと気を回してくれた。
 ヨナハンの姿が見えなくなると、ミハエルは小さな声で呟く。
 
「け、検査…は、」
「ばれたくないなら、終業後。僕のラボに来て。場所はわかるよね。」
「はい…、」
 
 顔色を失うとはこういうことなのだろうな。ロンは可哀想なくらい動揺しているミハエルに眉を下げると、そっとその体を抱きしめた。
 
「大丈夫だよ、この事は誰にも言わないし、本当は局長に言った方がいいんだろうけど、ミハエルちゃんは知られたくないんでしょ。」
「はい、…っ」
「ああ、もう泣かないで、きっとなんとかなるって!ね!」
 
 自分と背丈の変わらないロンに縋り付くように抱きつきながら、ヒックと嗚咽を漏らす。ああ、今日は仕事にならないだろう。ミハエルはもうどうしようで頭が埋め尽くされていた。
 ロンはポケットからもう一つのぬいぐるみを取り出すと、ミハエルは体調不良で帰りますと声を乗せてから医術局に向かうように術をかけた。小さな声でごめんなさいと謝り続ける姿が痛い。もうすぐ昼休みが始まる。ここにいたらダラスも帰ってくるだろう。ミハエルにそう告げると、また終業後に来ますと言って頷いた。
 
「ミハエルーーー!!ブラッシングしろ!!」
 
 なんという絶妙なタイミングか。酷くご機嫌なサリエルが、お気に入りのブラシを抱えて姿を現したのを見て、ロンはホッとした。
 
「ああ、ちょうどいいや。ちょっとミハエルちゃん任せちゃっていいかな。」
「おやちび。このサリエルに指図するとは頭がたか、おおう、おおおお?」
「あらあ、メンタルやばいやつだねこれは。」
 
 サリエルが姿を現した途端、ふらふらと近寄ったミハエルがぎゅうぎゅうと抱きつく。サリエルはギョッとしたまま背に手を回すと、全くわからんと言った具合にロンを見た。
 
「なんでこいつはこんなに荒れている。心ん中ぐっちゃぐちゃで俺も気分が悪くなりそうだ。」
「ウンウン、ミハエルの神様なら助けてあげて、とりあえず彼が落ち着ける場所までよろしく。」
 
 ミハエルの心象に引き摺られたらしいサリエルが、獅子の耳をペタリと下げる。どうやら只事ではないと悟ったようだ。その体を軽々と抱き上げると、ふんっと鼻で笑うような失礼な返事をして黒い炎を纏った。
 
「訳がわからんが、お前のせいだとしたら後程焼き殺す。」
「こっわ!!やめてよ!!」
「せいぜい遺書でも書いておくように。オサラバ。」
 
 サリエルの肩に顔を埋めたミハエルが、何かを言おうとしたタイミングで炎が二人を包み込んだ。荒々しい退場の仕方に引き攣り笑みを浮かべたが、ロンはため息ひとつ、さて検査の準備を秘密裏に進めなくてはと、慌ただしく自分の席に戻るのであった。
 
 
 ブワリと膨れ上がった炎が途切れて、サリエルが転移をしたのは、ミハエルとサリエルが契約を交わしたあの屋敷の中であった。今は誰も使っていないというここは、城の元第二王子の使っていた部屋と繋がっており、二人はたまにここでお昼を取ったりしていた。バレなきゃいいかでサリエルがミハエルを連れ込みすぎて、最初は嫌がっていたミハエルも、今はもう慣れたらしい。根城にしている古臭いソファの上にどかりと腰掛けると、サリエルはひっついたままのミハエルの頬をべろりと舐めた。
 
「おい、いい加減泣き止め。俺が具合悪くなるでしょう。」
「……。」
「おい無視ですか、お前は一体いつからそんなにいい御身分になりましたか。」
「痛い…やめて…」
 
 ザリザリと猫科らしい舌でミハエルの涙を舐めていたサリエルが、舌をしまい忘れたままむくれた顔でミハエルを見る。抱きついたまま離れない体を支えるように腰に腕を回すと、大きなため息を吐いて肩に顎を乗っけた。
 
「はあああ、お前は何をそんなに塞ぎ込んでいる。言わねばわからんでしょう。お前は俺の神様ですよ、悩みの一つや二つ、燃やして消す事だって可能なのに。」
 
 サリエルの悩み解消の手段は基本的に物理である。冗談めかしにそんなことを言ってやったというに、ミハエルときたらまた泣き出す始末。一体何がしたいのだこいつはと無理やり体を引き剥がすように顔を見ると、今にも死んでしまいそうなくらいの落ち込み具合にギョッとした。
 
「おゎ…マジなやつですか。」
「誰にも、言いませんか…」
「…それはおねだり?」
 
 か細いミハエルの声がそんなことをいう。サリエルはどうやら面倒臭い匂いがするなあと思ったが、仕方なく頷いた。
 
「妊娠、したかも…しれなくて…」
「は?」
 
 ミハエルの言葉に、サリエルはポカンとした。
 
「お前、メスでしたか。それとも薬を使った?」
「薬を、飲んだのです、多分。」
「息子殿の子ですか。全くお前はトラブルメーカーですなあ。」
 
 タシン、とサリエルの尾がソファを叩く。がしりとミハエルの体を掴んで腹を見えやすくすると、赤い瞳孔がきらりと光る。
 
「な、何を…っ」
「ふん、ああ…いるな。混ざっている。」
「え、」
「まじまじと見るとわかる、息子殿の魔力がお前のと混じっている。」
 
 サリエルの目には明らかだった。ミハエルの薄い腹の中にある、二つの魔力。それは柔らかな光を宿しながら、確かに形を作っていた。
 
「今日の夜、検査をするのです…、そんな、わかるのですか?」
「お前ね、俺を誰だとお思い。サリエルですよ。神の目は何にもごまかされません。」
 
 ペたりとサリエルの掌がミハエルの腹に触れる。戸惑いの色を浮かべる姿に小さくため息を吐くと、サリエルの腕の金の蔦模様がシュルリと動いた。
 
「まだ宿ったばかりだ。今ならなかったことにできるけども。」
 
 サリエルの色のない声がミハエルの耳に鮮明に届く。ドクンと跳ね上がった心臓と、襲いかかってきた恐怖感。その言葉に、ミハエルは悲鳴まじりに叫んだ。
 
「っ、い、いやだ、やめて!」
 
 身を守るかのように、サリエルの腕から浮かびあがろうとした蔦を手で抑える。真っ青な顔をして身を震わすミハエルを見て、サリエルは心底面倒臭そうな顔をした。
 
「なんだ、いらないから怖がっていたのではないのか。」
「い、いやだ…サリエル、怖いことしないで…」
「おいおい、答えになっていないですよ。おまは何に怯えている。」
「う、っ」
 
 がしりと顎を掴まれ、サリエルが顔を寄せる。ミハエルからは、後悔と、そして怯え、その中に微かに混じる小さな喜びのような匂いを感じ取ると、サリエルは歪に口端を吊り上げて笑った。
 
「おや、おやおや。お前から上等な匂いがする。そうか、サディンや周りに迷惑をかけると怯えているくせに、喜んでもいるのか。」
「や、めて…」
「うはは!あいつに嫌われて、捨てられたとしても、腹の子が縁になると!あはは!いいなあ!いい性格をしている!」
「やめて!!」
 
 犬歯を剥き出しにして、サリエルが喜ぶ。こんなに愉快なことってない。このお綺麗なド糞真面目はやはり俺の好ましい愛し子だと、声を上げて大喜びをした。
 愛しい男の子を孕んで、相手から厭われる恐怖と、そして縋れる縁を得たと考える醜い自分の執着の間に苦しめられている。ああ、いい、醜くて、それはとっても可愛い。
 
「ミハエル、ああ、可愛いなあお前は、俺はお前のそういう、意地汚くて不器用なところを愛している!!」
「うるさい、うるさい…っやだ、黙って!」
「素直に嬉しいと叫べばよろしいじゃないか、ほら、笑え、笑って喜べってば。」
「やだよ…っ!いやだ、き、嫌われたくない…っ!」
「あいつが何を一番嫌うか、お前は馬鹿だから、まだ理解しないのだなあ。」
 
 サディンは秘密を嫌うのに、馬鹿なミハエルは変に気を回して口にはしないだろう。そのくせサディンから愛されたい、ずっとこのままがいいと願っているくせに、相手の知らぬ間にできた腹の子を喜ぶ。怯えと戸惑いの中に隠されたミハエルの小さな喜びを、素直に受け入れて仕舞えば楽なのに。
 
「お前は醜いよ、サディンに言わぬまま、隠そうと考えている時点でな。」
「ひ、んぅ…っ!」
 
 サリエルの顔がぐっと近づく。両頬を包まれ、固定されたまま、執着の神であるサリエルの爛々と輝く瞳に囚われる。べろりとミハエルの唇を舐め上げる。まるでとろめく果実のような、そんな甘美な味わいに、サリエルは嬉しそうに微笑んだ。
 
 
 
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